デジカメぶらりぶらり

デジカメのほやほやの写真をご覧下さい。

世襲

2010-05-30 07:08:25 | Weblog
参院のドンと呼ばれた自民党の青木幹雄氏が引退を決め、後継に長男が決まりそうな選考に河野太郎氏が異議を唱えた。

その理由が世襲への批判だったと言うから恐れ入る。「そんなこと、よく言えるね」である。本人も世襲議員ではないのか、党内でもそうした声があったと言うが、二,三世議員の感覚が世間の常識とずれている現実を垣間見た思いだ。

米国の大統領がブッシュ氏で、日本の首相が福田康夫氏だったころの政治小話がある。「米国は北朝鮮と同じだ。親子で大統領をして民衆主義だと言っている」と笑った者がいた。

それを聞いた福田氏が青筋を立てて怒った。「それのどこが悪い!」安倍内閣時には作家の堺屋太一氏が日本政界を、「ベルサイユ化」と評した。地方の実情も知らない世襲のルイ16世が取り巻きの貴族と政権を担うのに似た危なさを言ったのである。

後の麻生内閣の末路はほぼ指摘通りとなった。迷走続きの鳩山首相の体たらくを、民衆党の問題としてではなく、自民党時代から続く世襲首相の「縮小再生産」の結果と考えれば理解できる点が少なくないと思うが、どうだろう。

ウイルス

2010-05-28 05:34:19 | Weblog
物々しい防護服で口蹄疫対策に走り回る姿が報じられている。いやでも1年前の大騒ぎを思い出す。

あれも見えない敵、ウイルスとの闘いだった。集団感染で学校は休み、行楽地は閑古鳥、「マスク列島」という奇妙な光景と、ワクチンが足りぬという悲痛な大合唱の末、「新型」に振り回されたという後味のわるさを残して終息した。

今度の大騒ぎは逆のようである。大したことはあるまい、という甘い予測が裏目に出た。と専門家は言う。インフルエンザで騒ぎ過ぎて痛い目にあった。「教訓」が、今度は油断を招いたのか。

皮肉にしか思えない騒ぎが、1年を経てまた起きた。新型インフルは、衆院選も直撃した。人を大勢集めてもいいのか、握手をしても大丈夫なのか。いま思えば笑うしかない。政権交代の大合唱は、新型インフルに劣らぬ騒ぎだった。

挙げ句、興奮からさめた後味の悪さが、急速に広がっている。熱しやすいが、さめるのも早い。決して自慢にはならぬ私たちの習性である。病んで殺される牛や豚たちが、あらためてそれを教えてくれる。熱するのか、さめるのか。今度は参院選が迫る。

アシ

2010-05-26 07:56:17 | Weblog
アシをすだれに活用する記事があった。見出しに「厄介者」とある。アシを放置すれば環境悪化の元になるからだが、アシは水質改善にもなるヨシと同じものだという。

元々アシ(芦・葦)と呼んだが「悪し」の響きが嫌われて、平安時代末期に「善し」のヨシ(葦・葭)の名前が登場した。

現在の葭生産はアシとヨシは区別されて、ヨシに混じって生えるオギと言う植物をアシというからややこしい。アシからヨシへの変化は教訓に満ちている。

中身が変わらないのに、呼び方が変わるだけで善と悪が入れ替わったように思われるからだ。身近にも10ケ月前に「ヨシ」と思われた政権が坂を転げ落ちるように「アシ」になった例がある。

評価が変わっても自分は何も変わっていないと言いたいのだろう。揺れは民主政治の本質とまで言う。強風に揺らぎはしても折れそうもなく、何を考えているかもわからない「アシ」が、国に生い茂るばかりである。

ことば

2010-05-24 05:56:53 | Weblog
「は」と「わ」の使い分けは意外と難しい。なぜ「こんにちわ」といいながら「こんにちは」と書くのか。即答できる人は少ない。

金沢で開かれた日仏自治体交流会議の置きみやげがある。街角の看板表記「こんにちわ」に異議が出た。正式には「こんにちは」とすべきだが、そこに制作者の遊び心が入ったらしい。

例えば、フランソラーズ・モレシャンさんなら「こんにちわ」が似合うということかもしれない。日本人でも気軽に「こんにちわー」という時に「こんにちはー」ではなじまない。

昭和30年代の歌謡曲に「お月さん今晩わ」とあるのも不思議だ。富山の総曲輪は「そうがわ」で「そうがは」ではない。最近は最後の「わっ」と強調した愉快な商店街フラッグが街中にはためいている。

「わ」に和や輪を当てる遊びもある。古代からある文字と発音の変遷史は複雑で、今も動いている「わ」と「は」は、「え」と「へ」の使い分け同様に難しい。「ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し。

言葉は時とともに変わる。時代の何がそうさせるのか。面白い宿題である。

子供歌舞伎

2010-05-22 05:38:23 | Weblog
子供歌舞伎の伝統がる、お旅祭りの小松で華麗な舞台が運じられた。芝居のシの字の心得のない者でも、なぜか心が引かれる。

今年のお旅まつりの演目は、武士の悲劇を主題にした一幕と切ない悲恋物語。忠義と裏切り、道ならぬ愛と悲しみという複雑な人間模様を、子供たちが演じた。

PTAから「子供に見せたくない芝居」と、ヤリ玉に拳がる中身である。が、脈々と続く伝統は、「それがどうした」と意に介さない。

逆に、裏切りや悲恋の「迫真の演技」を指導する。もっと背伸びして演じてみろ、と励ます。子供役者たちは、大人になってもせりふを大概覚えているという。

理解できぬまま口にした言葉の意味が、時がたってから分かってくる。そうして会得する美しい日本語の世界もある。

大人の教材を使ったすてきな課外授業である。食べやすい食材だけが栄養になるわけではない。お子さま向けがあふれる時代である。だからこそ、歯が立たないような芝居に挑み、懸命に背伸びする子供役者にひかれるのだろうか。

ライチョウ

2010-05-20 08:00:44 | Weblog
30年ほど前、5月初旬立山の室堂の斜面の雪の中でライチョウをいくらでも見たという。最近はそう簡単に会うことはない。

先日、白山では絶滅したはずのライチョウが発見された。DNAから御岳山付近から渡ってきたと分かった。北アルプスから雲海の白山から、遠く孤島を目指して旅を始めた一羽のライチョウをいとおしく思った。

白山のライチョウは昭和初期に絶滅したといわれるが、明治26年の新聞にも「白山でライチョウ発見」との記事がある。当時既に希少種だったのだろう。昭和の能登で絶滅したトキが脚光を浴びているが、絶滅の「先輩」白山ライチョウの研究も大事である。

この300年で地球上から消えた鳥類は130種を超えるという。かつての炭鉱ではガス探知機の替わりに鳥が使われた。環境変化を伝え人間を救う犠牲になったのが鳥だった。絶滅は自然淘汰ばかりではなかろう。

白山での発見を機に「全国ライチョウ会議」が初めて石川県で開かれる北陸の環境変化を示す神の鳥の生態に迫ってほしい。

タケノコ

2010-05-18 06:22:30 | Weblog
タケノコ掘りがたけなわでる。今年は、オモテの年たっぷり収穫が見込める。雨後のタケノコのように、新党も当たり年である。

タケノコ掘りは難しい。知人がいうには、見つけるのがひと苦労。地面をわずかに持ち上げているのがおいしい。素人が飛び付くほど頭を出してしまったものは、もう「化けて」しまっている。

タケノコは「半時探し、半時掘る」という。掘り出すのも大変である。複雑に入り組む地下茎を切り続ける忍耐強い作業である。

新鮮な美味は、簡単には手に入らない。何よりも、掘る以前の竹林の手入れが大切である。伸び放題の竹が乱雑に育つ所では、栄養が吸い取られてしまう。荒れた土地では、とても食えないタケノコしか育たない。

だから手入れを怠るな、と何度言ったことか。それでも聞く耳を持たず、ややこしいカネが染みたままである。5月のタケノコのことではなく、雨後の新党が出てきた政治という土壌のことである。

高速道

2010-05-16 06:16:42 | Weblog
高速道の渋滞には閉口する。「1000円では渋滞にも文句は言えぬ」。と、高速道を利用する人は言う。

ふるさとへのUターンも、渋滞回避が大問題で、遅い時間に集発して早めに帰る人たちが増えた。帰省先でのくつろぎの時間は削られることになる。

果たして1000円高速はありがたいことなのか、ただ慌ただしいだけなのか。その料金が、平日でも上限2000円になるのか、ならないのか。

雲行きの怪しいはなしが、また一つ増えた。いまの料金体系を見直して、「原則無料」とした選挙公約に、ブレーキがかかった。

苦肉の策の見直し案が出たが、それにも見直せ、と声が出た。見直しの連発で、話はさっぱり分からなくなる。が、政治家よりも「選挙屋」と呼ぶにふさわしい人たちが、派手に火花を散らしていることは、はっきりと分かる。

そのとばっちりが、われわれを見舞う。渋滞は厄介だが、いつかは前に進める。高速道の迷走運転は、危険極まりない。やがて痛い目が待つ。

県外

2010-05-14 07:21:57 | Weblog
7月も練りに練った命がけの腹案とはこれだったのか。意外性も苦渋の決断の跡も見られない。「どうせそんなことだろう」と皆が思っていた通りの案を並べて沖縄へ再度負担のお願いである。

怒り、落胆、失望などの言葉が飛び交っているが、普通の感覚の持ち主ならとてもできない対応だ。鳩山首相の不思議な思考回路を心配したくなるほどである。

先日の基地県内移転反対集会を地元の女子高校生たちが取材した。その後に感想を話していたのを放送していた。県外移転をためらう女子生徒の言葉が胸にしみた。

同じ日本人として「人のいやがるものを押しつけるのは何だかいや」と、日本国内の米軍基地の7割強が沖縄に集中している。なぜ沖縄だけが犠牲を強いられるのかとの思いが基地移転の力となっている。その現実を十分知っていて、なお女子生徒はそう言うのだった。

戦後65年の沖縄の苦悩がここにある。わずかでも「県外」の名がつけば公約違反にはならないと見る分析もある。だから徳之島の名を出すなら、これほど島民を愚弄した話はない。「最低でも県外」の実態は、「最低の県外案」である。

ブルカ

2010-05-12 06:34:32 | Weblog
「べルギーでブルカ禁止」。こんな記事が載った。イスラム教徒の女性が全身を覆う衣装「ブルカ」や「ニカブ」を禁止する欧州の動きを伝えている。

顔が見えないとだれか分からず治安に問題があるから禁止するという。フランスではこんな話もあった。イスラム教徒で外国籍の男がフランス人の妻に「ブルカ」着用を強制した。

男性は仏国籍取得を申請中だったが、仏移民相はこれを拒否したという、国民が守るのは、国家か宗教か民族か。国の法律より宗教的な戒律や民族の習慣を優先させることもある。

移民や出稼ぎが増える今日、各国で国民の多様化が進み、法治国家の常識をあらためて考えさせる事態が起きている。日本も例外ではない。

永住外国人への地方参政権問題のその一つだろう。子ども手当も同じ根っこが見える。在留外国人に支給して、海外在住の日本人の子どもに支給はないのかかつては単純だった問題が複雑にねじれている。

「国際化」を、こんな形で迎えるとは思いもしなかった。国民の条件とは何か。法律とはだれのものかを考えてみたい。