デジカメぶらりぶらり

デジカメのほやほやの写真をご覧下さい。

雪おこし

2009-12-31 08:01:04 | Weblog
冬の雷「雪雷」「雪おこし」と言う。「ブリ起こし」の呼び名は、大人になるまで知らなかった。

今は学校の郷土学習で教わるそうである。ようやく寒波到来。寒さは漬物をおいしくする。折りしも、正月用かぶらずしの本漬けにかかる時期である。

寒さの中で漬け込むと、こうじが懸命に働いて味に奥行きを与え、香りを豊かにする、という。こうじが、「汗をかく」と言う。氷見ブリに代表される北陸ものは絶品で、海外にも自慢できる。

太平洋側のブリよりも味は勝る。理由は簡単明快で、厳しい北陸の海を活発に泳ぎ回ることで、身にたっぷりと油が蓄えられる。当地の冬は、こうじを働き者に変え、おいしいブリを育てる。

寒さに「巣ごもり」を決め込むとメタボになってしまうのは、人間だけではなさそうである。かぶらずしのおいしさは、汗をかくことと動き回ること。

肌を刺す北風は時に心や体をすくませるが、こうじやブリを見習って、正月までもうひと踏ん張りである。

全国民

2009-12-29 07:12:31 | Weblog
「全国民の要望」と言って小沢民主党幹事長が鳩山首相に提出した予算要望の中に、小沢氏独自の判断だったものがあったと言う。

「全国民」を名乗る基準はどこだろう。議会制民生主義では52対48でも52の勢力が権力を握る。選挙に勝つことはそれだけ大事なことなのだが、52%で「全国民」と名乗ることは、まずないだろう。

民主党に届いた声をそのまま「全国民」に転化させたのは飛躍がすぎた「党とは小沢であり、政府とは小沢であり、国民とは小沢なのか」との批判が高まるのも無理はない。

天皇会見問題にも通ずることがある。64年前の敗戦に「一億総ざんげ」と言った首相がいた。軍国主義に流れた歴史を全国民が反省する必要があると言ったわけだが、戦争責任を国民に押し付けるものと猛反対を受けた。

「国民」という言葉は時の勢力につごうよく使われる。国民に選ばれたとはいえ、政治家は「私ひとり」で責任を取るものだろう。もっとも「最後は私が決める」との首相の言葉を、だれも信じない現実がある。

総ざんげするほどでもないが、国民の1人としてこれは悲しい。

再審

2009-12-27 07:07:01 | Weblog
42年前に起きた「布川事件」の再審が決定し、強盗殺人罪で服役した男性2が無罪になる公算が大きいという。

無罪が確実な「足利事件」の再審公判も進行中だ。つい先日には、殺人で死刑が求刑されていた被告が一審二審とも無実となった。

これら裁判で浮上したのは「疑わしきは罰せず」の原則だった。「疑わしきは被告人の利益に」とも言う。

広く知られていながら、この言葉は意外と難しい。語感から言っても変な日本語だ。「いくら疑わしくても、犯罪が立証できないなら罰することはできない」と補足しないと分らない。

その心は、検察側の立証責任の重さをといている。だが、先の再審や無罪判決が続いた殺人事件の公判からは、疑わしいだけで自白を強要して「証拠」がつくられ、あるいは自白を裏付ける証拠がないまま公判が進んだ実態が浮かぶ。

立派な法理論の中身が生かされていない現実が見えるのだ。難解な法律用語をかみ砕いて分かり易くするのは裁判員裁判のためだけではない。

司法界全体が法をより深く理解し、誤審やえん罪を防ぐためにも必要ではなかろうか。

寒波

2009-12-25 07:29:00 | Weblog
地震も雪も暮らしに被害をもたらすが、備えと覚悟があれば痛みは少なくなる。雪に鍛えられて、何のこれしき、と言う覚悟が備わる。

同じ寒波でもケタ違いの冷え込みが、欧州を襲ったと報じられた、地球温暖化を防ぐ国際会議があったばかり。

議論百出、実りがあったのかまるで分らぬ会議の直後、皮肉な寒波襲来である。温暖化防止の覚悟は一筋縄ではいかない。エコバックを手に、盛んに電力を消費する光り輝く街に出掛ける。

テレビは深夜もエコ・キャンペーンを繰り返す。それが紛れもない日々の暮らしであり、今更暗い夜に戻る覚悟まではない。

エコの大切さは、言うまでもないが、「地球を救え」といった大言壮語は身の程知らず、ということも分りかけてきた。損得見え見えのエコもある。

皮肉な寒波は、頭を冷やせということか。


幸せ

2009-12-23 07:21:10 | Weblog
今や日本演劇界の柱ともいえる仲代達矢さんも、終戦直後の十代のころは貧しい勤労夜学生だった。ある学校で職員室の使い走りをしていた。

よく、教師たちのコロッケを買いにやらされた。仲代さんも腹は空いていたが金がない。だれひとり「お前も一つどうだ」と言ってくれた教師はいなかったという。

食い物の恨みは恐ろしいというが、これは恨みの話ではない。幸せな人々のすぐ隣に、その小さな幸せにすらあずかることのない者がいる現実の例えであり、自分では気づかない人間の残酷さの話である。

クリスマスが近づくと童話「マッチ売りの少女」が繰り返し語られる。豊かな家の窓を見ながら、その影で少女はマッチで体を温め、そうして冷たくなっていく。

少女は若き日の仲代さんであり、貧しい戦後を生きてきた日本人一人一人の姿だろう。クリスマスにそうして年の瀬は気持ちがざわつき、暗い先にある薄明かりに気がつかない。静かに「窓の外」にも心を向けて過ごしたい季節である。

いい人

2009-12-21 07:42:08 | Weblog
人あたりがよくて優しそう。こんな男は結局は女性を不幸にするという。八方美人の「いい人」も、裏を返せば優柔不断でいい加減な人になるからだ。

鳩山首相はその「いい人」である。普天間移転を振り出しに戻して不幸になるのは沖縄県民だ。さらに十数年は我慢しろと言っているのに、その残酷さには目をつむる。

連立政権だけは丸く収まる、「いい人をやめると楽になる」という曽野綾子さんの本がある。中身は単純なものではないが、タイトルだけを頂いたようなのが小沢民主党幹事長である。

「いい人」に思われようとしないから何でも言う。悪く思われるのを看板にしてしまった。小沢さんの自著によると「いい政治」が行われなくなったのは、信念を曲げず反対があろうと堂々と主張を貫く政治家がいなくなったからとある。

尊敬する織田信長や大久保利道の名をあげて「彼らは決して万人から好まれタイプではない」(小沢主義)とも記している。が、有権者は「いい人」の幻想を追い続ける。

いい人ぶる人も、いい人になるのをやめた人も、普通の人にとってはどちらも厄介な人である。

分散

2009-12-18 07:27:17 | Weblog
米軍嘉手納基地の新司令官が会見し、普天間の嘉手納統合案に関してこう話した。「全兵力を一つの基地に配置するのは、全ての卵を一つのバスケットに入れるのと同じ」。

危険分散のため複数の基地が戦略上必要だというのだ。沖縄県民の感情を考えれば、他人様の土地で勝手なことを言うなと思うが、基地を預かる軍人としては当然の見解だろう。

米大統領と副大統領は同じ飛行機に乗らないという。万が一の場合、国家の最高司令官が不在になるからだ。どの政府も同じだろう。民間企業でもトップとナンバー2は別の飛行機に乗って危険を分散する。

ノーベル賞授賞式でオバマ大統領は「私は二つの戦争のまっただ中にある国の最高司令官であり」「戦争と言う手段には平和を守る役割もある」と述べた。

賛否相対立する平和賞だが、言うべきことは言っている。沖縄問題では日米間のずれが目立つ。騒音や事故防止を語る日本と、戦争中の国家戦略を優先する米国の溝が深い。

鳩山内閣の面々は、その溝の深さを知りながら知らないフリをして各自勝手なことを言うから、無責任のそしりを免れないのだ。

市電

2009-12-16 05:54:25 | Weblog
函館の市電に乗ったとき、本を傍らに置いて書きものをしている人と隣り合った。一日乗り放題の乗車券を見せて「走る書斎です」と、電車を自慢した。

音と小さな揺れが、考えごとにちょうどいいのだという。車はあっさり追い抜いていく。急ぐには不便な乗り物である。が、車窓は、街のいろんな顔をじっくりと見せてくれる。

生まれ変わった新しいビルと再開発を待つ建物。便利で重宝だが、どこの街にもある全国チェーン店。のれんとシャッターが交じる商店の並び、路面電車が走る街は風格がある、といわれる。

時速35キロは、私たちが忘れかけたゆとりの速度であろう。街を観察するには格好な乗り物である。

手当て

2009-12-13 05:42:01 | Weblog
首相だけでなく弟の元大臣にも母から資金提供があった、と報じられた。えこひいきは、友愛精神にもとる。野党が皮肉る「鳩山家の子ども手当」は、毎日遊んで暮らし、お釣りがくる。

それを私するのでなく、政治の世界に役立てる。あっぱれ、と声を掛けてもいいものだろうか。西郷隆盛の言葉がある。「名もいらず、カネもいらず、命もいらず」。

こんな始末におえない人でなければ、政治の大仕事はできない。そんな言葉を引いて、「私に政治家は務まらない。例え話であっても、名乗るのは恥ずかしい」。

「平成の維新」だそうだが、西郷のような志は聞かない。カネも地位もいらぬ、と言っても失笑をかうだけだろう。始末のおえない政治家など、はやらない時代である。

それでも、始末におえない政治の姿を変えることはできるのだろうか。

仕分け

2009-12-11 06:49:44 | Weblog
行政刷新会議による事業仕分けが連日、注目された。議論は公開でネット中継されていた。

あれもこれもばっさりと言う結果や、一言半句の刺激的なやりとりが、「必殺仕分け人」なる前宣伝の文句に重なる。

それが人気を呼ぶのだろうが、もてはやされているのを見ると、ついヘソを曲げたくなる。「芸が受けるのは、用心しろと言うことだ」と、落語家の桂歌丸さんがいう。

当時の客はノリが悪いでしょう、と水を向けた折である。ノリが悪いのは客のせいでなく、テメエの芸がお粗末なんだ、と反論された。

逆に、客に大受けするのも用心が肝心。いい気になるとそこで芸の勢いが止まる、と歌丸さんは続けた。大向こうの客は、芸を鍛えもすれば、つぶすこともある。

「必殺仕分け」劇の観客は、どっちだろう。「仕分け」は本来、国会の仕事。今度の「必殺劇」も予告編だというが、本編を見てガッカリということはいくらもある。

木をなぎ倒すような一刀両断は、観客の目を奪う。が、木を見て森を見ず、という言葉も、頭にちらつき始めてきた。