デジカメぶらりぶらり

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新大関

2012-03-29 07:32:32 | Weblog
大相撲に6人目の大関が誕生した。最後まで優勝を争ったモンゴル人力士。またも外国人にまぶしい光が当たる。日本人力士はどうした、と嘆くのはやめにする。

モンゴルの次に相撲の強い国・日本という皮肉も、当分控えようと思う。中継画面から流れる彼らの物腰や折り目正しい日本語には正直、感心し脱帽する。

22度の優勝を果たした一人横綱は、日本人が忘れかけている大横綱・双葉山の「不動心」を手本にするという。新大関は慢心を戒める決意を口にした達者な日本語で、土俵の外でも大暴れした元横綱がいた。

あの先輩はマネないという心掛けなのか看護師の国家試験に、高岡で働く中国人女性2人が合格した。外国人には超難関、イジワルが過ぎるという批判さえも出た狭き門を突破したのだから、努力には頭が下がる。


台湾

2012-03-26 08:06:46 | Weblog
皇后さまが大震災追悼式に和服姿で臨まれた理由が書かれた記事を、厳粛な気持ちで読んだ。万一、陛下の足元が乱れてもすぐに支えられるように、ヒールの靴の洋装を避けられたという。

多くの人が身の引き締まる思いで式典に臨んだのだった。だから、式で台湾代表を冷遇したことが、あらためて恥ずかしくなる。巨額の善意と手厚い援助をいまも惜しまない人々の代表を、来賓席に案内せず、指名献花から外した。

首相がわびても、恥は消えない。台湾のダムの父、八田與一技師の子息からの話に、工事の犠牲者の慰霊碑を建てるとき、技師は一つだけ条件を出した。名前は工事現場ごとに分け隔てなく刻むこと。

日本人、台湾人と区別してはいけない。碑が建ち、技師に対する敬愛はさらに深まったとう。そんな先人に、とても顔向けできない。式の後、台湾の高官が、語ったという、「日台関係は(冷遇の)花ぐらいでは揺るがない」。広い心に頭が下がる。

図体のデカい隣人は、あることないことで難癖を付けてくる。そんなご近所ばかりではない。恥をかいて大事なことを知った。

センバツ

2012-03-23 08:27:01 | Weblog
春はセンバツから。注目は選手宣誓だった。演出された式のひとこまだが、最近の宣誓は心に訴えてくる。「答えのない悲しみを受け入れることは、苦しくてつらいことです」。

被災地・石巻の球児のあっぱれな言葉である。感動、勇気、底力、それに「絆」。耳にタコができた言葉もあった。政治家や知識人と称する大人が口にしても、薄っぺらに響くだけ。

が、あらためて被災地の少年が語りかけると、言葉が力を帯びてくる。くれの流行語選びに「絆」が入ったとき、選考にクビをひねった。「スマホ」や「どじょう内閣」みたいに、流行ですませる言葉だろうか。

もっと大事なものではないのか。だが、いまは違う。「絆の大合唱も一時のブーム」という皮肉に読みに基づく選考に感服する。がれき処理をめぐる騒ぎが、その見本の一つだろう。

絆を流行語にしてしまうのは悲しいし、恥ずかしい。絆を口にしてもシラケるような世間になったが、少年たちの思いはそうではなかった。大人の面目はどこかへいったが、先に希望は持てる。

配置薬

2012-03-20 07:18:20 | Weblog
東北の仮設住宅で富山の配置薬(はいちやく)が重宝されているという記事があった。お代は後で、という「先用後利(せんようこうり)」の商売は、さぞ助かるだろう。

柳行李(やなぎごうり)を背負った「売薬さん」を懐かしく思い出す。「七つ道具」を携えていた。大きな行李から薬やそろばん、分厚い帳面など出てきた。小さな紙風船も必ずあった。

物差しを持ち出し、もらった紙風船をボール代わりにして、紙が破れるまで遊んだ。大事なもののセットが「七つ道具」である。芝居の弁慶は、重い七つ道具を背負って義経を敵から守る。大名行列を華やかに演出する七つ道具がある。

アンコウの七つ道具は大変なごちそうだそうだが、巡り会えていない、紙風船も、余計なおまけではなく、大事な道具なのである。薬効があるわけはないが、売り手と買い手の心を通わせる。

仮設住宅を訪れる売薬さんも薬と一緒に、紙風船や励ましの言葉を届けているに違いない。それが被災者の力になっている。復旧、復興は、モノを配って足りるわけではない。紙風船のような心遣いを届けることも大事である。売薬の七つ道具がそう教えてくれる。

地蔵堂

2012-03-18 07:12:35 | Weblog
生まれ育った家の近くに地蔵堂がある。手を合わせて祈る時、子どものころから見慣れた丸いお顔が時々、浮かぶ。よだれかけをしているから、子どもだと思っていた。そうではなく、苦しむ人々をわけへだてなく救い、とりわけ子どもたちに手を差し伸べる偉い菩薩であると知った。

被災地に建った真新しい地蔵堂の写真を見て、少し勉強した。1年が過ぎて、まだ行方が分からない人がいる。身元の分からない犠牲者もいて、「無縁仏」として安置されているという。

「無縁」と呼ぶのは正しくない。弔うゆかりの人々がいないのではなく、懸命になって探しているのだが、「絆」がつながらないのである。無縁でない仏を、あえて「無縁」と呼ばざるを得ない。

胸が痛むことである。そんな仏たちにも丸いお顔のお地蔵さんはしっかり手を差し伸べてくれていると信じたい。「ぼたもちや地蔵のひざも春の風 小林一茶」。被災地にそんなおだやかな春が訪れることを願う。

ほどなく、花の季節がやってくる。「たからとは今日の命ぞ初さくら  千代女」。さまざまな思いが心をよぎる。

戦後処理

2012-03-16 06:40:38 | Weblog
石橋湛山とGHQ戦後処理費の話がある。敗戦国はみじめだった。日本側が餓死者をだすほど窮乏している中で、米側の請求にはゴルフ場代、花や金魚の注文書まであったという。

その戦勝国の言うままの占領下に蔵相・湛山は、米側の要求額削減に腕をふるった。巷にはこんな話のある時代だった。戦争賠償金があると知った人が聞いた。「いつもらえるんだい」「冗談いっちゃいけない。こっちから出すんだ」「えっ?こんなに焼かれたんだから、いくらか、くれるのが当り前だろう」。

湛山は元々ジャーナリストである。敗戦直後に「再生日本の門出」と題して「前途洋々として希望に輝く」と書いた。夢も希望も持てない敗戦時に破天荒な表現で国民を勇気づけた。

敗戦が持っている楽天的な明るさと共通するものがある。67年前の「3・10東京大空襲」と1年前の「3.11大震災」が重なる。焼け野原から日本は立ち上がった。東北にも希望はある。

1年前

2012-03-14 08:33:08 | Weblog
1年前の震災直後は、ニュースを読むアナウンサーが涙声になり、聞いているこちらも泣いた。むごい災害に突然命を奪われた人々の無念を思って泣いた。

春になると、被災者の強さや優しさが報道されはじめ、自己犠牲をいとわない人間の尊さに感動の涙を流した。中国人の研修生を非難させた後に自分は亡くなった人。若い者にはさせられない仕事だと遺体安置所の世話をする70歳の男性も忘れられない。

時間は涙の量を減らし、涙の質も変えてくれる。その一方で、大切な思いを風化もさせる。それも悪くはない。いつまでも悲惨さを引きずり泣いてばかりではいけない。だが、この震災体験は、まだまだ風化するようなものでもないし、片付いたとも言えない。

原発廃炉には40年かかる。生涯「震災」を背負っていくことになる今の子どもたちには、申し訳ない気持ちさえする。真の復興とは「子どもは国の宝」と胸を張っていえる社会にすることだと思う。


スーパーイヤー

2012-03-12 07:14:35 | Weblog
ことしは「スーパーイヤー」と呼ばれる年だ。世界各地で政権交代やリーダーが変わる大きな選挙が重なる。

1月の台湾総統選に始まり、先日はロシヤで強引な大統領の復活劇を見た。さらに米大統領選予備選挙のスーパーチューズデーを終え、今年前半戦のピークを越えた感がする。

米共和党候補者同士の中傷合戦がひどいという。民主主義のお手本の国でも権力を握るまでの戦いはきれいごとではすまない。オバマ、クリントン両氏も今は大統領と国務長官のコンビに収まっているが。

前回の予備選でひどい中傷合戦だった。中国では秋の共産党大会で胡主席が交代する予定だ。一度握った権力を若い後継者に譲り渡すなど、民衆主義国家にもない不思議なことだと思っていたら、重慶(じゅうけい)など地方から新旧勢力の暗闘が伝えられている。

この方が納得できる。権力争奪戦と聞けばイメージは悪いが、権力争奪の試練が政治家を磨く一面がある。何のために激烈な戦いをし、権力を握って何をするのかが問われる。偶然かつ簡単に権力者になれる制度があるとすれば、そもそもそれが危うい。

春の雨

2012-03-10 06:50:50 | Weblog
先日は春の雨が地を潤した。虫が目覚める。「啓蟄(けいちつ)」にふさわしい日だった。だが、虫や小動物と出合う機会はめっきり減った。

台所でアリの行列を見なくなって久しい。食事中ハエを手で追うことも、夜中に蚊をたたきつぶすことも少なくなった。おなかの虫は健在で、日々の紙面にも顔を出す。曽野綾子さんが格安航空にかみついていた。

時代をバッサリ斬る連載を愛読するが、毎回、筆者の虫の居所は相当よろしくない。水橋文美江さんの子育て記録は、かんしゃく玉との上手な付き合いがほほえましい。

2人にならって、腹の中の虫や玉は上手になだめたい、がれきの受け入れを自治体の「86%が難色」という記事があった。理由も出ており、いろんな事情があるのだろうが、復興の妨げになるがれきの山には、これから有害な虫もはびこるだろう。

放つてはおけまい、麗しい「絆」の大合唱の後は「難色」に右へならえ。虫がよすぎるように思えて仕方ない。近年は自己を中心に、はいずり回る「ジコチュウ」なる虫が増えているか。そんな虫が目覚める春でなければいいのだが。

裁判

2012-03-08 08:11:43 | Weblog
裁判員裁判は、法廷に社会常識を取り込むことがん狙いのひとつだった。が、その常識も人によって、時代によって異なるから厄介だ。

ある大学教授が常識を判断するのに「8割」という数字を出している。8割の学生が理解できるのがいい授業で、それが常識的だと。どんな授業でも全員が理解することはあり得ない。

常識とは8割の人が「妥当」とする水準とも言える、金沢地裁で争われた女性殺害事件は、状況証拠しかない中で裁判員に判断が迫られた。被告は犯行を強く否定。公判では被告、弁護側から第三者の介在という思わぬ主張が展開された。

裁判員には「疑わしきは罰せず」と考える場面もあったに違いない。求刑通り無期懲役とした今回の判決は社会常識にそった結果だと言えなくもない。8割以上の人が納得できたであろう。

先月、光市の母子殺害事件で死刑とした最高裁判決なども「常識で判断」の流れのように思える。ただ、殺人犯罪の有無を素人に判断させる制度に疑問は残る。

多数意見が生かされ常識が優先されろ裁判員裁判をどう磨き上げていくか重い宿題だ。