デジカメぶらりぶらり

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開通

2011-03-31 07:02:38 | Weblog
東北自動車道が開通した。並行する国道4号も、津波被害の大きかった三陸地方を回って仙台と青森を結ぶ国道45号もほぼ回復したという。

震災から2週間を待たずの復旧だった。関係者の不眠不休の努力のたまものだろう。同時に阪神大地震以降の補強工事が生きたといわれる道路建設の力にも感心した。

首都圏と東北が結ばれるのは何よりだ。支援物資やボランティアが次々と現地入りしている。国の血管ともいえる「道」を「人」という血液が循環し始めた。

東北新幹線は、盛岡・新青森間が既に復旧している。不通となっている大部分も来月中の全線開通へ向けて修復が進んでいる。あの激震の中で脱線転覆の大事故を起こすことなく「新幹線神話」が崩れなかったのも救いだ。

満身創痍の東日本の中「陸路」の強さは注目に値する。二千年近くの昔から人々が踏み固めてきたのが「道」であり、その伝統を下敷きにしたのが国道や高速道である。

新幹線の丈夫さとともに世界に誇っていい技術立国日本の財産のように思う。


なぜ

2011-03-29 06:39:42 | Weblog
恋人を交通事故で失い、「なぜ死んだ」と嘆く人がいたとする。悲痛な「なぜ」に、科学は即座に答える。「出血多量だったから」。

間違いではないが、悲しみを癒す答えではない。水道水の問題で、科学は「乳児には飲ませるな」と警告した。加えて、代わりの水がないなら飲ませてもいい、という答えも出した。

基準値やベクレルという物差しによる答えは、「飲ませても飲ませなくてもいい」。これでは不安、戸惑いが消えるはずはない。頼みになる情報がもっとほしい。

先ごろ、強い余震が起きる確率が70%から40%に減じたという発表があった。科学的な分析結果だという。が、被災地にとって、ゼロに近い数字でない限り、科学の予測は力にはならぬ。

飲料水増産の指示があり、出荷停止になった農産物が出た。なぜ、という問いに対する答えは「念のため」。そんなことだから、いわれなき風評とも闘わなければならない。

関西でも

2011-03-27 07:16:56 | Weblog
首都圏だけでなく、関西の知人からも乾電池がほしい、と言ってきた。近くのスーパーで見つけたが、棚に「一人3個まで」と張り紙がある。

被災地優先の大事な品である。節度ある買い物が大事な心得の一つだが、在庫の品薄を知らせる張り紙が、不心得者を買いだめに走らせはしないだろうか。

不安がよぎったが、「そんな人はいません」と定員に言われた。手を携え、足並みをそろえて被災地の苦難に思いをはせる時が、まだまだ続く。

そんな時なのに、多くのファンを持つプロ野球が、開幕を巡って足並みを乱しているのはどうしたことか。開幕日を延期したパ・リーグに、セ・リーグはなかなか同調しない。

先日多忙なはずの大臣の手までわずらわせた、被災者に勇気を与えたい、と口々に言う、確かに、スポーツはそんな力を備えている。懸命なプレーを見たいと願う一方で、同日開催やナイター自粛を望む選手たちの主張も理解できる。

乾電池3個までというささやかな節度も、積もり積もれば被災地の力になる。「勇気を与える」という大事な役目も、ばらばらでは力がそがれはしないか。

宣誓

2011-03-25 06:20:21 | Weblog
選抜高校野球大会の開会式。立派な選手宣誓だった。これでどれだけの被災者が勇気づけられ、元気をもらった国民がいただろう。

選手の多くは1995年の阪神大震災の年に生まれたという。新しい命を育てた16年の歳月の重みを思った。同時に、この未曽有の試練から立ち上がる命を育ていく、あすからの日本に確信を持った。

甲子園の宣誓は、被災地で卒業式を迎えた生徒の答辞とも重なった。つらさをこらえて復興の力になると誓った。「この試練に生きた子らが強くならないわけがない。大事に育てます」と言った母親の言葉もうれしかった。

「ふるさと」を合唱した卒業式もあった。残酷な自然に対し、あの山、かの川の懐かしさをたたえ、父母への感謝を歌った。震災報道は一人一人に「私たちが今できることは何か」を問いかけ、「子どもは国の宝」と胸に刻む時間を増やした。

苦しみや悲しみを乗り越える若くてひたむきな言葉を聞くたびに、未来を信じ、歳月の可能性に心が開かれていく思いがする。

人生

2011-03-23 06:55:27 | Weblog
「人生とは何か」と問われたら「出会いだ」と答えるだろう。恩師との出会い。恋人や友人、一冊の本でもいい。出会いによって人は成長し、人生は変わる。

亡くなった箕島高野球部元監督の尾藤さんに、何人もの人が「自分の人生を変えた人」と同じ言葉を贈っていたのが印象的だった。延長18回を戦った星稜高の山下総監督。プロ球界に名を残す東尾元投手。あの延長戦で運命的な落球を見たナインからも同じ言葉があった。

出会いがあって今日の自分がある。言い換えれば、さらなる出会いがあれば、60歳を過ぎてからでも人生は変わり、新しい自分に会える。毎日の紙面で著名人の訃報に接して心を動かせるのは、数々の人生を築いた出会いの力を思うからである。

ニュージーランド地震で死亡した魚津市の平内好子さんもその一人だった。元高校長にして語学専門学校の1年生。「同世代として尊敬と憧憬(しょうけい)の念を持っていた」との富山外国語専門学校校長の言葉に共感を覚えた人は多かったに違いない。

中高年世代にも若者たちにも、出会いを求め続ける大切さを教えてくれる生涯だった。


不気味

2011-03-21 07:09:17 | Weblog
爆発、白煙、放射能漏れ、福島第1原発に並んだ4つの原子炉が、「不気味な共鳴」を見せている。三陸沖で始まったM9.0の大地震の後、中越や静岡でも震度6強の地震がおきた。

メカニズムが異なるので別の地震だと専門家は解説するが、三陸沖の地震が強震を誘発しているとみてよいのではなかろうか。自然界の地震の「不気味な共鳴」である。

しかし、真に不気味なのは、原発と大地震が共鳴しているように思えることだ。本来、連動するはずもない自然界の地震と人間の造った原発が、足並みをそろえて、牙をむき、被災者をあざ笑うように次から次へと襲ってくる。

「不気味な共鳴」が未曾有の不安を増幅させる。「天災は罪なき人を好む」という。「天災の後に来るのは人災だ」とも言う。天災の前に人間は無力だが、人工物である原発崩壊連鎖は、一種の人災だ。

何としても止めねばなるまい。どれかひとつ、共鳴の鎖を断ち切れば展望が開けるに違いない。放射能封じ込め総力戦が続いている。被災者救援活動も勝負どころだ。

「天」を恨んでいる暇などない。人事を尽くして天命を待つ。

停電

2011-03-19 06:48:25 | Weblog
東京電力の計画停電で「炊飯器が途中で切れた」との声があった。もっと早く知らせてほしい、徹底した事前広報が必要だったとの訴えだった。

水もなく、食料も底をつき、寒さに震えている被災者を思えば「ご飯が炊けなくなった」くらいなんだ、と思った人も多かったろう。

だが、この不満をだれが避難できようか。災害の程度や場所によって、求めるレベルは違う。東北の避難所では、先に避難した住民が後から来る人を拒む動きが見られともいう。

これもまた現実だろう。大津波から逃れる際には必死に助け合った人たちも、助け合った後にはそれぞれの暮らしが生まれる。それを非難できない。

置かれた環境によって求めるものも違ってくる。人間の弱さも強さも認め合って、各自ができる援助をしょう。時には身勝手な要求にみえても、社会全体での力で克服することが大切に思う。それを踏まえて行政の援助・支援があってほしい、強い地震が続いている。

被災地に何が必要か。民間ボランティアの活動にも必要な視点だ。日本には災害を克服した数々の体験がある。「助け合いDNA 」を信じよう。

電力

2011-03-17 07:53:15 | Weblog
足元の地殻の断層だけでなく、電力にも「断層」がある。東日本は50ヘルツ、西は60ヘルツと周波数がずれる。東日本に出向いていてそれで困った記憶はないが、今度ばかりは具合が悪い。

深刻な電力不足である。困ったときはお互いさま、と胸をたたいて節電し、電力を融通したく思う。が、周波数のズレのせいで、スズメの涙ほどしか役立たない。

阪神大震災の時は、逆に東から西への融通が滞った。のど元を過ぎて、電力の「断層」問題は放っておかれたか。

計画停電という新たな事態を、西日本からは見守るしかない。前日に突然発表があり、「やる」「やらない」「やるかもしれない」と迷走した初日だった。

首都圏の人たちは、さぞ困惑しているだろう。様子を知りたいが、不要不急の通話は控えねばならぬ。当分は「節前列島」となる。あらためて見回せば、電力の飽食のような暮らしである。

いろんな機器が備わり、電子音を合図に、立ち居振る舞いを繰り返す。裸電球の質素と比べようもない豊かさに満ちている。

災いを転じて福となす。その流儀に従えば、暮らしのぜい肉を見直し、そぎ取る機会の到来だろう。



大地震

2011-03-15 07:31:29 | Weblog
大地震の一夜が明け、あらためて惨状に衝撃を受ける。時間がたつにつれ、犠牲者・不明者の数が増え、被害のすさまじさを思い知る。

あの時、阪神大震災の時もそうだった、夜を徹した懸命な作業で連絡がつながる。真っ先に飛び込んでくるのが痛ましい知らせ。それが何度も繰り返される。あの時と同じだが、今度は被災地が途方もなく広い。

壊れた街、津波にのまれた集落の全容は、まだ分からない。余震がしつこく続き、津波が繰り返し襲う。新たな不安を呼び起こす原発の事故も起きた。16年前のあの時とは別である。

一夜明け、突然奪われた人たちの悲運を思う、通り一遍の慰めや励ましが力になるほど、生やしい事態ではない。被災地に向け、どんな言葉をかければいいのだろう。それが見つからない。

辛抱

2011-03-13 07:43:17 | Weblog
新湊博物館で見つかったまつの手紙に、大きな虫が腹に入って難儀したという一文がある、と報じられた。

加賀藩祖の正室を苦しませるとは、けしからぬ虫である。江戸で過ごした人質の苦労がしのばれる。死ぬ前に長男の利長に会いたい、という書状もあった。

親なら当然の願いだが、対面はかなわなかった。憎っくき徳川家康である。まつの手紙は、金沢の前田土佐守家資料館にも伝わる。次男の利政を案じた書状の中身を教わって心打たれる。

関ヶ原の戦いで徳川に味方せず、追放された息子である。まつは家康に働きかけ、「領国の端にでも住まわせよ」という許しを得た。が、約束は空手形に終わる。まつは家康を責め、「こんな世に生きるわが身」を嘆く。

それでも、タヌキおやじと側近を相手に百万石を守る神経戦を辛抱強く続けた。腹の中ではストレスという虫も暴れたに違いない。権力者がおいしい約束をし、ほごにする。

今も昔もそうである。それなら、別の甘い約束に飛び付くか、それも時代を嘆いて政治不信を決め込むか。どちらも賢くはありませぬ、と辛抱を諭すまつの声が聞こえそうである。