デジカメぶらりぶらり

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屈辱

2013-04-29 07:44:00 | Weblog
1958年、夏の全国高校野球大会に沖繩代表として初出場した首里高校の選手もパスポートを携えて渡航した。

甲子園のグラウンドから土を持ち帰ろうとすると、検疫で「外国の土」とみなされ、那覇港で破棄させられた。52年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、連合国軍総司令部(GHQ)の占領が終わった。

沖繩にとってはさらに20年間に及ぶ米軍統治の始まりだった。米軍基地はそっくり残り、再び本土の「捨て石」にされたのである。政府は28日、主権回復を記念する式典を開いた。

仲井真弘多沖繩県知事は欠席する。当然だ。沖繩にとっては、祖国から切り離された「屈辱の日」なのだから。「憲法改正よりも日米地位協定を改正することが主権回復だ」。

保守系の翁長雄志那覇市長が語っていた。こうした正論は安倍晋三首相の耳には聞こえないようだ。講和条約と同時に結ばれた日米安保条約の下で沖繩の人々ガ強いられてきた犠牲は、本土のメディアや国民の無関心によって一層強められた。「屈辱の日」に立ち上る声に耳を澄ませたい。

コンピューター

2013-04-27 06:59:54 | Weblog
体重の2%程度の重さしかない人間の脳は、全身で消費するエネルギーの20%に当たる400キロカロリーを使っている。それでも、寝るときにつける常夜灯4つ分ぐらいの電力消費量で、月額にすると300円ほどだという。

コンピューターのデーターは、整理された棚に置かれるようにハードディスクに蓄えられ、直ちに正しい答えを取り出すことができる。それに比べて、人間の記憶には曖昧さがある。

でも、それは決して悪いことではない、記憶が曖昧だからこそ、共通している何らかを選び出そうとして思いもよらなかった別々の記憶が結び付く、池谷さんによると、それこそが二つのソウゾウ(想像・創造)の源泉なのだから、なるほど、曖昧な記憶が想像力や創造力を生みだすのか。

少し自信が湧いてきた。こんなことを書いているのも理由がある。トップ棋士が公の場で初めてコンピュータの将棋ソフトに負けたからだ。三浦弘行八段を破った「GPS将棋」は東大の研究者らが開発。

パソコン680台を接続し、1秒当たり約2億7千万手を読む能力がある。5種類のソフトとの団体戦でもプロ棋士を下し、強さを見せつけた。コンピューターおそるべしである。

こうなったらもう開き直るしかないのかもしれない。将棋という知的ゲームをつくる創造力は君たちにはあるまい、と。

チッソ

2013-04-25 08:02:05 | Weblog
愛猫家は目を背けたくなるかもしれない。チッソ付属病院で1959年、水俣病の原因を調べるためにネコを使って実験をした小屋が、水俣病歴史考証館に展示されている。

えさに排水を20グラムずつ混ぜて与えると、1匹のネコが発症。脳の解剖によって有機水銀中毒が確認された。工場幹部が病院院長から報告を受けながら、チッソは一切公表せず排水を止めなかった。

チッソの「企業城下町」で患者は孤立した。「なんのため、私たちはチッソ正門前に座り込むのか」「会社を粉砕して何が残るのか」。患者と住民は新聞の折り込み広告で非難し合った。

考証館に残る当時の広告を見ると、多数の利益が少数を犠牲にして成り立つ構造がはっきりと見える。原発を押し付けられた過疎地、米軍基地が集中する沖繩・・・。

その構造は今も残っている、水俣病の患者認識認定をめぐる訴訟で最高裁は、手足のしびれなどの感覚障害と視野狭窄(きょうさく)など症状を組み合わせて認定する1977年の判断基準に関して、一つの症状でも認定できるという判断を示した。

それでも、国はこの10年間で20人しか認めなかった認定基準を見直すつもりはない、と言い放つ。考証館には、闘争のシンボルになった「怨」の字を染め抜いた旗がある。

その文字は今、半世紀以上たっても解決できない国のあり方そのものに向けられているように思える。

スー・チー

2013-04-23 08:09:04 | Weblog
今から25年前の春、英国の美しい大学街オックスフォードで学究生活を送っていた夫婦は、静かな夜を電話のベルで破られた。

夫のマイケルさんは嫌な予感に襲われたという。「わたしたちの生活が永久に変わってしまうのではないか」予感は当たった。病みに倒れた母のため、妻アウン・サン・スー・チーさんは祖国ミャンマーに向かった。

そこで軍事独裁政権との闘いに身を投じることを決意する。家族を引き裂くことになる妻の決心に、マイケルさんは反対しなかった。結婚前、こんな手紙を受け取っていたのだ。

<ひとつだけお願いがあります。もし国民が私を必要としたときには、わたしが彼らのため本分を尽くすのを手助けしてほしいのです>25才前後だったスー・チーさんは<ときどき、何らかの事情や国の問題によって、わたしたちの間が引き裂かれてしまうのではないかと恐ろしくなることがあります>と不安を吐露しながらも、こう記したという。

<二人ができる限り愛し合い、励ましあっていれば、最後にはきっと、愛と思いやりが大きな勝利を収めると思います・・・>。マイケルさんは愛妻が民主化を勝ち取るのを見ぬまま、1999年に逝った。

毅然と静かな口調で自由の尊さを語るスー・チーさんの背後に、優しく支え続けた夫の姿を想う。

名優

2013-04-21 06:50:59 | Weblog
旧制中学を中退し、伊豆の家を飛び出したのは16歳の時だった。釜山で駅弁を売っていた時に日中戦争が始まった。次々と到着する臨時列車に、不安げな目をした若い日本兵が詰め込まれたてゆく。

数年後、徴兵忌避を図るも失敗。見送った兵隊と同じ道をたどった。八路軍に攻撃され、肥だめに一晩漬かって命拾いしたこともある。原隊を出発した千数百人の戦友のうち、半数以上が戦死した。

90歳で亡くなった俳優の三國連太郎さんは、戦死者の犠牲の上に自らが立っているという引き目や責任感を背負ってきた人だった。俳優としての名声を確立した40代の後半、足が宙に浮いているように感じて旅に出た。

インドやパキスタンなどを3カ月間放浪し、広大な砂漠の中で人間はごみのような存在だと思い知らされる。「大自然の中では、人間は河床の砂の一粒みたいなもので、私という個人の苦悩なんてどうってことなかったんです」。

せりふを自分の体の細胞の一つにしなければ、演じられないと、何百回も台本を読み込み、役のためには歯まで抜く壮絶な役者魂が戦後を代表する名優の源泉だった。

戒名は要らない、長男の佐藤浩市さんに伝えていたという。放浪の旅は終わった。

番頭

2013-04-19 05:47:20 | Weblog
道楽者の若旦那と、四角四面のお固い番頭が顔を付き合わせると、そこに滑稽なドラマが始まる。落語『山崎屋』で、遊ぶ金を店から融通するよう迫る若旦那を、ピシャリとはねつける番頭のたんかがふるっている。

「私は堅いんでございます。石橋の上で転ぼうもんならば、石の方で『痛い』って言うぐらい・・・」。そう言い切る番頭が、実は店の金で派手に遊んでいたりする。情けなくも憎めぬのが、落語世界の住民だ。

も一つ、切れのいい口上を読んでいただこう。こちらは番頭ならぬ、憲法の番人の弁。<独立を保護されている裁判所や裁判官は、政府や国会や与野党に気兼ねをする理由は全然ない・・・当事者のいずれが勝とうが、そこに何らの政治的意図はないのである・・・そこに支配するのはアカデミックな精神のみである>

発言の主は1950年から10年、最高裁長官を務めた故田中耕太郎氏。こう誇り高き番人がその実、落語の番頭も腰を抜かすほど、筋から外れたことをしていたらしい。

米公文書によれば、日米安保条約の合憲性が問われ、政府が対応に苦慮していた「砂川事件」の最高裁での審理を前に、長官が米外交官と密談し、判決の見通しまで漏らしたという。

もう半世紀前のこと、では済まされぬ。日本の司法の独立に関わることだ。「憲法の番人」の二枚舌は、歴史の審判に付すべきだろう。

緩和

2013-04-17 06:55:59 | Weblog
大胆な金融緩和をテコに「期待感」に働き掛ける「アベノミクス」が連日、マーケットを沸かせている。日銀が「異次元の緩和」を決めると、翌日の東証一部の出来高は過去最高の64億4912万株に達し、4年7カ月ぶりに一時1万3000円台を回復した。

一の矢は投資家の期待を集め高く舞い上がったが、焦点は着地点である。物価は上がっても所得が増えなければ、株と無縁の庶民は家計を圧迫されるだけだ。さては、こちらも期待感に働き掛ける戦略か、と見るのは勘ぐりすぎだろうか。

沖縄県の嘉手納基地の南にある6つの米軍施設・区域について、日米両政府は時期を明記した返還・統合計画に合意した。人口密集地にある米軍施設は、返還後の再開発で巨額の経済効果が予測される。

返還自体はすでに決まっていて、地元自治体からは早期返還を求める声が強かった。切り離すはずだった他の施設の返還と普天間飛行場の移設を事実上、一体化させた政権の本音は、地元の期待に応えるから辺野古の埋め立て申請は認めよ、ということか。

露骨なアメとムチでる。沖繩には全国の米軍専用施設の74%が集中し、計画通り実現しても軽減率は1%に満たない。変換対象の施設に玉突きで移るだけだ。「ニンジンぶら下げ方式」は本質を見破られている。



水墨抽象画

2013-04-15 07:01:20 | Weblog
お手本通りに字を書いていれば、いい点をもらえる。それを当たり前とは思わない少女だった。お手本とは違うけれどいい字だね。と言ってくれる人がいたことで救われた。枠にはめられることが嫌いな自由人だ。

「芸術の根本は自由です。自由でなければ一本の線も書けませんよ」と言い切る強さが、世界で高く評価される作品を発表してきた篠田桃紅(とうこう)さんの源泉だろう。

独特の水墨抽象画はメトロポリタン美術館などの一流美術館に収蔵されている。日本を代表する美術家は28日で百歳になった。創作意欲は衰えを知らない。世界に認められるきっかけは1956年の単身渡米だった。

帰国直前に作品が評価され、相次いで個展が開かれた。当初二カ月間だったピザは延長を重ね、滞在は2年近くに、決まり事にとらわれがちな日本と違う反応が新鮮だった。「狭い部屋から広場に放り出されたような快い開放感に似ていた」(『桃紅百年』世界文化社)篠田サンの作品を愛するモダン・ジャズ・カルテットのピアニスト、ジョン・ルイスさんは「墨の中に私の表現したい音がある」と語ったそうだ。

ジャズの世界に通じる何かがあるのだろう。父の出身地である岐阜と縁が深く、百歳を記念した回顧展が県内で始まった。東京でも、新宿伊勢丹や菊池寛実記念・智美術館で開催される。

マイナンバー

2013-04-13 06:58:38 | Weblog
今から50年前、「背番号候補事件」という珍事が起きた。高度経済成長の真っただ中、1963年の衆院選でのことだ。

東京都内の7選挙区の候補者名簿を見ると、1区に藤田一郎がいて、2区に笠原二郎と続き、7区に鶴岡七郎。再び一区に戻って木村八郎、2区に下田九郎という具合に「数字名前」が27人もそろった。

偶然ではない。選挙屋として暗躍し、詐欺師で逮捕された肥後亨なる人物の選挙戦術だ。彼は候補者名を数字でそろえた理由をこう語った。「名前を番号にしたのは、軍隊でも刑務所でも人間に番号をつけるのと同じで、候補者が多いので隊内の規律のために番号をつけただけの話」。

確かに、多くの人を管理するのに通し番号は便利だ。学生番号や社員番号などさまざまな番号で私たちは管理されている。だが、生まれた時から番号を付けられ、何をするにもそれがついて回るとなると、話は別だ。

集約された膨大な個人情報はサイバー犯罪の格好の標的となる。社会保障番号なしでは社会生活がままならぬ米国では、他人の番号を悪用する「なりすまし犯罪」の被害が年数兆円にもなるという。

国会で法案を審議中の「マイナンバー」が同じ轍を踏まぬ保書はない。「背番号詐欺事件」の犠牲になるのは、管理する側ではなく、される側だ。

2年前

2013-04-11 06:33:33 | Weblog
<お母さんがいたら、いろんなことができたね。ケーキとかつくったりできたよね。保育園から帰ると、お母さんが作ったおやつを食べさせてくれたね。3月10日まではいい日だったね>。

と、岩手の小学3年の女の子は書いた。『3月10日まではいい日だったね』は、震災遺児らを支援する「あしなが育英会」が出した作文集だ。表紙は、あの一本松の絵。お父さんが行方不明になった9歳の少年が描いた。

彼は天に伸びる勢いの松を描いて、言葉を添えた。<がんばれ一本松 ぼくのお父さん どこにいるのか みえないかな。みえたら おしえて 一本松 おねがいするよ>東日本大震災で親を失った子どもは1500人を超える。

あしながの作文集を読めば、この1500の心が抱えるだろう想いが、脈を打ち伝わってくる。宮城の小3の女の子はあの日、母さんとけんかして、謝りもせず学校に行った。
「母はもう怒っていないだろうな」と思いながら家へ帰る途中、地震が起きた。学校に戻り夜を明かした。みんなには迎えが来たのに、母さんは来なかった。死んでしまった。

2年前は金曜日だった。少女は、書く。<私はお母さんが見つかってから金曜日の2時46分に、ベルを鳴らしています。そしてお母さんに「ゴメンネ」を送っています。ちゃんと聞こえていたらいいです>。きっと、聞こえているよ。