1958年、夏の全国高校野球大会に沖繩代表として初出場した首里高校の選手もパスポートを携えて渡航した。
甲子園のグラウンドから土を持ち帰ろうとすると、検疫で「外国の土」とみなされ、那覇港で破棄させられた。52年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、連合国軍総司令部(GHQ)の占領が終わった。
沖繩にとってはさらに20年間に及ぶ米軍統治の始まりだった。米軍基地はそっくり残り、再び本土の「捨て石」にされたのである。政府は28日、主権回復を記念する式典を開いた。
仲井真弘多沖繩県知事は欠席する。当然だ。沖繩にとっては、祖国から切り離された「屈辱の日」なのだから。「憲法改正よりも日米地位協定を改正することが主権回復だ」。
保守系の翁長雄志那覇市長が語っていた。こうした正論は安倍晋三首相の耳には聞こえないようだ。講和条約と同時に結ばれた日米安保条約の下で沖繩の人々ガ強いられてきた犠牲は、本土のメディアや国民の無関心によって一層強められた。「屈辱の日」に立ち上る声に耳を澄ませたい。
甲子園のグラウンドから土を持ち帰ろうとすると、検疫で「外国の土」とみなされ、那覇港で破棄させられた。52年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、連合国軍総司令部(GHQ)の占領が終わった。
沖繩にとってはさらに20年間に及ぶ米軍統治の始まりだった。米軍基地はそっくり残り、再び本土の「捨て石」にされたのである。政府は28日、主権回復を記念する式典を開いた。
仲井真弘多沖繩県知事は欠席する。当然だ。沖繩にとっては、祖国から切り離された「屈辱の日」なのだから。「憲法改正よりも日米地位協定を改正することが主権回復だ」。
保守系の翁長雄志那覇市長が語っていた。こうした正論は安倍晋三首相の耳には聞こえないようだ。講和条約と同時に結ばれた日米安保条約の下で沖繩の人々ガ強いられてきた犠牲は、本土のメディアや国民の無関心によって一層強められた。「屈辱の日」に立ち上る声に耳を澄ませたい。