デジカメぶらりぶらり

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新聞

2010-04-30 06:31:45 | Weblog
全国学力テストの問題で中学3年の国語で新聞が題材となり、コラムの見方まで出題された。

さきごろ開かれた「日本一の教育力を問う」シンポジウムがあり、「音読は必ず家族の前で読むように」との指導があった。テスト成績上位の福井県が学力向上の秘けつとして家庭学習の大切さを述べたのである。

今回の学力テストに新聞が登場したのは、知識を実生活に生かす新しい指導要領の先取りだとの分析もある。国語の学力は算数と連動する。問題分の理解に結びつくためであり、音読の大事さは一教科だけにとどまらない。

一昔まで、声を出して新聞を読むお年寄りが多かった。新聞社には直した原稿を声を出して確認するデスクもいた。「読んで効く」新聞は世代を超えて暮らしの中に生きる教材だ。

体形変化

2010-04-28 06:12:04 | Weblog
下着メーカーが、年齢による女性の体形変化の法則を見つけたという。ウエストは20代後半から約25年で10センチ太くなるという。

いまさら指摘されなくとも知っていたが、いわく「「肉がそげ」「たわみ」「垂れ」「流れ落ちていく」。そして「加齢による変化後、元に戻った人は一人もいない」とトドメを刺す。

これが化粧品メーカーの調査だともう少し救いのある表現になったのだろうが、脳科学者の養老孟司さんも講演で話していた。

「女性は毎日鏡を見た方がいいですよ」。その意味は、5年に1回、鏡を見るようではショックが大き過ぎるというのだった。「朝起きて夕べに年はとらねども、いつの間にやら年は寄りけり」と道歌にある。

歳月は日々刻々、命あるものすべてを古くしていく。「権力は必ず腐敗する」との格言も、すべてを老化させる歳月の力を言ったものだろう。

政権党に贈りたい道歌がある。「あさましや老いや昔に見し人を、思えば今のわが身なりけり」。鏡に映る己の姿は、かって批判した古い政党に刻々と似て行くとの意味だ。


トキ

2010-04-26 06:14:28 | Weblog
本州最後の生息地である能登でトキが目撃されたのは40年ぶり足輪の色や形状から2008年に佐渡トキ保護センターで放鳥された4歳の雄と断定された。

トキと大騒ぎしなさんな、という声が聞こえる。人間さまの方がもっと大事だろうが、とおっしゃる。ごもっともである。トキの繁殖以上に、この社会の少子化対策の方がはるかに重要で、大問題である。

いしかわ動物園で待望の繁殖が始まり、雄雌が交互に卵を抱いているという。近ごろは、父親も人前で赤ん坊を抱くし、おむつも換える。トキだけが、けなげな子育てに励んでいるわけではない。

それに、あれはけなげなさ以前の本能である。そうではあるが、連日のように幼児の虐待事件が起き、心が沈む折である。逮捕直後の高ぶりの中での供述であろうが、この懸命な訴えを無残に踏みにじる振る舞いが次々と報じられる。

ひょっとして子育ての本能まで、薄れてしまったのだろうか、いまさらトキに教わらなくても、生きることの大切さはわきまえているはずだが。

寒暖

2010-04-23 06:23:23 | Weblog
また冬に逆戻り。いつまでこんな極端な日が続くのだろう。桜が満開の能登の海に、厳寒の波の花が舞う。雪の綿帽子をかぶる桜もある。

見慣れる春に、体の変調を訴える人も目立つ。急激な寒暖の変化は、北極圏の寒気団のせいとも、海の温度の影響といわれる。

原因が分ったところで、大自然が相手では、じっと耐え忍ぶしかない。年が明けてから、4月並みの暖かい日がしばらく続いた。相変わらずの暖冬か、と気を緩ませたが、甘かった。

やはり春の扉は、そう簡単に開いてはくれない。とりわけこの地はそうである。だから「北国の人は辛抱強い」と言われてきた。不遇の時、鈴木大拙も棟方志功もそう励まされた。と回想している。

激しい不況風は、やっと勢いが衰えたという。が、まだ風の厳しさに苦闘する人は、周囲にいくらもいる。不況脱出の扉も、したたかに重いことを知らされる。が、風の冷たさは同じでももう背を丸め、縮こまって歩いたりしない。

もう少しの辛抱だと思えば、背筋は伸びる。そう思えば、人目を驚かせる雪中の桜も、美しく、頼もしく見える。

目覚める

2010-04-21 08:15:28 | Weblog
「敗れて目覚める。それ以外に日本が救われ道はない」。21歳で戦艦大和とともに沈んだ海軍大尉の言葉である。

敗れても目覚めないと、自民党に決別した「たちあがれ日本」だが、捨て石となる気配はない。「30代、40代にわれわれと同じくらい国を憂う人がどれだけいるのか」と言う石原知事は「血が沸き立っている」と周囲を戸惑わせている。

与謝野氏は「年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いる」と心の若さを説く。長寿社会は日本人の年齢観を変えた。「男はかっての8掛け、女は7掛け」と言われる。

77歳の石原氏は一昔前なら還暦を過ぎた程度、平沼、与謝野両氏は50代後半に相当するというわけ、当人たちに老人の自覚がないからしょうがない。平沼新党は長寿社会ならではの現象とみることもできよ、が、自分だけが憂国の士と思うのは老化の証しだ。

国を憂う者はいつの時代どの世代にもいる。次代を信じられなくなった時、人は老いるのではなかろうか。

世界最高

2010-04-19 07:47:13 | Weblog
世界最高レベルにあることを「ノーベル賞クラス」と例える。数学や建築土木工学部門のノーベル賞はないから、とくにそれ以上を意味する。

数学の「フィールズ賞」や建築の「プリツカー賞」がそれだ。フィールズ賞の歴代日本人受賞は3人。プリツカー賞は、先日受賞した金沢21世紀美術館の設計者、妹島和世・西沢立衛氏のほか丹下健三氏ら3人しかいなかったことからも、賞の重さが分かる。

先日、関西電力の黒部川第四発電所が、電気電子技術部門の歴史的偉業をたたえるマイルストーン賞を受けた。産業界の「道標」とされる賞であり、黒四ダムが世界史に刻まれたことを意味する。

ノーベル賞かそれ以上の価値が身近にあった。名誉なことだが、外国の機関から指摘されるまで値打ちに気づかなかったり、あるいは、黒部の電源開発を志した高峰譲吉博士ら先人の苦労が、今日脚光浴びるまで埋もれたままでなかったのか。複雑な思いがしないでもない。

うなぎ

2010-04-17 06:48:53 | Weblog
ウナギの完全養殖に成功したそうだ。おいしいうな重がやがて食べられる。つばがわき出るようなニュースである。

世界初の快挙は難しい技術や管理が必要なようで、親ウナギにホルモン処理をして性成熟を促す、とある。何やら、ウナギはややこしい目に遭わされる。

ツバをのみ込みながら、おまえは確かにおいしいのだろうな、と念を押したくなる。「くし打ち3年、裂き8年、焼き一生」とか。

増えたウナギを生かすも殺すも腕次第。そんな技まで、ホルモン処理で完全養殖できるはずはない。たっぷりツバを流すのは早とちりか、ごちそうが身近になるのは、うれしいことである。

少しの奮発で、回転ずしでトロが味わえる。が、小さな子までが「トロ、お代わり」とねだるのを見ると、脂ぎった味が本当においしいのか、と余計なお節介を焼きたくなる。

豊かな味があふれる時代は、逆に「ああ、おいしい」という感動が見つけにくくなってはいないか。ウナギには悪いが、快挙の報にどこまで拍手を送ればいいか悩んでしまう。

面会

2010-04-15 07:21:33 | Weblog
週末は、花見客で大いににぎわうことだろう。花に心浮き立つ日々に、花に背く心痛む話も届く。

中国で死刑に処せられる日本人の動向が連日、報じられていた。麻薬密輸で死刑になること自体、私たちには大きな衝撃だが、加えて、刑執行の前日に家族と面会させるというやり方にも心が深くえぐられる。

桜咲く日本から大連に向かった家族たちは、どんな思いで最後の対面に臨んだのだろう。面会すなわち処刑宣告である。目を背け、目をふさぎたくなるような悲痛な場面しか想像できない。

当人と家族たちに、大きな嘆きと悲しみをわざわざ与える。温情をよそうような対面は、最後の衝撃的な見せしめ、懲らしめとしか思えない。遠い昔、暴君や異民族の支配者は、そんな残酷な場面を好んだという。そんなことまで思い起こす。

盛んな富を蓄えても、あの国からは近代的な制度や法、文化と言った大事なものが見えてこない。往来が盛んになって、勤勉で心優しく、勇気ある隣人たちに多く出会う。

だからなおのこと、あの国が分からなくなってくる。



新聞少年

2010-04-13 06:39:26 | Weblog
「竜馬伝」で人気の福山雅治さんが「僕は新聞少年だった」と話している。故郷の長崎で地方紙を配達していたという。竜馬ブームの本場、高知は自由民権運動の発祥の地でもあり「自由民権記念館」がある。

12日まで「春の新聞週間」であった。福山さんは、未来の新聞の小型化を提案していた。。が、小さくすると読んだ後の使い道がむずかしいので今のままでいいか、と笑っている。

その通り。明治の「開化新聞」は今よりうんと小さく、段々と成長して現在のサイズになったのである。

中高年世代も古新聞を懐かしむのは同じだ。お雛様や五月人形を包んだり、押し入れの壁に張った。人形を出すたび一年の成長を知り、大掃除で昔の新聞を読み始める時も忘れ仕事にならなかった。

新聞少年「福山竜馬」のおかげで、時代とともに生きる新聞を実感できた。

旗揚げ

2010-04-11 07:43:24 | Weblog
旗揚げした与謝野馨・平沼赳夫氏の新党への期待度が、世論調査では、27.1%にとどまった。期待しない人が65.9%もいる。

政策通と言われる2人が柱になり、園田博之前幹事長代理や藤井孝男元運輸相が参加した。
いわゆる著名議員が多いが、期待度の低さはそこにあるのではないか。何をいまさらこのメンバーで、と思う有権者の心理が見てとれる。

この議員たちの先祖は歴史に何人も登場する。与謝野さんは明治の歌人で国政選挙にも出馬、惜しくの落選した与謝野鉄幹の孫であるし、平沼さんの養父は戦後の首相・平沼騏一郎であり、実の祖父は内務官僚である。

安倍、福田、麻生、鳩山と続いた2世3世議員の首相が真系とすれば、与謝野・平沼両氏の連携は、多少複雑な世襲議員の集まりに見える。

確かに立派な政治家の家系だが、新党まで世襲の臭いがぷんぷんする日本の政界とは何だろう。無論、世襲議員のすべてが悪いのではない。が、期待する以前に「昔の名前で出ている」ような議員が改革の旗を揚げる現実に、国民はしらけてしまうのではなかろうか。