デジカメぶらりぶらり

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減災

2013-03-30 06:39:49 | Weblog
司馬遼太郎さんの名作『竜馬がゆく』で、若き坂本龍馬は我流の精神修行をする。歩く時は常に、頭上に岩石が落ちてくることを思うのだ。15歳で始め、最初は無性に怖かった。

3年ほどでやめたが、ある時に、その後ろ姿を見た道場の師範代が言う、「あいつは大きい。うしろが斬れぬわい」。まず起こり得ぬ災禍に備え続けたために、すきのない身のこなしと心構えが、知らぬうちに身に付いていたという話だ。

われわれが常に想起しなくてはならないのは、頭上に落ちる岩石ではなく、とてつもない大地の揺れと大津波だ。これは起こり得ぬ災禍ではない。地震学者たちが2030年代には起きうると予想する「西日本大震災」だ。

宮城沖で起きたような巨大地震が東海から九州沖で起きたら、死者は最大で32万人、経済被害は200兆円を超す。そう聞けば、竜魔少年のように、無性に怖くなる。考えるのをやめたくもなる。

だが例えば、建物の耐震化を進め、揺れを察知すると電気を止める「感震ブレーカー」を備えるなどすれば、火災の死者が1万人から300人まで抑えられ、建物の被害は半減できるという。

家具を固定するだけで家の中から危険が一つ減る。一人一人が少しずつでも備えを固めていけば、竜馬が剣の達人になったように、知らず知らずのうち、みんなが「減災の達人」になれるはずだ。

ランドセル

2013-03-28 07:59:00 | Weblog
<ランドセルこれが苦労のはじめかも>は、上方落語桂米朝さんの句だ。真新しいバッグを背負った子どもたちが、ぴっかぴかの笑顔で学校に向かうのも、もうすぐ。

新一年生が背負うランドセルは余りにも大きく見え、それがまた初々しさを倍増させる。大きすぎるランドセルも6年たつと、すっかり小さく見えるようになる。卒業式を終え、「ご苦労さま」の声とともに、押し入れ行きとなるのも多いだろう。

そんなランドセルをアフガニスタンに送る運動が続いている。NGO「ジョイセフ」が9年前に始め、これまでに10万個が、子どもたちに届けられたという。テロへの報復として米国が空爆を始めた直後だから、12年前だ。

700人ほどが通う学校だったが、校舎は草ぶきの屋根の下の土間に、ござを敷いただけ。壁もない。授業中も砲撃の音が、遠くから聞こえていた。そこの児童らに大人気だったのが、米軍機が投下した支援物資入りのバッグだった。

「人道援助食料 米国民からの贈り物」と大きく書かれた黄色いビニール製のバッグが、格好の通学かばんになっていた。<仮校舎でも入学児には花の園>は、米朝さんが阪神大震災後に詠んだ句。アフガンのござ敷きの学校も新入生には花の園だ。ランドセルが届けば、ぴっかぴかの笑顔がたくさん咲くだろう。

提訴

2013-03-25 08:03:27 | Weblog
土を耕したことがある人なら、分かるだろう。本当に豊な土をつくるのが、いかに大変か。鍬を入れ続け、際限なく石を拾う。ほかほかした畑は、何世代もの人が慈しむように土とつきあって初めて、できる。

美しい田園風景とは、人間がさまざまな絆でつながりつつ、大地に愛情を注ぎ続けたことで、出来上がった情景だ。そんな大地が2年前、原発事故で汚され、なお15万人が避難を強いられる。

先日、住民ら1650人が国や東電を相手取って、一斉に提訴した。福島地裁に出された訴状に、こうある。<一人で生きてきたものは一人としていない。その結びつきの場が、美しい福島であった><原告らが求めるものは、第一に、もとの美しい福島、ふるさとを返せ、という住民のさけびそのものである>。

農地だけではない。豊な海も汚された。訴状は老いた漁師の嘆きも伝える。「仕事をしていないから、手の皮がこんなに柔らかくなってしまった」。国と東電は、かけがえのないものを奪われた人々の訴えに、どう応えるのか。

囲碁

2013-03-23 08:21:18 | Weblog
史上初の囲碁タイトル6冠を達成した井山裕太さん(23)右利きなのに、囲碁だけは左手で打つ。碁好きの祖父が「左手を使うと右脳の刺激になる」と勧めたとの話が流布しているが、本人は「いや恐らく、小さなころ右手の皮膚炎がひどかったので、やむなく左で・・・ということでしょう」と笑う。

5歳で碁を覚え、わずか1年で3段。小学2年で小学生名人になり、12歳でプロ入り。20歳で名人となり、それから3年でタイトルをすべて手にしてきた。が、早熟な故、挫折の怖さを知るのも早かった。

小学4年でスランプに陥り、真っ暗な部屋で一人碁盤を見つめた。師匠の石井邦生九段の著書『わが天才棋士・井山裕太』に、そんな姿を見守ったお母さんの言葉が記されている。「小さいのに大きなものを背負っているんだなと。言ってやりました。あなたは宝物。碁が強いから大切なのではない。たとえ強くなくても私たちの子供なんだから・・」

井山君は大声で泣きだしたそうだ、小学生名人になった時は『世界一の棋士になりたい』と言ったが、実際に中韓勢の強さに触れてからは、その思いをほとんど口にしなくなったという。夢を叶える覚悟を、深く秘めてのことだろう。

南米

2013-03-21 08:11:04 | Weblog
どんな人に尋ねるかで、これほど評価が割れる人もいないだろう。どの国で聞くか、先進国か発展途上国か、金持ちか貧し人か。独裁者と呼ぶ人もいれば、救世主と崇拝する人もいる。

そんな政治家、南米ベネズエラのチャベス大統領が58歳で逝った。貧しい家に生まれた。10歳にならぬうちから畑仕事を手伝い、祖母がつくる菓子を路上で売って稼いだ。野球少年で、夢は大リーガー。

「植物に水をやる時に歌ってやれば、きれいな花が咲く」と祖母に言われれば、一生懸命に歌った。子供のころ、曽祖父が「人殺し」だと聞いて、おののいた。後に調べたら、政府に反逆したゲリラと分かった。

支配層にとっては、「殺人者」。逆の立場から見ると、「英雄」。この二面性こそチャベス氏の姿だ。いや、ベネズエラ自体が、二つの顔を持つ国だった。世界屈指の産油国ながら、その富は特権層や海外資本に独占されて、人々は貧困にあえいでいた。

だから、石油利権に切り込んで、富を貧困対策に使った指導者に民衆は熱狂した。当然抵抗は強く、それを封じ権力を維持するためになりふり構わぬ手段も使って、国を二分した。二つの顔を持つ男チャベス氏の国葬は3月8日だった。

しかし、「貧しい人があふれる豊かな世界」という、この世の二つの顔は葬り去られるどころか、ますます鮮烈な明暗を見せている。

レッドカード

2013-03-19 07:32:42 | Weblog
あの黄色と赤のカードがない時代の、サッカーの試合は大変だったらしい。審判から警告を受けた選手が、それと気づかず、新聞で初めて知る珍事まで起きた。国際化するサッカー大会で言語に頼らず、明確に伝える方法はないか。

英国の名審判ケン・アストン氏は、ロンドンの街中を車で走りながら考えていた。信号を見てひらめいた。「黄色は注意、赤は止まれ 退場!」。1970年のワールドカップから使われ始めたイエローカードとレッドとレッドカードは、こうして生まれた。

東京高裁が、先の衆院選での一票の格差は「違憲」だと断じた。最高裁が今の区割では「違憲状態」と警告していたのに、そのまま総戦挙に踏み切ったことに業を煮やした格好だ。イエローカードを出されていたのに、そのままラフプレーを続けた。

だから今度はレッドカード・・・なのだが、退場処分ではない。区割りの是正を進めているところだから、選挙を無効とまでは言うまい、との判断だ。ただ、札幌、来週は名古屋や仙台の高裁という具合に「一票の格差」訴訟の判決が、次々と出る。

「退場!選挙無効」と宣言する審判も登場するかもしれない。それにしても、レッドカードを出されても平気でプレーを続け、違憲な「一票の格差」を真剣に論じず、改憲を論じる議員の厚顔ぶり。信号無視の暴走車はどこに行くのか。

父親

2013-03-17 08:02:26 | Weblog
永六輔さんに初めての子どもが生まれた時、浅草のお寺の住職だった父の忠順さんはこう論じた。「父親になったんじゃない、父親にさせてもらったんだからね」。

お父さんにさせてもらったことが、うれしくて仕方ない人だったのではないか。北海道湧別町(ゆうべつちょう)の岡田幹男さんは猛烈な地吹雪の中、小学生3年の長女を一晩中、胸のかに抱きかかえ、自らのぬくもりで幼い命を守った。

2年前に妻を亡くし、長女の夏音さんと二人暮らしだった。養殖業を手がけながら、一緒に朝ごはんを食べるために漁の時間を遅らせることもあったほど子煩悩な人だった。娘の好きなハンバーグをよく作った。

お父さんの料理は豪快になりがちだが、娘のために焼いたハンバーグはどんな味だったのだろう。父と娘だけでも温かい団らんの光景が浮かぶ。北海道を襲った暴風雪で多くの人が亡くなった。

春はもうすぐなのに、自然の猛威の前に無力であることが悔しい。


2年前

2013-03-13 08:03:11 | Weblog
<お母さんがいたら、いろんなことができたね。ケーキとかつくったりできたよね。保育園から帰ると、お母さんが作ったおやつを食べさせてくれたね。3月10日まではいい日だったね>。

と、岩手の小学3年の女の子は書いた。『3月10日まではいい日だったね』は、震災遺児らを支援する「あしなが育英会」が出した作文集だ。表紙は、あの一本松の絵。お父さんが行方不明になった9歳の少年が描いた。

彼は天に伸びる勢いの松を描いて、言葉を添えた。<がんばれ一本松 ぼくのお父さん どこにいるのか みえないかな。みえたら おしえて 一本松 おねがいするよ>東日本大震災で親を失った子どもは1500人を超える。

あしながの作文集を読めば、この1500の心が抱えるだろう想いが、脈を打ち伝わってくる。宮城の小3の女の子はあの日、母さんとけんかして、謝りもせず学校に行った。
「母はもう怒っていないだろうな」と思いながら家へ帰る途中、地震が起きた。学校に戻り夜を明かした。みんなには迎えが来たのに、母さんは来なかった。死んでしまった。

2年前の今日は金曜日だった。少女は、書く。<私はお母さんが見つかってから金曜日の2時46分に、ベルを鳴らしています。そしてお母さんに「ゴメンネ」を送っています。ちゃんと聞こえていたらいいです>。きっと、聞こえているよ。

ピンポン

2013-03-11 08:21:51 | Weblog
「尖閣列島も日本に返還」。1971年4月5日の朝刊一面には、大見出しが躍った。台湾や中国と領土紛争がある島々を沖縄返還の時に一緒に返すことで日米が合意した、日本の領有権を米国が正式に認めたとのニュースだ。

この日の朝刊をめぐっていくとこんな記事も目に入る。「卓球仲間に国境なし。“このバスに乗りな”中国選手 米選手と仲よく会場へ」。米中国交正常化にむけた「ピンポン外交」が大きく展開することになった“事件”の第一報だ。

名古屋で開かれていた世界卓球選手権で、中国人選手の専用バスに、一人の米国人選手が乗ってしまう。記事は、笑顔で握手する米中の選手の写真とともに、若い米国人選手の興奮した声を伝えている。

「政治のことは知らないけれど、とにかく仲良くできるもんさ。これは大切なことだよ」。これが契機となり、中国は米選手団の北京招待へと踏み切る。レスリング男子ワールドカップが開幕したテヘランで国際政治では断交状態の米国とイランの競技団体役員が「政治とスポーツの問題は別」と言って抱擁し合った。

五輪からレスリングが外されるかもしれないという危機を前にした大同団結だ、イランをめぐっては、核開発に危機感を強めるイスラエルの空爆が懸念される。レスリングでの共闘が多少なりとも緊張緩和につながれば、それこそ金メダル級だ。


ジュゴン

2013-03-09 06:53:00 | Weblog
「反対運動がなかったら、もうこの眺めは失われていたんですよ」。沖縄県名護市辺野古の浜で、海上基地建設反対のため3230日もの間座り込みを続ける一人が、そう言った。

その眺めのすばらしさをどう表現すればいいのか。美しい海を見慣れている沖縄の人も「ここはいいねぇ」と嘆息する。翡翠(ひすい)やトルコ石が溶けたかのようなサンゴ礁の海が、濃紺の大海原へと続く。

「辺野古ではいくら子だくさんでも食い潰れしない」と言われてきたそうだ。食べ物に困っても海に行けば、貝や魚がいくらでも捕れる。戦中戦後の食糧難の時も海が助けてくれた。

その豊かな海の象徴が、沖繩でジャンやザンと呼ばれるジュゴンだ。地元の民族を研究する前田一舟さん(38)によれば、「ジャンが人間に子孫を残す道を教えてくれた」「人間とジャンの間にできた子こそ、われわれの先祖」といった神話が沖繩には数多く伝わる。

ジュゴンは海の恐ろしさも象徴する。「ジャンを捕ると津波が襲う」「ジャンが見えると、津波が来る」という言い伝えも各地に残る。ザンという言葉自体が津波を意味するとの説もあるそうだ。

そんな海の神も沖繩には今や十数頭しかいないという。普天間飛行場が辺野古に移設されれば、その貴重な生息地が失われる。安倍首相はこの「美しい国の宝」をどう考えているのだろう。