デジカメぶらりぶらり

デジカメのほやほやの写真をご覧下さい。

昭和の日

2011-04-30 08:46:30 | Weblog
戦後最大の災害、戦時の空襲に匹敵するともいわれる震災。戦後復興を思わせる状況から「災後」「災中」との言葉も登場した。

その復旧に汗を流す中で「昭和の日」を迎えた。東北の新聞はいまだ「災中」の混乱と被災者の奮闘を伝えているのに対し、東京のマスコミは「災後復興」を伝えている。

その落差をなげく人もいる。どの言葉も、平穏な日々が続くことの難しさを言っている。昭和は戦前と戦後のふたつの顔を持っていた。

戦後の復興には約20年の、戦前に匹敵する時間を要した。平成も23年の歳月が流れた時に震災にあった。安定した時間が続くのは、ほぼ20年しかないことを身近な歴史は示している。

政治も経済も教育も、20年先は近くでもないが、それほど遠い未来の話でもない。復興とは単に国の姿を元に戻すのではなく、日本全体の大改造に結びつけると言うのなら、20年先を見据えた政策がいるように思う。

「昭和の日」が、いま新しい役割を与えられている。戦後の復興を支えたのは明治・大正世代だった。平成の「災後」を支えるのは昭和40、50年代うまれの世代だ。頼むぞ!20年後の日本を。

東北新幹線

2011-04-22 07:56:46 | Weblog
東北新幹線は被災から1カ月余りで東京―福島間が、不定期ながら開通した。大きな余震のために遅れたが、仙台を中心とし全線復旧も来月はじめに予定されている。

1964(昭和39)年に誕生した新幹線と、1967年着工の福島第1原発は同じ40歳代半ばの中年同士だ、ともに日本の科学技術の「安全神話」を守り続けた同世代と言ってもいい。

だが、双方の評価は大きな違いを見せている。新幹線は、阪神大震災で多く高架が崩れ線路が断たれたが、早朝で走行車両がなくて大被害を免れた。

その教訓から東北新幹線は補強され、中越地震での脱線もレール逸脱防止の教訓を残して今日に至った。偶然と、その後の努力が新幹線には生きている。一方の原発は、臨界事故や中越地震での被害はあったが、重大災害を出すほどの経験をしないできた。

それが今、取り返しのつかない災いをまき散らしている。小さな事故の積み重ねが、大惨事を防ぐ力になったとも言える。新幹線は、国土の「背骨」として評価が高くなっている。

科学技術に完璧はない。安全への努力を重ね続けてもらいたい。

まさかの友

2011-04-20 06:53:10 | Weblog
まさかの友は真の友。大震災1カ月の節目に首相は海外からの支援に感謝を表すメッセージを出した。

政府の広告として主要国の有力紙にも掲載と報じられた。米、英、中、韓、ロ、仏とあるが。台湾の名が見当たらない。よもや掲載を忘れたのではあるまい。台湾外交部は、106億円もの義援金が集まり、大半が民間からの善意と発表したばかりである。

日赤などに届いた義援金が1154億円(3日現在)だから。台湾の支援はかなりのものだ。金が援助のすべてではないが、心の温かさを計る物差しではある。今も台湾で敬愛される八田興一技師は、巨大ダムを作った後に現地に慰霊碑を建てた。

碑には工事犠牲者の名が、日台の区別なく一緒に刻まれた。「差別はいかん、と父が厳命したそうです」と、技師の子息が言っていた。思いやる心は、形になって現れる。

だから、支援の一方で、領土問題に新たな火種を持ち込んだり、軍用機を飛ばして緊迫をつくり出す国の指導者がいることも忘れまい。まさかの時は、善意もその正反対も顔を出す。

三春町

2011-04-18 07:23:24 | Weblog
自然は新しい顔を見せる。春を迎える喜びがあり、春に背く出来事もまた続く。福島・三春町出身の人がいた。原発事故で難を逃れた大勢の人を受け入れる町の一つとして時折、紙面で報じられる。

次々と難題が起きて、いつ好転するのか不安が消えぬ日々である。そんな中で見聞きする三春の名。梅と桃、桜がいちどきに咲くという風流に由来する命名である。

という自慢話を聞いたことがある。名に恥じず、三春には樹齢約千年の桜の古木がある。今度の途方ない揺れに耐え切って、今月半ばには開化の見込み、と町役場の人がいう。

過去の大地震にも生き抜いた命である。見事な花を咲かせて、被害者の心も癒してほしいと願う。事前の猛威に深く悲しみ、時に自然の恵みに癒されもする。泣き笑いの交る複雑な春である。

漂流

2011-04-16 07:52:39 | Weblog
宮城県気仙沼市の沖約1.8キロの海上で漂流していたところを、津波から3週間後に救助された犬が4日、名乗り出た飼い主の元に戻った。

飼い主は「これから絶対離さずに、大事に飼う」と喜んでいたという。犬は雑種の雌。震災の行方不明者を捜索していた第3管区海上保安本部(横浜)の特殊救難隊のヘリコプターが1日に発見、救助艇で助けた。

県動物愛護センターで保護されていたが、気仙沼市の避難先でテレビを見た50代男性の家族が「うちの犬じゃないか」と名乗り出た。妻が同センターを訪れたところ、犬はしっぽを振って喜び。

センター職員らに見せる態度とは全く異なり、飼い主と判断したという。

Ⅰケ月

2011-04-14 07:13:57 | Weblog
あの3.11から間もなく1ケ月、冷え切った列島に桜前線が北上し、遅い春が来たかのように見えたのは幻だった。

M7.1。震度6強。阪神大震災に匹敵するエネルギー。これで余震だという。東北三陸沖に潜むのはいった何か。どこんで傷めつければ気がすむのか。なぜこんな目に遭わないといけないのか。

被災者でなくとも思う。阪神大震災以来16年で、震度6強を何度体験したか。能登、中越、福岡。日本列島に住むことは数年ごとにどこかでだれかが大震災に遭うことを意味している。

千年単位の地震研究が大切と言われている一方で、身近で続く震災のひどさにがく然とする。過去の災害を忘れる前に、また新たな災害が襲ってくる。その中で、春には桜が咲き、秋には稲が実り、水産物が水揚げされ続けた。

自然の恵みに感謝し、雪月花をめで、「美しい四季の日本」に疑問をもつことはなかった。自然の過酷さは忘れ、美しさを賛美し、倒れればまた立ちあがる。日本人は偉いと思う。

いま、大震災の悲惨さを前に複雑な思いがないではないが、そう思わないと前に進めない。



1票

2011-04-12 07:05:47 | Weblog
集団避難で故郷を去る被災者の姿が連日報道された。「ふるさと」が、東日本大震災のキーワードのひとつになった。被災者が集団でバスに乗って故郷を去る光景があった。

「必ず戻ってくる」と老いた住民たちは言い、送り出す町長は、仮設住宅建設に取り組む決意を述べて「戻って来れるようにします」と涙ぐんだ。

明治期以来、各地の若者が「ふるさと」を後にして、都会へ向かった。東北はそうした「ふるさと離脱」を象徴する地方だった。若者は故郷を出て、ふるさとの力に気づき、新しい自分を見つけていった。

だが、いま東北で見る「ふるさと離脱」は高齢者が多く、むごいばかりの光景だ。高齢化の進む過疎地を襲った震災の残酷さのひとつは、十年後のふるさとの姿が、行政も住民も描き切れないことにもあろう。

原発周辺の住民は帰るあてもなく、ふるさとを後にした。住民の「帰るべきふるさと」まで奪った災害などかつてあったろうか。市長や町長、議員や区長。有権者に選ばれて就くポストの最大の任務は「ふるさと」を守ることに尽きる。

震災の春に投じる1票の重さを忘れないでもらいたい。

身から出たサビ

2011-04-10 06:39:08 | Weblog
身から出たサビだが、相撲協会が抱え込んだ八百長問題が難題だったことがよく分かった。疑惑のメールは出てきたが、八百長の決定的な証拠ではない。

本人や周囲の言い分などを突き合わせて処分が決まった。疑わしきはシロではなくクロなのか、と厳罰に対する怒りや批判が噴き出す。八方丸く収まる裁きなど、めったにありはしない。

年配者には大相撲ファンが多い。長寿を保つ人に楽しみを尋ねると大概、テレビの相撲観戦、という答えが返ってくる。大男たちが長い仕切りの後で一瞬の勝負に挑む。静から動へメリハリの利いた動きが目に心地よく移るのだという。

大震災の被災者や避難生活を送る人たちには、年配者が多い。こんな時だからなおさら、土俵の再開の決定を待ち続けているに違いない。力士が踏む四股(しこ)は、地にひそむ悪い霊を踏み付け、邪気を払う神事だと聞いた。

地震も津波の規模も想定外、と繰り返す学者の弁明よりも、大男の四股の方を心強く思う人もいるだろう。大相撲も復興の年である。などと生意気を言わず、彼らの懸命な姿を見習ってほしい。

復興

2011-04-08 06:35:41 | Weblog
「復興庁」をつくる案が出ている。関東大震災時の「帝都復興院」を参考に、総裁として手腕発揮した後藤新平の功績も高く評価されている。

一方で、復興へ組織を作っても、「それをこなす人材は今の日本にいるのか」との声も強い。現状を見れば、その気がしないでもないが、いつの時代も初めから立派な人材がいた例はない。

「時代が人をつくる」視点が大事ではないか、こんとんとした時代の力が、人を磨き、鍛え、青年たちの志を高める。艱難汝(かんなんなんじ)を玉にす、ともいう。

高杉晋作も坂本龍馬も「幕末に生まれなければただの人」との言葉もある。大正期の後藤新平を英雄視し過ぎて、今をおとしめては何も生まれない。

苦難に挑む中で人は助けあい、痛みを分かち合う心を学び、大きくなる。敗戦の荒廃からの復興もそうだった。日本の歴史はその繰り返しではなかったか。

この戦後最大の難局に、新しい日本人が育たないわけがない。先日の入社・入庁式で各界に新人が登場した。厳しいスタートとなったが、「復興元年」に巡り会ったのである。

「最高の春」だったと言える日が来ることを信じたい。

四角四面

2011-04-04 07:54:19 | Weblog
東日本震災の被災者が「まだ海や川を見ると震えが止まらない」と語っている。テレビよりもラジオを聴く、という人が周囲に増えた。

津波やがれきの山、原発の衝撃的な映像が日々、繰り返し流れる。映像は雄弁だが、いま安らぎが必要な人々には酷である。大地震に対する報道の姿勢も問われている。

自戒を込めて、そう思う、「頑張ろう」という画面を見て、映画の寅さんを思い出す。最後の作品で寅さんは阪神大震災の遭遇し、避難所で大活躍する。行政の対応が遅い、とたんかを切る。

「市長、四角四面じゃ物事は進まないよ」人一倍四角い顔が言うから思わず吹き出す。笑った後で、なるほどと納得する。さすがは寅さんである。衝撃の現場を流す映像、がんばりが限界のひとに対する「頑張ろう」、被災地の心情を理由に広がるいろんな自粛の動き。

私たちの周囲にも、厄介な四角四面が潜んではいないだろうか。