デジカメぶらりぶらり

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耳イカ

2011-09-30 07:59:30 | Weblog
なるほど、「暑さ寒さも彼岸まで」である。しつこかった異常な残暑が、すっぽりと消えた。消えたのはいいが、頼みもしない台風がやってきて大暴れし、秋の涼しさを置いていった。

迷惑極まりない話である。土足で上がり込み、散々騒ぎ立てた揚げ句の置き土産。複雑な思いで迎える涼しさである。台風で、足止めを食っていた底引き網漁が、ようやくにぎわいを取り戻す。

甘エビ、カレイ、メギス、ハタハタと海の幸の名を並べ立てていたら、「耳イカをご存知かと」尋ねられた。出てきたのは数センチほどのタコそっくりのもの、ミッキマウス耳みたいな突起が頭にある愉快な姿。

タコでない証拠に足は10本ある。上手に煮付けると、結構いける。たまに底引き網に入ってくるそうで、知る人ぞ知る秋の味だという。狙って捕れる海の幸もあれば、耳イカみたいに偶然の獲物もある。

もう半分

2011-09-28 07:08:05 | Weblog
「もう半分、まだ半分」という例えがある。同じ半分でも、もう半分しかないと思えば心細いが、まだ半分も残っていると考えれば余裕が生まれる。

毎年の彼岸のころに感ずる気分でもある。昼が短くなったと思うか、まだ1日の半分もの長い昼があると考えるか。人それぞれだが、その年の体験によっても違うだろう。

天災続きの今年は「まだ大丈夫」ではなくて「もう備えよう」の心構えが需要だ「まだ」と思う心が余裕に転化できればいい。だが、面倒なことは先送りする怠け心が「まだ」の中にはある。

政治が指導力を発揮せずに「物事を先送り」することを海外諸国は「日本化する」と表現していると紹介したのは、野田首相である。課題先送りの結果、これまで積み上げてきた「国家の信用」が危機にひんしていると、先の所信表明演説で述べた。

その野田さんが世界の要人と顔を合わす初の国際舞台に立った。民主党政権2年でも3人目となる首相は、どう受けとめられるだろう。日本には「もう後がない」のか、この国は「まだ大丈夫」なのか。

台風で大荒れの列島から厳しい目が注がれている。

方言

2011-09-26 07:43:28 | Weblog
口数が減り食欲もなくなる。放射能を避けて福島県から県外に転向した小中学生の中には、不登校になるケースまであるという。

理由のひとつに「方言の壁」はあるとの記事があった。皆の前でしゃべるのがいやになり、故郷でなら「言い返した」元気も委縮する。

笑った方は、それがいじめだと思わなくて悪意もないとしても、笑われた方は深く傷つく、方言自体に問題があるのではない。戦時中、東京の子が地方に学童疎開した時は、地方の子が都会っ子の言葉を笑った。

耳慣れない言葉に関心を示し、笑ったり、聞き返すのは、子どもにとってはむしろ自然なことかもしれない。津軽弁を有名にしたタレントの伊奈かっペいさんに「笑える方言詩」と題したCD作品がある。

ある日、青森の男が秋田の居酒屋に入って女将と話す。ところが、さっぱり通じなくて戸惑うばかり。「青森と秋田びだっど付いだ隣だばて言葉コァ違てなぁー」子どもたちに知ってほしいのは、日本には各地に方言があり、方言とは文化や習慣の違いであること。

その違いを互いに受け入れる心の広さを育てることだろう。

2011-09-23 06:44:23 | Weblog
江戸時代に橋の番付があったそうだ。東の小結に「越中舟橋」。平幕に犀川、浅野川の橋があるそうな。

橋の長さを単純に競い合う。どこか子どもじみたような「番付」だが、大金と技術、知恵がなければ長い橋はできない。橋自慢は、川の恵みが暮らしに息づいていたことを物語る。

恵みをもたらす自然が、時に恐ろしい牙に変わる。先の大津波で嫌というほどそのことを思い知った。その傷口がまだ激しく痛むのに、台風の相次ぐ来襲で川の濁流が襲い掛かる。

情け容赦のない天の仕打ちである。「越中舟橋」は神通川にあった舟をつないだ橋と辞典にある。両岸に柱を建て長い鎖を渡して舟を次々とつないで並べた。水かさが増しても、舟の橋は浮き上がる。橋桁がないから、橋は崩れない。

橋が流れをせき止めるほどの水量になったら、やむなく鎖を切って周辺の浸水を防いだ。海峡をまたぐ橋まで造ってしまう現代の技術からすれば、粗末な橋である。

が、舟橋を工夫した人たちに比べ、現代の私たちは自然の怖さをどこまで知っているのだろうか。同じ問いをまた繰り返す。

名作

2011-09-21 08:37:50 | Weblog
盛岡から秋田に出て羽越本線経由で日本海を見ながら行くと途中「羽後亀田(うごかめだ)」という駅がある。

松本清張の「砂の器」に出てくる町だ。石川、島根、秋田。日本海の各地につながる地名や方言の共通性から、推理の糸をたぐっていく名作の冒頭に登場して、一躍有名になった東北の小さな町である。

先週「砂の器」のテレビドラマが放映された。脚本は竹山洋さん。北陸に詳しい脚本家にしても名作のリメークには苦労したに違いない。

戦中戦後の背景が理解できないと作品の味わいが半減するからだ。若い人たちには分からない風俗や習慣が多くなっている。加えて、最近のイケメン俳優たちで、汗に汚れ空腹に満ちた昭和のにおいを出すのは困難なことだったろう。

清張作品は深いけれど暗い。描かれる土地には迷惑な話もないではないが、地域を有名にし観光ブームを呼ぶ。一方で暗いイメージ払拭には時間がかかる。名作にも功罪がある。

ソーセージ

2011-09-19 05:59:41 | Weblog
魚肉ソーセージに当分、ほろ苦い味が加わりそうである。輪島沖で見つかった脱北者の様子を見聞きしたからである。

漂流する一行に、地元の漁師がソーセージを投げ与えた。母親らしき女性がまず一口食べ。それから子供の与えという。見知らぬ人からの施しは、まず疑い、警戒するのが習い性の人々なのだろう。

かの地の深刻な飢餓で、食べ物を見れば腐敗を疑うという振る舞いも身についたのか、一口食べて、女性はすぐに子に勧めたという。それはそうだろう。

本物のソーセージではないが、魚肉の味も格別なのである。給食のごちそう、遠足の必携品として根強い人気を誇った和製食品である。大人になっても、缶ビールをあおる時には欠かせない。

輪島沖で「毒味役」を買って出たのは、母親らしき人だった。やむにやまれぬ切ない光景に映る。切ないが、子を思う情愛が小さなソーセージを介してひしひしと伝わる。子供のソーセージ好きは、今も変わらぬようである。

脱北の3人の子のとっても、忘れ難い初めての味であろう。それが明るい前途のはなむけになってほしいと思う。

ロスタイム

2011-09-17 07:49:56 | Weblog
五輪出場を決めた「なでしこジャパン」の試合で、ロスタイムの重さを思い知らされた。選手の負傷などで空費された時間を試合時間に「上乗せ』する仕組み。

和声英語だ、と辞書に書いてある。土壇場の中の土壇場で、劇的な結末がたびたび起こる。手中の白星がスルリと抜ける。

逆に九死に一生の幸運を手にする。勝負の厳しさをいやというほど知らされる「おまけ」の時間である。試合時間という厳格な決めごとでも、運用次第で面白くなる。

「お待たせした分、大盛りです」というラーメン屋があるとうれしい。「常連さんに一個おまけ」というコロッケ店に似ているかもしれない。

自然界にも、ロスタイムはないものか。秋の領分を荒らして残暑が続く日々である。当然、爽やか秋の日を2週間ほど延長、おまけしてほしい。その分、雪と格闘する日は短くて構わない。

残暑に苦しんだ分、穏やかな冬の埋め合わせがあるといい。が、ロスタイムは一筋縄ではいかない。暖冬予報が出ても油断大敵、備えが肝心。「なでしこ」から教わったばかりの教訓である。

名月

2011-09-15 09:36:53 | Weblog
中秋の名月が過ぎ秋の風情が存分に楽しめる時期。輪島沖の脱北船騒ぎは、そんな気分を打ち砕く。

船上の9人も日本海を照らす明るい月を見たに違いない。苦難の中で仰いだ月に、どんな思いを抱いたのか。そぞろ胸が痛み出す。

輪島まで列車が走っていたころ、構内に愉快な駅名板が設けられていた。終着駅なのに、次の駅が記されている。「シベリア」と誇らしげに書かれた文字は、空想の旅を大いに刺激した。

海を渡れば広大な大地。そこからモスクワ、パリ、ロンドンへ。世界につながる楽しい旅を告げる駅名板だった。

そうでない現実がある。シベリアよりも近くに、独裁者が治める飢餓の国がある。そこから、航路のない海に命懸けで乗り出した人たちがいた。それでも、月の夜という人目を引く危険を覚悟しての船出である。

満月を境に、月の出は遅くなる。「いざよいの月」は、出るのをためらうような風情の月、と辞書にある。月の出は遅れ、やがて闇の夜となる。暴政の国の闇はなお深いのか。

程なく明けるのか。何度問えば答えが返ってくるのだろう。

稲刈り

2011-09-13 07:49:24 | Weblog
福島県で稲刈りが始まった。会津地方のコメからは放射性物質が検出されなかったが、二本松市の玄米は微量のセシウムが出た。

これから日本各地で稲刈りが本格化する。石川、富山からは検出されなかったが、収穫前の予備検査で関東北部のコメから検出されたこともある。

生産者も消費者もハラハラする日が続く。北陸の米作地帯も広々としているが、東北の広さは格別だ。福島から盛岡まで約200キロも続く仙台平野。八郎潟から広がる秋田平野、出羽三山に続く庄内平野。見事な稲穂が揺れていた。

この穀倉地帯のコメがすべて検査待ちである。「何だか怖いんだよね」と土地の人たちが言うのも無理はない。検査も怖いが、風評被害もまた怖い。放射性物質が検出されなくても相場が下がる恐れがあるからだ。

しかし、微量のセシウムが検出されても精米で数値はかなり落ちることは今回の福島の玄米が示した。既に水や野菜などで必要以上の風評被害を経験してきた。瑞穂(みずほ)の国の度量が試される秋になる。

天災

2011-09-11 07:16:54 | Weblog
長い間、「天災は忘れたころにやってくる」という戒めを聞かされてきた。もうお蔵入りだろう。大震災と津波の教訓を忘れるはずもないのに、台風12号の災害である。

「天災は忘れたころに・・・」は寺田寅彦の言葉とされる。寅彦は夏目漱石の弟子で、漱石の小説「吾輩は猫である」に登場する若き物理学徒「寒月さん」のモデルとされる。

小説の寒月さんは前歯が一つ欠けていた。しいたけのかさをかみ切ろうとして欠けた。と言う。「じじい臭いね」と周囲に笑われ、猫からもバカにされる。面目ない話だが、弱り切った歯ならシイタケを相手にしても欠けることは実際にある。

手入れを怠れば、歯はもろくなる。柔らかいと侮ると、シイタケも手ごわい。寒月さんの抜けた葉も、天災に対する戒めである。防災意識が高まっていたはずなのに、何が欠けていたのだろうか。

まだ台風は来るだろうし、残暑だというのに、もう雪の季節の豪雪被害が気に掛かる。いつまでも忘れようのない多事多難な年である。