デジカメぶらりぶらり

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貧困

2013-03-07 08:03:03 | Weblog
昭和5年8月から翌年1月まで、東京の豊多摩刑務所に収監されていたプロレタリア作家の小林多喜二は、私淑していた志賀直哉に手紙を送っている。「この太陽の明るさは!それはまるで、北海道の春か10月頃をしかおもわせません」。

東京の冬の日差しに驚きを隠さず、出所したら「必ず一度お訪ねしたいと思い、楽しみにして居ります」とつづっていた。出獄後、多喜二は奈良に暮らす志賀を初めて尋ねている。地下活動に入って多喜二はその1年カ月後、築地署で特高の刑事から拷問を受け死亡した。

志賀は多喜二の母親に悔み状を書いている。<前途ある作家としても実に悔しく、またお会いしたことは一度でありますが人間として親しい感じをもって居ります。不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持ちになりました>。

悔み状は雑誌『文化集団』に掲載されたが、検閲によって、<不自然なる>の部分は伏せ字にされた。多喜二がなくなってから今日で80年。特高警察が共産主義者の作家を虐殺した事件は、たった80年前この国で起きた出来事なのだ。

若者の非正規雇用が増え、新たな貧困問題が社会問題になった2008年には、代表作『蟹工船・党生活者』(新潮文庫)が50万部を超えるベストセラーになった。多喜二は今こそ、読む価値のある作家だ。

歌詞

2013-03-04 07:34:41 | Weblog
<太平洋の大潮を/まともにうくる女川は/東日本にたぐいなき /ほこりの港/ここにして・・・>。東日本大震災の津波で児童や父母に犠牲者が出た宮城県女川町の小学校を訪ねた時、校歌の歌詞をみてどきっとした。

郷土の誇りである港は津波をまともに受けは、市街地は破壊的な被害を受けた。校歌を歌い継ぐいでゆく子どもたちは、どうか厳しい試練を強く乗り越えて欲しいと願った。震災後、厳しい批判が相次いでいる歌もある。

50年前に茨城県が制定した「県民の歌」。東海村の日本原子力研究所に設置された原子炉が、国内で初めて核分裂を連続させる臨海に成功した6年後につくられた。<世紀をひらく/原子の火/寄せる新潮/鹿島灘><3番>。

原発事故が起きたのに原子力を礼賛する歌詞は歌えない、という批判だ。茨城は福島の隣県だ。東京電力福島第一原発の事故の影響で、放射性物質が風に乗ってどこまで拡散するのか、不安が高まっただけに当然の反応だろう。

歌詞を変えるべきだ、歌そのものを作り替えてはどうか・・・。様々な意見があるが、長く親しまれてきた歌であるという理由で、茨城県は歌詞を変える予定はないという。「平和利用」の美名で、原子力エネルギーを手放しで礼賛してきたのは茨城県だけではない。

歌詞はそのままにした方がいいのかもしれない。

バブル

2013-03-01 08:08:30 | Weblog
バブル期に7500円を付けた株価は、360円台に下がっていた。日用雑貨メーカー「エステー」の専務だった鈴木喬さんが社長に就任したのは、金融機関が相次いで破綻した1998年だった。

役員に味方はゼロ。何を提案しても拒絶された。不良在庫を捨てろ、という指示も実行されなかった。役員を半減し、860あった商品を280に減らす大なたを振るった。新商品を年間一つに絞って勝負をかけた。

自らがアイデアを出した消臭剤の新製品が年間1千万個を売る大ヒット。その後もヒット商品が相次ぎ、2005年には株価は2千3百円台に回復し、会社は立ち直った。近著『社長は少しバカがいい』(WAVE出版)で、鈴木さんは戦後の焼け野原が原点になった経営体験を書いた。

「社長業とは決断業」「勝った瞬間に危機は忍び寄る」「社長は群れちゃだめだ」。危機を乗り越えた経営哲学は腹に落ちる。東日本震災後、いち早くCMの自粛をやめ、新しく制作したCMを流した。

放射線量を手軽に測定できる装置も採算を度外視して量産した。重苦しい空気を変えたいとの思いからだ。78歳の会長に企業が元気のない理由を尋ねた。「買いたいと思わせる商品を考えられない経営者が最大の問題。世の中が悪いからうちも悪いじゃ、経営者は要りません」温顔ながら厳しい答だった。