気がついたら、1時頃に「ぐああ~っ」と倒れ寝ていた。
今日よりしばしお盆のお休み。
6時に「はっ」と目覚める。
まだ徒労感が残る。
外の温度を確かめるために、窓を開ける。
空を雲が流れている。
風は吹いているが、微風ナリ。
たばこに火を付け、空を見ながら一服する。
***
最近、室内よりも外の方が涼しい。
家=ハウスは、雨風をしのいで・人を守る宿ではあるが、環境としては季節によっては悪しきときがある。
夏の室内も、良いときもあれば・悪いときもある。
セミナー「エコハウスのウソ」の各種データでも知ったが、室内で熱中症で死ぬ人が居るように、家に居れば安全である訳でもない。
むしろ、危険とも言える。
設計家のエゴで生まれた大きなワイドサッシ窓も吹き抜けも、ECOの面では逆行した存在。
窓面積が大きいほど、温度の上下動が激しく、眺望がいくら良くても・反ECO。
暑い空気は上に行き、床付近に冷たい空気は集まり還流しないから、吹き抜けも反ECO。
より環境温度調整がしづらく・よりムダなエネルギーを使う空間を、設計士やデザイナーというウソツキは、見た目重視=住む人無視「ええかっこしい」で作り続けてきた。
これが、今のありさま。
近時の家は(自分の家も含み)高気密高断熱だから、「家が呼吸」せずに、内と外が完全遮断される。
夏の猛暑日などは、室内に居ることは=昔ながらの日本家屋が呼吸するのとは異なり、サウナに入るのと同様な行為の場合も多い。
まあ、とりあえずは窓を開けて空気を流れる道を作るべし。
***
お盆に思い出すのは、小さい頃の三ノ輪の通り。
自分の育ての親(の一部)だった、近所のおばさんたち。
外に出てイスを置き、うちわをあおぎながら夕涼みをする。
可愛がってもらった通りのおばさんたち。
「な~あに泣いているんだい」
親でも無いのに、笑顔で、気持ちを癒してもらったおばさんたちも既にあの世。
お盆には、となり・向かいのおばさんが、夜になると、ナスやキュウリにおはしを刺した動物さんを器に入れて道端に置く。
〔私の写真ではありません。ネット上からのいただきものです。〕
この横でお線香が炊かれる。
亡くなった方々のおむかえ。
風にゆらゆらとお線香のけむりが上がる様。
火をともすおばさんの横顔。
夜のほのかな明かりの下で陰影に憂いが映るシーン。
静かな夜。
〔ピー助・正ちゃん・まみちゃんが眠るお寺〕
自分の記憶には、原爆投下・終戦の日とこの夜のシーンと道から見えた隅田川の花火の光と音が重なっている。
小学生の頃、海洋少年団に属していた頃では、千鳥ヶ淵の戦没者追悼式に参加し、夜、送り火をするシーン。
遠い過去の人々と繋がった末に、自分が今位置しているのだと確認する時。
遠くから脈々と続く日本の魂。
***
■YMO 「ビハインド・ザ・マスク」'79
(’11年サンフランシスコ・ライヴより)■
30年以上経っても本国=日本ではアウェイなYMO/海外では音の本質を理解してくれるウェルカムなちぐはぐ感は続く。
自分の魂に響く「きわめてまっとうな」この音を、単なる祭り騒ぎでしか聴けないこの国。
「自分は果たして、21世紀の日本人なのか?
日本に住む・日本人なのか?」
その違和感が去らない。
is it me?
is it you?
who wear another face?
behind the mask,i ask・・・