こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2012年8月15日 水曜日 「Upon This Earth」

2012-08-15 14:15:27 | スケッチブック

終戦の日。
晴れ。

先日ラジオで伊集院さんが語っていた、好んで作るおそばの付け汁の話し。
それをそうめんでやってみる。

ミョウガをしげしげ眺める。
自然が産み出す形と色合いがなんとも上品で美しい。
香りも含めてミョウガは実に上品な植物。

山芋をすったとろろに、細かく刻んだミョウガを入れる。
そこにだし汁を混ぜて完成。

見た目はともかく、味わい・風味のあるおつゆ。

***

今年の終戦の日も暑いものの、穏やかで静か。
つい、三島由紀夫のことを思い出してしまう。
三島は疎開先で玉音放送を聞く。
なぜ、全てが終わろうとしているのに、ちゃぶ台があり、周囲には親族がおり、庭では夏の日差しを浴びた緑が輝いているのか?
それがとても不思議な光景に映った。

短編「海と夕焼」に描かれる「なぜ神風は吹かなかったのか?」という主題にも重なる。

三島の描く風景描写の持つエロティシズム。
本人も語るように、それは単なる風景描写ではなく、書く三島にとって、官能的であり郷愁を誘う、魂の源泉。

仮面の告白、豊穣の海第四部等々、いくたびも出てくるギラつく日差し・反射する光・輝く緑といった描写に込められたもの。

***

よく自分は昔から、調子が悪く横になる度によぎる念。
死後などあるか/無いかは、死なねば分からないが、彼岸に逝った人は此岸に居る我々に、それを事実として伝えるすべはない。
ジョージ・オーウェルという方が言ったように、キミの骨も乾かぬうちに、キミのことなんかすぐ忘れてしまう。

問題は、それでも想いを続けてくれる糸で繋がった身近な誰かが居るか/居ないかだけだ。
しかし、その人とて、間もなく彼岸に逝ってしまう。
糸がどこまで途絶えないかだけだ。

大学時代という青二才の頃にアルバイトをしながら、外側から社会という車輪が駆動する様を見て、その念を強くした。
自分が死のうがどうしようが、毎朝、新聞や牛乳が配達され朝が始まり、人々の足音や声のざわめきに次第に街は包まれ、夜に向かって収束していく。
自分という死体があろうとなかろうと、その横では何事もなく空は晴れ・雲は漂い・緑は輝くだろう。
地球がある限り。

■David Sylvian&Robert Fripp 「Upon This Earth」
('86年・セカンドアルバム「遥かなる大地へ(Gone To Earth)」より)■

〔画像-アンドレイ・タルコフスキー「ノスタルジア」より〕










英霊たちの魂に合掌。
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