こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

桜井哲夫 「新しい”棲み方”のために」'84

2011-01-15 13:00:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ


私は大学で経済学部に入りながらも、経済には一切興味が無かった。

元々、絵かきの道を進みたかったが、親の「おまえ、そんなもんでメシが喰えると思ってんのかぁ」に完全拒絶され、親に抵抗できない情け無い自分が居た。

だから2年も素浪人し・さ迷い歩いた。

大学では、絵ばかり描いていた。

しかし、不思議と興味あった労働法・祭と現代社会・社会学だけは、前向きに授業を聞いた。
そこで出会ったのが社会学の桜井哲夫先生だった。

先生の授業用にも使われた本「近代の意味~制度としての学校・工場~」は、今でもアンダーラインを引かれ、くたくたになりながらも、ボクの本棚にある。



その本の「ある箇所」の文章が自分のカラダにズシンと来、折あるごとに、読み返す。

以下の文章は私が生きる上で、迷路に入ってしまったとき、リセットして「超えていく」【=SURVIVE】ことへの認識の原点に立ち返らせる。

エイリアンであることを知ってしまった者への言葉。

この言葉は、もはや、ボク自身の言葉のように思ってしまっている。

******************

・・・・さて、他人とのコミュニケーションを次第に失い、激烈な競争原理のなかに置かれた私たちは、ともすれば、集団的な陶酔のなかに誘惑されやすくなっている。

このような危険をはらむ社会のなかで、社会の強制する論理と戦いつつ、逃げながらも「狂気」に至らないためには、どのような道が可能なのであろうか?

その手がかりとして、中井久夫の論攷「世に棲む患者」を敷衍しつつ、社会の強制する論理からの脱出(エクソダス)の道を考えていくことにしたい。

勿論、本論攷は、分裂病患者の退院後の社会復帰について書かれたものである。

にもかかわらず、ここでは少数者が少数者として、決して多数者に同化せずに生きていく道を示唆する視点を私たちに提供している。

その道はまた、私たちにとって不可欠なテリトリーの行動にもかかわらず、普段は労働や教育を中心とする社会のなかで見失われてしまっている空間行動にほかならない。

皮肉なことにも、私たちにとって生きられるテリトリー的な空間行動は、分裂病患者のように非日常的な現実を介して透視されてくるのである。



ところで、中井は、退院後の患者たちが思いも寄らない行動をとり、独特の人間関係を作り出していることに気づいた。

つまり彼らのうち、ある者は、ビア・バーの常連になったり、またある者は、ある決まった映画館に行ったり、さらに決まったときに海を見るために列車に乗って出かけたりする者もいるという具合に・・・・人に知られぬ場をもっている。

そうした場では、彼らは名前も知られないまま、その存在が許容されている。
何年も言葉を交わしたビア・バーの常連もお互いの名前や職業を知ることもないままである。

そして、こうした行動は次第に「橋頭堡=前進基地」を幾つか生み出すようになる。

行きつけの喫茶店から囲碁会所、パチンコ、コンサートといった具合に、オリヅルランが根を張っていくのにも似ており、また仔ウサギが巣から徐々に行動圏を拡大するのにも似ている。


中井は、通常の組織に生きる人々が、職業中心の同心円(ヤマノイモ型)構造に生きているのに対して、オリヅルラン型の行動様式のなかに少数者が少数者として独自に生きていく道を見出している。



そのことに関連して、さらに彼は、自分の団地生活の経験について語っている。

第1期の団地生活のリーダーたちは有能な弁護士・会計士などで、彼らは 4・5年で団地を去って一戸建てに移る。
第2期は,組織(政治,宗教)に属する人々が活躍した。

そして静かになった第3期は、労働に対する価値観の違う人々が現れてきたのである。

仕事に関して有能であっても、仕事は“仮の姿”・“払わなければならない税金”として受け定め、自分の独特の世界(鉄道趣味・UFO研究・書籍収集)をもつ人々がこの時点で姿を現してきたという。

つまり、競争に駆り立てられ、「しっと」や「ねたみ」に駆り立てられるこの群衆社会のなかで、群れに同調せずに生きていく「棲み方」を私たちは自分で見つけていかなければならない。



それは職場集団から離れた「橋頭堡」を次々に作っていくことなのであり、この発想は
G.ドゥルーズ=F.ガタリのいう「リゾーム(地下茎)」とも通じている。

ここで「リゾーム」とは、常に数多くの入り口をもつということを指す。

切断されても止まることなく、接合を繰り返し、一点にとどまることなく広がり続けるリゾーム(地下茎)というのは、いかにも自由奔放なライフスタイルであり、あらゆる組織や制度を拒否するヨーロッパ的なラディカリズムである。

最近の言葉でいうと、それは「マルチチュード」(A.ネグリ&M.ハート)である。



再び,本論攷の内容に戻るならば、中井は「橋頭堡」は決して「基地」にならないと指摘している。
ヴァージニア・ウルフのいう「女が一人でもいられる部屋」にも似た、人々の視線を避けられる、侵されない一隅が必要だという。

確かに「リゾーム」と比べると、中井のいうことは、ある意味できわめて保守的で常識的であるかも知れない。

にもかかわらず、保守的で常識的であることのほうが、必要な場合もある。
速く走るよりも、自分のペースをくずさないことの方が重要な場合もある。
すべてひとびとに一様に走りつづけることを強制する必要もない。


われわれに必要なことは、基地からのびやかに各橋頭堡をめぐりながら、次第に他の地下茎との連携のなかに入ってゆくことなのだ。


急ぐことはない。

われわれはいままであまりにも速く走りすぎてきたのだから。。。。。

コメント (2)
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