こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

失われた記憶を求めて

2011-01-13 11:00:00 | 雑記帳


このタイトルは、今読んでいる柳美里さんの「言葉のレッスン」というエッセイの中の一話から。

先日、私が「或る日」の事故から過去の記憶が薄くなり、その記憶を取り戻す1つとして、ブログに固執している事実を述べた。
柳さんは、外国の多重人格者を挙げながら、柳さん自身も或る期間の記憶が欠落していると吐露している。

***

過去の堪え難いストレス蓄積が「OVER THE TOP」を迎えると、脳が自己保持の為、一定期間の嫌悪する記憶を自ら外に弾き出す。
それが上例では別人格の発現となっている。

然し、日本では多重人格者は少ない。
どちらかと言えば、私や柳さんの様な記憶欠落・人格障害は多いが・・・。

***

私は、1980年の「或る日」以前の記憶欠落に対し、様々な手段での自己分析を行うことで、かなり引き出しは拡がった。

それは、自分で自分に対して、麻酔無しでメスを入れるという行為。
激痛の中、鬱血した血しぶきが飛ぶ。

そこから見えてくる、父が母を虐めた場面・永遠に途絶える事無き毎日連続の不和喧嘩の蓄積+血縁を通した気違いのDNA。
様々な鬱血の要因。
それに依る脳のSPIN。

激痛に意識を失いそうになりながらも、意識が阻害してきた記憶の断片が血の中に見えてくる。

だが、要因はそれだけでは無い。

それは、永遠に根底で横たわる「人間としてこの世に放り出された」解答亡き不条理である。

私の身に、いつENDマークが出るかなんて知ったことじゃねぇが!
進行する死への確実に落ちていく時間の不可逆の一瞬一瞬を生きながら、失われた記憶奪回と、不条理への抗いに突入し続ける意志を諦めはしない。

神など居なくとも、或る神的存在へのツバを吐く無謀あるのみだ。
それが私の死までの基軸と道程である。

コメント (6)
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