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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

インプット

2005年11月25日 | Weblog
昨日の日記に書いたことが原因で午前中まったく元気が出ない。ダメなのだ、あれは、ぼくの精神衛生上一番いけないのだ。気分転換にひたすら机脇の10個くらい積み上がった巨大キノコのような本の山、プリントの山、公演チラシの山を片づける。包括的な処理は半年ぶりくらいか。ほとんど、片づけられない人の家みたいになっていた、あれみると「嘘ー!」と思いつつ、内心「俺もかも」って、、、。次第に片づいていく、10冊くらいの『relax』が発掘される。ああ、一年くらい前までのあいつは、おれほんとに好きだったよな。渋谷直角はあのころ心のライヴァルだった、、、なんて感傷に浸っていると片づかないので、てきぱきどんどん。床が見えてきた!君、いたのね。

ポール・ド・マン『ロマン主義のレトリック』のシラーとクライストについて論じた最終章を読む。難しいけれど、実に面白い。続けて樋口聡『身体教育の思想』にも手を出す。面白いところもあるのだが、「身体」「教育」をめぐる他人の議論のザッピングに徹するという感じで、議論が煮詰まっていくところが必ずしも多くない。身体教育論オタクな感じで、議論は身体が教育によって疎外されているという話であったりするのだけれど、教育思想という学問もその批判を自らに向けるべきなのかも、とつい思ってしまった(身体、というか身体をめぐる具体的な現場を考察から疎外していない?って)。またこうした教育批判の教育学は、教育の新しい可能性をどういう風に見出すのだろうか、とそこが知りたいのだが、明確には出てこない(ぼくの読み込みが足りないのか?)。ところでそうそう、ド・マンの議論も教育が焦点だった。恐らく、教育というものは、それ自体暴力なのだと思う。そして教育はその暴力に居直る必要があるのではないだろうか。「必要な暴力なのだ」と自己弁明する必要があるのではないだろうか。それくらい、真っ直ぐに「教える」ことを教える側がしてくれないと生徒は困るだろう。そういう真っ直ぐなものに対してなら、生徒は正々堂々と反抗できるのではないか、例えば。そういう反抗する力を奪うシステムに教育がなっているところが、実によくないと思う。でも、多分この傾向は教育だけの問題ではないのでしょうね。広い意味でのリベラルな思想が人々をボディー・ブロー的に痛めつけているのだろう、、、

それでも、ダメだ。読書でもまだ気分があがらない。隣の隣の駅のティップネスに向かう。体験コース三回で3000円で(Aが誘ってくれた、彼女はもう入会までしたのだ)。今回、二回目。プールで泳ぐのだ。ピンクや赤の水着を着たおばさんと言うよりおばあさん達と泳ぐ。昼間だからね。誤植についてのエッセイを書くことを思いつく。誤植は正常な読解を妨げるノイズ。ああなんてことをしたんだい、ぼくの絵に落書きしないでよ、なんて叫びたくなる書き手。でも、その事実を書き手が過度に気にすることは、「過度に気にすること」をもって自らが狂気の主体になってしまいかねない。ミスを問いただせば、そんな問いただしをする自分がヤバイ人に思われてくる、そんなものだ。そもそもぼくのなかに過度に気にする理由が潜んでいるに違いなくて、つまり文章を書くにあたってミスをしない人間にみられたいという欲望とあるいはそうみられていないのではないかという不安とが、潜んでいるのだ。何かを「気にする」のは、気にさせるものの側よりも、気にしている主体の側に何か問題があるのだきっと(なんてひとり精神分析やったりなんかして)。まあ要は、時が経てば「まあ、しかたないじゃないか、、、」なんて気分が変わってきてくよくよしなくなる。それを待つしかない。中庸?そう目指す気分はそこ。正常と狂気の間って、だからほんとに綱渡りで、ちょっとこじれるとすぐ「やばく」なる。ヤバイのは逸脱することなのだ。やりすぎ、なのだ。そうそう、だからこんな感じで、ただぼけーっと25メートルプールを往復するのがいいんだ。隣ではインストラクターのかけ声に合わせて、水中エアロビみたいなのやっている。その勢いで波立ち体の左右のバランスが崩れる。波に抵抗することもなく体を過度に平衡させようとせず、でも、「足のけり」に集中して泳ぐ。左足がときどきすっぽ抜ける。きちっと蹴れれば気持ちがいい。この気持ちよさだけに集中する、あと一往復やってみよう。

と、その後サウナに入りすっかり余計なものが排出されたら、気分ややリカバリー。で、わざわざAと夕飯食べに吉祥寺へ「みんみん」。


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