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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

I日記

2010年05月05日 | I日記
GWはすっかり隠遁していた。5/1-2には実家の千葉に帰省して、お宮参りにでかけた。宗教的な儀式というのは、本当に面白い。銀色の鏡と鈴の付いた金色のオブジェ。メタリックな世界。鈴を振ると金色の大きな折り紙(にしか見えない)が光って揺れて、お辞儀して目が向かっている床のあたりを輝かせている。若い宮司さんがうなり声をあげる。そんな30分ほどの式のなかで、Iはうんちをおならとともに噴射し、祝詞をあげる間は一緒に歌い、超リラックスして、大泣きまで披露した。Iにとって、この二日間ははじめてあう親戚たちに笑顔を振る舞う時間だった。緊張したろう、泣きながら笑っている間に、どれだけIの脳は刺激を受け発達しただろう。

5/1に自分の手を見るようになった。自分の手を見るというのは、自己認識のはじまりを意味するらしい。手を見て手を動かして手が動く。自分の意志が自分の手を動かす。意志と身体の統合ともいえるけれど、両者の連動を通して意志と身体がようやく誕生するともいえるだろう。まだ、意志もなく、ゆえに身体もないI。体を動かしてものをとる、ということがいつかはじまる。いまは、欲求があってもすべて自分だけではかなわない。おっぱいも、うんちも、眠いのも、おっぱいや、おむつや、寝床などすべて他人によって与えられてはじめてかなう。この全然自分のことが自分でできないこの状態が、いつか、結構早い段階で、終わる。なんだか、そのことがいまから切ない。成長してしまう、という切なさ。

そう、成長は切ない。5/2には親戚の家で生後15日ほどの新生児を見せてもらった。見た瞬間、かわいくて、涙腺から液体が漏れた。うわっと思った。このときがIにもあった。そして、いまはない、ということに気づかされた。ひとはある段階を日々死んでいるんだと思わされた。この段階は、成長すると段階と思えないくらい淡々としてくるし、段階と思いたくないくらい下降に見えるものとなるから、忘れてしまう忘れようとしてしまう。けれども、ぼくたちも赤ちゃんと同じように、日々ある段階を死に続けているんだと思う。死んで新しい段階にいる。この変化に気づかない。けれども、日々大きな変化のなかにいるのは間違いない。なにか同じものを見て、10年前に感じたことと、3年前に感じたことと、いま感じることとがすべて違っていたりする。そうして変化している。自分を死に続けている。

どんどん成長していて、いまは「ぐずり」がなかなか素晴らしいことになっている。体に力が入っていやいやと強く抵抗する、けれど、なにが嫌なのか判然としない。多分、本人にとってもそうなのだろう。世界と自分とがなんだかしっくりこない。そんなときに、最近はやっているのが、ビヨンセの「シングル・レディース」をかけること。曲のテンポが赤ちゃんの脈拍のテンポと合っているのだそうで、流すとぴたっとぐずりがやむ。やむが10分位するとまたむしが騒ぐ。すると、今度は踊ってみる。Iの前で変なエクササイズのダンスみたいなのを踊ってみる、すると、きゃははと笑う。Iは動くものに反応する、いやより精確にいえば、ダンスに反応するようだ。きゃははと笑って体をよじる、腕を振る、一緒に体を動かしているように見える。

GWには、新しい調べものをはじめた。自分のなかにあって眠らせていたものをあらためて手にとってみている。いろいろとここに書くのは勇み足になりそうだし、ここに書くべきことがらではないとも思うのだけれど、ジーン・ケリーにもマルセル・デュシャンにも伊藤存にも遠藤一郎にも魅了されてしまう自分を貫通するひとつのポイントを模索している。

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