学会の全国大会で大阪へ。もちろん何度か来たことのある大阪や神戸。けれども、気分がきちんと旅モードであれば、異国のように違和感に酔いしれることが出来る。最初の印象は、韓国ぽいなということ。地下鉄の内壁がコンクリートにペンキをぬっただけのところが多くて、そんな風情が韓国を連想させた。それに古いビルがしぶとく使われているところとか。東京は中身のみならず建物の新陳代謝も激しいが、大阪はまだ昭和の多分高度経済成長の時期に建てられた建物をいまでも使っている。チェーンではない個人の喫茶店が多いことも東京とはかなり違う。ひととの接触がマニュアル的ではなくまだ人間的だ。いちいちの公告にだじゃれがつかわれているのは、どうしたものかと思ったりもしたけれど、なんかあなたに今触れていますよ、と伝えたい気持ちがそこここに感じられる。東京にはそれがいまない。一番印象的だったのは、神戸にいたときに、女子学生のスカートがロングだったことだ。日頃、東京近郊で見かける学生のスカートの短さはいくらなんでも異常だろ、と思っていたので、新鮮だったしこれでいいじゃんと心の中で密かに支持してしまった。あの短さは、他人に対して魅力的であろうとする意識を超えてただ短いことがいいという基準に従うだけの暴走に思えて仕方がないのだ。いや、「密か」に出来ずにAにしゃべる。「この丈ってさ、ワイズとかみたいでいいじゃん」というと、「だから、80年代臭がすごいし、いま誰もこうしないのよ」などと言い返されてしまった。しゅん。
国際国立美術館にて『エッセンシャル・ペインティング』展を見た。『アイドル!』展と比べると(比べなくてもいいのだけれど)その見応えと充実感で圧倒していた。欧米で90年代に再興した具象的絵画に焦点をしぼった展覧会。イメージの再現前であることから自由な抽象絵画にはない自由が、実は具象画にある。何かのイメージを喚起させつつそのうえで、どこまでも絵の具の遊びのレヴェルを忘れずにいること。何かがあるという縛りは、むしろそうした自由を可能にするし見る者との関係を抽象画の場合より豊かなものにしうる。「遊び」というのは、メインからはずれたところにいろいろな仕掛けがあるということでもある。例えば、ジョン・カリンは、写真などで見かけたことのありそうなアメリカの典型的な女性たちを描くのだけれど、どうも描きたいのは彼女たちの胸で、それは超巨乳だったり逆に貧乳だったり垂れてたりする。女たちの表情が伝える個性とは無関係に胸は胸でそのひとの個性を勝手に主張してしまう。そうした多視点的な読解を喚起する試みが、魅力的と思わせるどの作家にも見られた。多視点的な読解は、一面的な解釈を許さない分、絵画をクールにし、またそうした意識が漂わされるところがリアリティを生んでもいる。ペイトンはやっぱりよくて、ベルナール・フリズはすごくよくて、アレックス・カッツは「発見」って感じで、その他にも面白い作品が多数あった。あと、印象に残っているのは、美術史を非常に丁寧に研究していてさまざまな参照と応用と再解釈がみられたこと。
国際国立美術館にて『エッセンシャル・ペインティング』展を見た。『アイドル!』展と比べると(比べなくてもいいのだけれど)その見応えと充実感で圧倒していた。欧米で90年代に再興した具象的絵画に焦点をしぼった展覧会。イメージの再現前であることから自由な抽象絵画にはない自由が、実は具象画にある。何かのイメージを喚起させつつそのうえで、どこまでも絵の具の遊びのレヴェルを忘れずにいること。何かがあるという縛りは、むしろそうした自由を可能にするし見る者との関係を抽象画の場合より豊かなものにしうる。「遊び」というのは、メインからはずれたところにいろいろな仕掛けがあるということでもある。例えば、ジョン・カリンは、写真などで見かけたことのありそうなアメリカの典型的な女性たちを描くのだけれど、どうも描きたいのは彼女たちの胸で、それは超巨乳だったり逆に貧乳だったり垂れてたりする。女たちの表情が伝える個性とは無関係に胸は胸でそのひとの個性を勝手に主張してしまう。そうした多視点的な読解を喚起する試みが、魅力的と思わせるどの作家にも見られた。多視点的な読解は、一面的な解釈を許さない分、絵画をクールにし、またそうした意識が漂わされるところがリアリティを生んでもいる。ペイトンはやっぱりよくて、ベルナール・フリズはすごくよくて、アレックス・カッツは「発見」って感じで、その他にも面白い作品が多数あった。あと、印象に残っているのは、美術史を非常に丁寧に研究していてさまざまな参照と応用と再解釈がみられたこと。