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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

雑感

2010年12月18日 | I日記
昨日は、朝九時半から夜の八時過ぎまで、しゃべりつづけた。
午後に二つの講義を挟んで、その前後にひたすら卒論の面接をした。十人以上の学生と三十分ずつは話したろう。最後は、舌と脳がまったくまわらなくなった。
あとは、ハプニングなくちゃんと提出してもらえたら。
本当は、それぞれの論文に対して残念な気持ちがある。もう少し、こうすることが出来たんじゃないかとか、不甲斐ない思いがしゃべりつづけからっぽになった自分のなかに充満する。ふー。
学生は、提出できたらそれでいいんだろうなー。それでも、それぞれの論文にちょこちょこ輝くところがある。そこに着目すれば、嬉しい気持ちにもなれる。

こんな感じの師走をぼくはしばらく送るのかな。退職の68才までこれやるのか、それはよくからないけど(大学が少子化のなかでどうなって行くのかも分からない、楽観はできない)。ぼくの人生は、大学で研究したり教えてりすることであといいのか。あまりいいような気がしないので、こんなこと書くのだろう。

一昨日は、午前に演習の授業を終えた足で、神戸に向かった。妻の祖父を見送るため。5時頃着くと祖母にもお会いできた。そのことがたまらなく嬉しかった。一時間ほど過ごすと、すぐにまた電車に乗って、帰路へ。こうやって、関東からはなれると、関東のひとの暮らしぶりがなんだかぎすぎすしていると感じてしまう。女子学生の佇まいとか、違うなと思う。関東あるいは東京をベースに日本人のことを考えるのはちょっと間違いを起こすことになりはしないかなんて思ってしまう。

文フリが終わって2週間近く経つ。ぼくは「KAT」という雑誌を学生たちと一緒に作ってみているけれど、そのことはそれなりに意味のあることではないかと思っていて、でも、あまりそのことに気づいてくれる人はいない。一本の記事(インタビュー)は、発売直前に没なってしまった。直接の理由はそうじゃなかったけれど、おそらくこの雑誌の「格」に対する反応なのだろうと思わされた。芸術の現場には多くの女性たちがいるのだけれど、また芸術を愛しているひとにも女性が多くいるはずなのだけれど、必ずしも芸術の現場は女性に優しくない。「KAT」を作ったメンバーの多くは、演劇やダンスや音楽やオタク系文化の優秀なユーザーで、彼女たちがどんな思いで芸術に触れているのかということは、それなりに知ってメリットのある情報だと思うのだけれど、あまり興味を世間はもってくれていない。女性×批評というテーマを出来たらいまのKATメンバーで展開してみたい。イベントを行うとか(「アラザル女子会」さんと協働してとか)、あるといいと思うのだが、なにぶんこればっかりは、彼女たちがその気にならない限りは、なにも動かないだろう。ほくがひとり盛り上がって見せても、無理矢理彼女たちをけしかけても、そんなのは意味がない。いま、芸術の分野でなにが不足しているって、「女性」についてちゃんと考えることではないだろうか。そのことをでも考えている人にあったことがない。基本的に芸術の現場はきわめてマッチョだと思う。それでも、ある瞬間、堰を切ったようにそのことはきっとはじまるだろう。予想だにできなかった仕方で、それは起こるだろう。でも、な、KATメンバーはいまリクルートスーツを着て就活をはじめた。なかなか、そういう意味でも、誘いにくい。ちょっと切ない。二年前だったら、早くても、就活にはいるのは後期の講義が終わってからだったはず。異常だ。学習や好奇心を育む余裕を企業は学生から奪っている。なぜそれがゆるされているのか分からない。

と、ひねたことを書きましたが、「KAT」「KAT vol. 2」ぜひ、ご一読を。近々通販でご購入できるよう検討しています。

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