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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

I日記

2010年05月08日 | I日記
Iの手が少しずつ明確な目的を示すようになってきた。耳の後ろを掻くのは以前からのことだけれど、その手つきがざつに「あっちの方へ手を向ける」なんて感じだったのがそうではなく「ここの部分をこんな感じで掻く」って感じになってきた。指をクロスさせて手を組んだりもして、複雑な動作ができるようにも。手はものを捉まえ、捉まえることで理解する、そうしたプロセスがこれからはじまるのだろう、それを目にするのはいまからとても楽しみだ。と、Iの手のことに思いが膨らんでしまい、昨日はこんな文章を講義中、学生たちに紹介している内、話がどんどん脱線してしまったのだった。

「人体を均等に明確な線をもって縁取ることは、身体を使ってつかむ行為そのものにさえ近いものがある。眼をもって行う操作は、触知しながら身体にそって滑る手の操作に等しい」(ヴェルフリン『美術史の基礎概念』)

ヴェルフリンは、ルネサンスの絵画とバロックの絵画を対比して、前者を線的表現、後者を絵画的表現とした。線的表現というのは触覚的で、つまり上の引用にあるように、ものをつかんで確認するように眼を働かせるもののこと。ものの実相に迫るのがルネサンス的な絵画だとすれば、バロック的絵画は、眼が手のように活動するのをやめさせ、眼が感じることそのものに、その効果にねらいを定める。面白いのは、ルネサンスからバロックへという展開を人間の発達と類比させているところで、ヴェルフリンはこんな整理をしている。

「幼児が物を「理解する」ために何でも手でつかむ習慣をやめるように、人類は可触的なものに基づいて絵画作品を吟味する習慣をやめたのである。一段と進歩した芸術は、単なる現象に没入することを学んだのである」(同上)

「単なる現象」とは、衣服を衣服としてではなく衣服が光に当たりキラキラしているとすればそのキラキラ感を指している。眼はものに触れようとするのをやめ、そのあらわれを楽しもうとする。そうか、そんで、では、Iの眼はいまルネサンス的なのかバロック的なのか、どうなのだろう。パンダのモビールが動くのをきゃっきゃっと喜んで見ているその眼は。未来派的?

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