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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

快快(faifai)「ジンジャーに乗って」(@王子小劇場)

2008年05月18日 | 演劇
2幕構成。1幕は、ジンジャーに乗った男2人が、いつ降りるのか何をするのか決めかねている内に、強盗に襲われたり、「金持ち」と「ホームレス」があらわれたり、デモに遭遇する。2幕目は、どうして1幕目では何も起きなかったのかをめぐって議論をするかに見えて、役者たち本人が「焼酎ナイト」という飲みをしたときのことを中心におしゃべりをすることになる。
「あて振り」(『Review House』)とか「カラオケ」(「ベクトルズ」)とか、小指値(現快快)のことをまとめてきたぼくにとって、本作「ジンジャーに乗って」の何も起きないという事態(こーじは芝居の冒頭でこの作品のテーマは「無駄」と言う)は、これまで形式として示してきた演じることの、生きることの空虚さに、より具体的な肉付けを与えることになった気がしている。何かの出来事と何かの出来事が重なり「物語」といえるものが展開する、そうした展開の皆無な芝居は、もちろんベケットとか連想させるわけだけれど、一瞬一瞬のひとがひとと接触する際のすれ違い、出来事のおきない状態が、非常に丁寧にトレースされ、戯画化され、記号化され、遊びの道具になっていく。そこには、もう「あて振り」などととりたてて形容する形式など無くても、その方法の根底にあった、「何もやることがないけれども、それなのに生きている」とでも言っているかのような余剰感、あぶれ感が強烈なインパクトを見る者に与えている。なんだか強烈に切ないが、同時になんでか異常に躍動的な舞台。「芝居という嘘の場に何を持ち込んで遊ぶか」という演劇ゲームに対して、小指値から改名した快快が最初にしたのは、そうか芝居を演劇にすることも日常を演劇にするのもそんなに変わらないし、セグウェイ(ジンジャー)に乗れる未来といまもそんなに変わらないし、この変わりなさ(永劫回帰)がデフォルトなのだとすれば、さて、ぼくたちは「安楽死」と「国会自爆テロ」以外の希望をどうもてばいいのか?という問いかけとそれに対するひとつの回答だったのではないか。(途中)

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