Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「@@ has a headphone」(STスポット)

2008年07月29日 | 演劇
7/27
チェルフィッチュの山縣太一とfaifaiの野上絹代と山崎皓司ら(あとパパタラフマラの松島誠)が出演するグループの1st live。演出はfaifaiのシノダ。STスポットの空間をオールスタンディングにして、ある一角を舞台とし、その一角を取り巻く壁に映像をディスプレイする。クラヴのパーティのなかに劇団が紛れ込んだような世界。観客とプレイヤーの隔たりが希薄な親密的空間は、ワンドリンク付きというライヴ的な演出が促してもいた。物語の断片がおかれる。だいたい二つ。ひとつは、友人と遊びの待ち合わせをするが相手にドタキャンされたという話。もうひとつは、バイクに乗っていたら交通事故にあったひとを一瞬みかけたという話。だから、どうしたということではない、「物語」というレヴェルから見たら破片に過ぎないような出来事が、「物語」へと結実しないからこそ、リアリティあるひとつの現実として浮かんでくる。そうした出来事とそこに漂う感傷にだれもが思い当たる節をもっていて、けれども、それは泡のようなものだから、だいたい不意に浮かんで消えていく運命程度のもの。こうした「泡」のようなものへのまなざしを丁寧に舞台化する力がfaifaiにはあるんだよなーとあらためて思う。

もうひとつ思ったのは、映像がとても効果的に用いられていたんだけれど、そうした映像に映る身体と舞台上の生身の役者たちがなんかほとんど等価なんだけれど、でも、絶対に等価ではあり得ないというなんだかとてももどかしい不思議な感覚について。今回に限らず、faifaiの身体は、とても映像的あるいはアニメーション的だ。いつも過激なディストーションが身体にかけれていて、その無理を笑ったり、その無理に非現実的なマンガ的身体を見たりしてきた。しかし、それは当然映像化された身体やアニメーションの身体がもつ「2次元性」には、とうていかなわない。どうしても、目の前の舞台上の身体は汗かくし生々しいし「3次元性」をともなってしまう。現実の身体は、なんか現実感の希薄な2次元性を帯び始めているのに、それでも実際はどうしようもなく2次元性をまっとうしきれないままでもある。このなんともいえない、じりじりするような「2.5次元」な位相こそ、ぼくたちの身体がいまおかれている現実なのかもしれず、そして彼らは、映像と身体とを乱暴に舞台上に共存させることで、その現実を意識させるのだった。

あと、以前から思っていたのだけれど、野上絹代のダンスは、これはとてもいいのではないか。オリジナリティの有無とかいっている視点からではこぼれてしまう、野上的ダンス(小指値→faifaiのダンス)の魅力について言葉が尽くされる必要があると今回強く思った。レディメイド的なダンスだということと、なんかとてつもないポジティヴな感じというのが、ぼくがいま思っていることで、どこにでもあるようでどこに行っても見られなかったダンスを野上のダンスに見ている。ユーモラスでかわいくてフレッシュなのだ。日本のコンテンポラリーダンスを語る際によく出てくる手垢のついた言葉ばかり並べてしまったけれど、そうした言葉の本当に純粋な部分にふれているような気がするのだ。もっと、じっくりと作り込んだものが見てみたいです。


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