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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

Chim↑Pom、ヤナイハラミクニ「5人姉妹」

2008年07月13日 | 演劇
7/12
ようやく講義がほぼ一段落した(國學院の講義を月曜に一コマ残すのみ)。あ、ゼミはもう一回残っているか。ゼミでは学生と雑誌を読みまくってきた。なにかしらぼくの中で、彼女たちの視点が内在化してきたような気がする。いずれ、どんなゼミだったのか書き残しておきたいと思う。

午前は引っ越しダンボールをともかく片づけまくり(といってもまだまだ30箱は中身が詰まった状態で部屋に、廊下にある)、午後に恵比寿へ。Nadiffが再開した。小径を下って、ひょいと曲がる。と幽霊が出てもおかしくなさそうなアパートの隣に目新しいビルが建っていて、その地下にChim↑Pomの最新展示があった(Nadiff a/p/a/r/t)。「日本のアートは10年おくれている」というのがそのタイトル。ホワイト・キューブではなく、そうなる前のコンクリむきだしな空間に、スプレーで落書きがいたるところにしてあり、真ん中には、ションベン小僧がおしっこし続けている。床は水浸し。工事現場の足場を通路にして、そこから観客はその「いたずら者が夜中したい放題をした現場」みたいな場所を眺める、という作品。あまり、ぼくには正直「ピン」とこなかった。タイトルがそうであることにひっぱられ、「(日本の/世界の)アート」を相対化するような作風と解釈されがちなことだろう。けれども、不断に相対化するべきは、自分たち自身ではないだろうか。「アートを相対化するアーティスト」とみなされることは、Chim↑Pomを「アート」というものの内部で理解されることになろう。要するに、これを見た観客の多くは、こうしたタイトル、展示だと「ああこれがうわさのChim↑Pomかあ。なるほど会田誠の弟子たちという話の通り、偽悪に満ちていて、いまどきのアートって感じね、、、」と安全な、安易な解釈を容易に誘発してしまうことだろう。上階での書店の売り方と連動して、そう見られてしまうだろうことに、なんともいえず苛立ちをぼくは感じてしまった。むしろするべきは「アート」についてではなく「自分たち」についてであるだろう。自分と恵比寿とか、自分と書店とか、、、。そうした「自分たちへ向けた不断の相対化」こそがChim↑Pomの恐ろしさ、爆発力だとぼくは思いこんでいるのだけれど。「万引き」とか地下に書いているならば、是非、展示期間中Nadiffで彼らが万引きしたものを最後に展示会場の水たまりに放り投げるとか、そのくしゃくしゃになった図録だかから何か作品をつくり上げるとかして欲しいものだ。

帰り道、Aがアイスクリームのなかに鯛焼きを乗っけたカップをもつひととすれ違う。そ、それはなんだ?ということになり、うろうろすると、こんなところに!というところに、鯛焼き屋を発見。美味でした。Nadiff帰りの定番になりそう。

夜はアゴラ劇場でヤナイハラミクニプロジェクト「5人姉妹」を見た。
矢内原の「演劇」をみるといつも思うのは、演劇というのは、絶対的な存在である台本に対してそれをどう役者に読ませるのか、その形式に対する遊びなのだなということ。少なくともそこに「演劇」の遊びがあり、少なくとも矢内原や岡田は、あるいはファイファイなどは、そこにある「演劇という遊び」を遊ぼうとしている。さて、矢内原の「遊び」には、ではどんな特徴があるかというと、ぼくには、それは「漫画」のモードに近い何か、という気がするのである。以前「青ノ鳥」をSTで見た時にも、そんなこと思った。ギャグマンガや少女漫画(ラブコメ?)を実写でやろうとしたら、吹き出しなら一応収まる長いセリフは、役者に喋らせようとしたら、超早口でないとリズムが出ない。コマ割りのテンポが出ない。だから、ガンガン早口でどんどん展開する。過剰な舞台上の動きも、そうした漫画モードとして見るとそんなに違和感なく見られる。とはいえ、「漫画」を実演することがもちろん目標ではなく、いわゆる通常の「演劇」のモードを別のモードに切り換えてみること、切り換えても全然見られるし楽しいし、切り換えたって演劇じゃんということが言いたいというか、矢内原が最も言いたいことかは分からないけれども、そういうことになっているのではないかと思う。

そんで、ぼくは今回のこの「5人姉妹」を、とても楽しんで見た(とくに後半)。面白かった!5人娘のかしましい、かまびすしい感じからは、これまでの矢内原演劇の「群」のような役柄たちにはあまり感じられなかった類の「個性」が強く出ていて、それぞれの勝手な様子が演劇のキャラを読み取り味わう楽しみを与えてくれていた(前夜たまたま『ひぐらしのなく頃に』コミック版を読んでいたので、とくにそうしたゲーム的漫画的キャラ性に敏感になっていたこともあるのだろうけれど)。前半は、まだそうした個性が意識出来なかったのだけれど、一日6時間しか起きていられないという設定のひとりが目覚め、唯一の男である召使いを姉妹たちがいじめたおすあたりから、それぞれのキャラは見えやすくなり、激しい振り付けも、矢内原のスパルタ性(?)よりは、各個性がときおりはっきりと顔を見せる運動として、見る者が「つぼ」を得やすくなっていった。その「眠り姫」状態だったひとり(役名失念)の役者がなんだかとてもよかった。これまでの矢内原のダンス作品にも芝居作品にもいままであまり出てこなかったようなマイペース(おっとりさん)系(に見える)。そう、矢内原さんに縛られすぎないわがままさを役者がはっきしてくると舞台はすごく生き生きとしてくるのではないか。その点では、最初期の「駐車禁止」を見た時に感じた奔放さが、今作にはあったようにも思う。極めて一貫したテイストで構築された振り付けの完成度は、その時期以上に高まっているのはそうで、そうした点では明らかに異なっているのだけれど。

「アルプスの少女ハイジ」や「グリーングリーン」とか、世代を感じさせるネタよりも危うく交通事故死するところを助けてくれた「広島東洋カープのキャップを被って通勤するおじさん」という話の方がいいと思う。つまり、矢内原さんの世代から自ずと出てくる話題は、世代限定感を醸してしまうけれども(そして、そういうところに矢内原さんの実存というか作家性というかが色濃く出てくることになるのだけれど)、むしろ世代に閉じないネタこそ、舞台を推進させていたのでは。ぼくはそうした方向に突き抜けていく矢内原作品が見たいし、そんなこと平気で出来るひとのように思う。シリアス傾向が強くなって観客が固まっていく作品ばかりが矢内原さんの本領ではないはずで、簡単な言い方をすれば、ラブコメも出来るひとなのではないか、今作を見て、そっち方向への期待が強まったぼくなのであった。

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