Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

スクラッチ=唯物論 ならばダンスは?

2005年08月28日 | Weblog
ジジェク『迫り来たる革命』をつらつらと読むのが最近の元気になる方法。

いやあ、簡単に言うと夏ばてなのですが、夜に暑くて夜中に頻繁に起きてしまう、と昼に力が出なくて、夕方にからっぽになると、近所の居酒屋で定番の品々を頼み、帰りに果物でも買って帰って、もう眠くて寝てしまうと、寝るのが早すぎて夜中に起きちゃって、、、っていうサイクルを日々送って意味なくくたくたなんですが、それもこれも夏のせいです。

それにしても、台風の晩はすごかったなー。窓開けたまま寝てしまって、水分をたっぷり吸った空気が部屋に充満して、フトンが「ずぶぬれ」になった、気がした。フトンの上でびしょびしょになってる夢見てたね、そのとき。

バリでは暑さなんて全然気になんないんだけどなー。山間部のウブドだと朝は驚くほど涼しかったりするしね。あの、動物や虫たちの遠い喧噪を聞きながら、ぼーっと過ごす朝、あーっ朝ご飯何にしよかな、その前にジョギングしよかな、散歩にしとくか、、、なんてあーいいなー、と現実逃避、ビューーン(現実逃避のときのスピードは速い)。いやいや、なかば来年の現実逃避のための書類を作成しているのだった。にげろー。ってそのために、やんなきゃなんないことが、なんと多いことか。

そういえば、23日(火)には、幸せなお二人と会食した(ハンバーグセット)のだった。なんと、結婚式の司会をお願いされてしまったのだ!!自分もまだなのに!お二人とも後輩にあたる、いいね。ぼくは儀式というものは、悪いものとは思わない。儀式は当事者の「顔」をつくっていく。新郎さんや新婦さんにひとをするのは儀式にほかならない。あ、じゃ、がんばらなきゃですね。もう一人司会者(女性、キーワードは「ミス東女(とんじょ)」)がいて、ダブルキャストなので、困ったら彼女に任せて、、、とすでに弱気なのだった!司会が一番頑張らなきゃならないのは、どうも二人の紹介のパート。で、二人のなれそめをあらためて色々と聞かせて貰った。楽しいやら気恥ずかしいやらのお喋り。でも、ね、聞いていると、いかに猛烈アタックが功を奏したかという結論になってきて、スゴイ勉強になりました。恋愛はどれだけ自分が思い込みして、それを相手に思い込ませるか、ですね。強い気持ち強い愛、ですな、うん、やっぱ気恥ずかしい話で。当日は、照れないで行くぞ!

さて、そうだった、「ジジェク」を冒頭に置いたのだった。ジジェク、面白いなー。元気がでる本だよなー。ジジェク→スクラッチ唯物論→ではダンスは?→ボクロール!と突き進みたい、と思って、さあ、だらだらと書いていきます!

☆(ブログでなんと章立て!☆の数でつくります)
最近のジジェクの本を読んで、面白いと思ってしまう話題は、『ファイト・クラブ』をめぐるものだ。

「『ファイト・クラブ』から得られる最初の教訓は、資本主義的な主体性から革命的な主体性への直接的移行など不可能だ、という点にある。他者の抽象性、他者のあらかじめの排除、他者の苦しみと痛みに目を閉じることは、まず痛みに苦しむ他者に直接手を伸ばす賭けという所作において、破壊されねばならない。そうした所作は、それがアイデンティティの核心部分を粉微塵にする。だからこそそれは、極端な暴力としてあらわれる他ない。」

殴り合う暴力を通してのみ他者と出会う瞬間がある。中沢新一は、レーニンが猫や子供の頭をなでるところに、他者と出会う瞬間をみていたけれど、それに比べれば相当に過激な提案だ。行き着く先は、テロの肯定?いやいや、あわてずに行こう。重要なのは、ひとつに、他者を抽象的にしか扱わないリベラルな主体に対して否を言うことのすすめだ。これについては、もう最近の日記でいろいろと「出川」とかで書いたのでいいと思う(→リベラル左派的な寛容、多文化主義的な寛容に対する批判)。それ以上に重要なのは、ファイト・クラブでの叩くという暴力(素人ボクシング大会)は、他者へのみならず自分自身へと向かっており、むしろ自分を殴りつけるというその真意の中に、ジジェクはひとつの賭をみている。

「まず自分自身を殴りつける(ぶっ叩く)ということだけが自由への途なのだ。こうした殴打の真の目的は、主人への固着に囚われている自分における何ものかを叩き出すという所作なのだ。」

自分をぶっ叩く暴走は、マゾヒストのサディストに対する優位を引き出す。主人の不要を突きつける。「服属」のシステムのなかに従属しているのは、マゾヒストではなくサディストである。デモにおいて、警察権力にもっとも上手く抵抗する術は、警察に向かって暴力をふるうことではなく、むしろ自分たちの間で暴力を始めることである。そう告げるジジェクは、ファイトクラブ的暴力を「暴力の美的爆発」と呼ぶのである。

☆☆
自分を自分から壊すこと、そこにもしジジェクの考えるところの革命の光景があるとするならば、さて、ぼくはいきなりここで目をターンテーブルなんてものに向けてみたくなる。

自分を自分から壊すこと、ターンテーブリストはこれをターンテーブルという機械とともに洗練させている気がするのだ。ターンテーブルにおける故障は、音が出なくなること、あるいはある一定の音像が聞こえなくなること、だとすれば、ターンテーブリストのトライアルは、この故障のさまざまなあり方に向けられている、のじゃないか。ツマミを「でたらめ」な方向で用いる。音はゆがみ、ときもはやそれが何のレコードの音なのか分からなくなる。さらにダイレクトにレコード盤にちょっかいを出す。手を押しつければ音は止まる。離す、と「ヴゥゥーン」と瞬間鳴って戻る。ガキの遊びじゃないんだから。いや、ガキの遊びに他ならないのだ、こりゃ。

で、この「ヴゥゥーン」って音、何だ?どこの誰がならしてんだ?レコード盤が、モーターが、ベルトが、ならしてんだよね。これ、誰によるのでもなく、ただ機械の仕業なのだよね。人間不在。そうここでガキが出会っているのは、「もの」なのだ。まったき「もの」。「故障」と「でたらめ」の間をすり抜けることは、「もの」に出会うことなんだよな。このこと、ターンテーブリストは知っている。段ボールとはさみだけでなんでも作っちゃうガキもこれ、知ってる。知らないのは誰?「もの」に出会うことのない人々。

ターンテーブリストの力量は、実は「もの」とどれだけ遊べるかに掛かっている。いい音楽を知っているとか、聞いている人を踊らせることができるとか、そういうことは、後からついてくるもの。重要なのは、「もの」の次元をどれだけ知っているかだろう。んーん、この辺り、細かい知識もないし、もし知っててもひとつひとつの彼らのトライアルを上手く文章化することは相当難しく、僕にはその自信がないので、上手く伝えられず歯がゆいのだけれど、DMCの優勝者のプレイをみれば一目瞭然の筈だ。彼らがレコード盤に手をかける。「もの」の次元があらわれ、彼らはそこでプレイ(遊技)する。手をはなす。すると、盤は一定のスピードで回り出し、一定の音像をならす。この音像は、観念の世界。『マトリックス』なら脳に埋め込んだ「配線」が作る世界。さあ、再び手をかけた。「配線」が引っこ抜かれる。現実があらわれる。現実はノイズだ。ただナイロンの「溝」をひっかく針の音だ。そこででも、さまざまな遊びがありうる。「配線」を引っこ抜いたり繋いだりの繰り返しで、音像があらわれては消えたりする。あるいは、新しいビートが生まれる。これは、「配線」の先の世界にはないビートだ。ならばどこに、ただこの「虚」の世界に、「もの」の世界に、ただリアルな世界にあるビート。

☆☆☆
さて、こう考えてくると、本質的に、機械を弄ぶことで「もの」の次元にいけるターンテーブリストに比べ、身体をもちいるダンサーは不利な位置に立っているような気がする。ヒューマンビートボックスとかあるけど。機械の次元にいたるには機械を模倣することによるというのは、やはり不利な気がする(それはそれで十分に面白い点があるとは思うけれど)。ダンスはついつい歌ってしまう。体が「もの」の次元に行くのを阻む別の規範とか快楽とかがすぐに入り込んでくる。

けれど、ぼくが精力的に日本のコンテンポラリーダンスをみるようになった最初の頃、『駐車禁止』のニブロールと『解剖実験地図』の手塚夏子は、本当に新鮮だった。それはいまのぼくからすると、「もの」になろうとする無邪気なトライアルだった。その「無邪気」さに打たれ、感動したのだった。
JCDNに寄稿した記事にも書いたことだけれど、『駐車禁止』のニブロールは、路上の機械に身体がなるときに、機械の擬人化ではなく、人間の機械化をもってなそうとした。手塚は、身体を機械のように一端スイッチをOFFにして、身体を機械にした。これ、考えてみると相当凄いことだ。だって、それ以降、こんなトライアルを試みた人たちはいないのだから。そして、この点についての評価はまだほとんどなされていないのだから。ニブロール=「キレる身体」なんて表現では、ニブロールをあまりに人間化しすぎてる、と思うのだ。そうではなく、「もの」の次元のダンスをひらいたことこそ、彼らを評するのに必要な視点ではないだろうか。

☆☆☆☆
ということで、ほっ、ここまできました。ようやく、『ボクロール』公演の話です。
一番印象的だったことから書くことにします。最後に全員で踊る上手いんだか下手なんだかわかんない、妙に楽しそうな踊りを踊っているところ。ぼくがあれ見ながら思い出していたのは、さっき書いた『駐車禁止』のカーテンコールで、ダンサー達が軽く踊った後すーっと消えていく時の、矢内原の楽しそうなやんちゃな表情だった。あれ、何故か凄く印象に残ってて、あの表情というかあの時間がぼくにとってニブロールだったりするのだ、変な話だけれど。あのときに戻ったような、あるいはあのときに戻しているような気さえする瞬間だった、な。もしそうならば、是非、本気で戻して欲しいです。ノスタルジーなどではなく。以上書いてきた通り、だってあのときこそが、ニブロールの賭けが際だっていた瞬間だった、とぼくは思うからです。

「chocolate」(振付・出演/矢内原美邦 出演/佐川智香)は、とても好きな作品だ。匂いを嗅ぐ。矢内原は、最初、椅子に座る佐川の頭の周りを手でなでるとその手を一人じっと嗅ぐ。佐川がその矢内原に関わろうとする、と矢内原は突っぱねる。一層自分の手の中に埋没する。他人と自分、の独特の今日的関係がこんなに切なく見事にトレースされたことはないのでは?と胸が熱くなる。ひとりよがり、ひとりあそび、のなかに(のみ)あらわれる他者。けれども、そういうことの切なさを反復して気持ちよくなる、なくてところに留まらず、どんどん行く。ユニゾンとか、激しく腕を上下に振るとかが魅力的なのは、上記した切なさを超えて、どこか「機械」みたいだから、ではないだろうか。切なさはまるで「かりそめの現実」のようで、それがあっさり機械的なレヴェルに押し切られる。逆に言えば、機械の身体が出現するための序曲のように、切なさはセミの抜け殻みたいに、あらわれればすっと消えていく。このバランスが何とも好きなのだ。

「ボクデスの『メガネデス!』」(作・演出・出演/小浜正寛 映像/高橋啓祐)は、簡潔に方法的に整理すれば、いまどきはやりのお笑いのやり口(とくにピン芸)を、どんどんダメな感じにアレンジしてみました、といったもののように思う。てことは、どうしても「批判的」というか「批評的」だったりする。映像に突っ込んだり、突っ込まれたりとか、色々なおもちゃメガネに突っこみ入れるとか。似てる、けどそうじゃなくてグズグズなんす、って身振りは、何か批評的に映りだしてしまうと逆に「勝っちゃう」ことになりかねないので、そこ、気になった。「高校生の学園祭で、流行のお笑いのまねごとしていながらスコーンと飛び越えて腹痛くなるほどわらかせてしまう奇跡を起こしてしまう高校生」みたい(!)なのを期待するのは、期待する方がおかしいのでしょうか。いろんなものをひろってひろって全部肯定してしまうような、それでももちろん巻き込まれる「あわあわ」感はいつもの通りで、っていうボクデスがみたくなってしまった。

それでも、ゲストの康本さんとか、LUKE+立石とか、小さい作品だけれど、個性爆発の玉が一杯打ち上げられたこの公演には、「ああ、もう、これでいいじゃないですかぁ」という気分に猛烈にさせられたのでした。こういう、ダメな学園祭みたいなフォーマットを猛り狂わせてみてみて欲しいと強く思ったのでした。

最新の画像もっと見る