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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「せーの!」

2010年09月22日 | 美術
9/19は柏のislandでトークイベントに招かれた。Iと妻と3人でてくてく1時すぎくらいに家を出て、武蔵野線などを乗り継いで、会場についたのが3時半過ぎ。長旅でした。柏は面白いなー。今年の夏は、軽井沢、青森、京都、広島などいろいろな街に行ったけれど、都心に近い田舎ほど田舎的なところはないのではないかと思った。「田舎的」というのは、他人への意識が乏しいと言うところで、ファッションのセンスにしても、若いカップルのいちゃつき方にしても、人々の目線の感じとかにしても、何かがちょっと違う。洗練されていない、といえばいいか。具体的に何がとはいいにくいのだけれど、何かがちょっとずつ歪んでいる。パラレルワールド。いや、未来の日本なのかもしれない。

「Neo New Wave」展に出品している若者たちとの「しゃべり場」。ぼくは「大人」役ということだったので、話を聞き出すことに専念。同じ大人役の窪田さんがとても大人だったのでぼくは随分楽してた。大人はあんまり表情を変えちゃいけないんだなーと窪田さんの涼しげな横顔をチラ見しながら思っていた。

会がはじまる前に遠藤一郎君と「せーの!」の話をしていた。彼は、わくわくKYOTOプロジェクトでたくさん「せーの!」と書いてきた、と。佐藤雅彦特集の『美術手帖』では、彼の連載頁にやっぱり「せーの!」とある。「せーの!」のこと、遠藤君が家に来たときに、話題になったのだった。ここでも書いたかもしれないけれど、小林耕平さんが行った展覧会に出品していた作家・川戸由紀さんが、小さなフェルトの刺繍の上に「いくよ!」とか「せーの!」とか書いてて、それがなにやら遠藤君の言葉とシンクロする気がして、面白かったと彼に伝えたのだった。そのとき、彼の発言で印象的だったのは、川戸さんの刺繍を見せたらその筆致に「(自分と)似てる」と漏らしたことだった。遠藤君は、そういえばと絵はがきを見せてくれた。それは彼が活動の最初期に富士山をバックに「GO FOR FUTURE」というロゴを掲げて未来へ号の上に乗っている写真で、写真の上部には彼の宣言文らしきものが載っている。「一生懸命やっていこう」とはじまるその文の最後に、

「せーの いくぞ!!!!」

とあるのだった。

「せーの!」とはなにか。それはアートなのか。それのどこがアートなのか。それをアートと見なすとした場合に、どんな地平が広がるのか。

なんてことを考えつつ、「しゃべり場」がはじまり、その後半で、加藤翼君が「幸せ」というテーマを出してきた(この「しゃべり場」、各作家がひとつしゃべるテーマをスケッチブックに書いておくことからはじまったのだった)。そして、加藤君は、ある程度話が進んだところで、自分が幸せなだけじゃ幸せではない、といったことを口にした。加藤翼君は、ご存じのように、巨大な箱を紐で引っ張って倒したり立てたりするパフォーマンスを行っており、そのアイディアを「ハードコア・コミュニケーション」と呼んでいる。巨大であると、一人では倒せない。彼の最初期の作品では、自宅の駐車場で、ひとり箱を引っ張っている加藤の姿に、加藤の母親が気づいて、手伝う、という模様が映像化されている。こまっているひとに思わず手を貸してしまう状況を設定することで、「力を合わせる」という状況を自ずと生む、というのが加藤の戦略。ここにあるのも、いうなれば「せーの!」だ。

遠藤の「せーの!」と加藤の「せーの!」。遠藤は「せーの!」という標語をあちこちに書くことを自らの表現行為にする。そうした標語を先に置くことはせず、自ずとそうした状況に巻き込まれた参加者が気づけば「せーの!」と息を合わせる、それが加藤の表現。

川戸さんも合わせて、「せーの!」の作家がとても気になる。

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