Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

9/13-9/29

2008年10月05日 | Weblog
ずいぶんと間が空きました。備忘録的につらつらと最近あったことのメモ。

9/13横浜トリエンナーレ
横トリ初日。Joan Jonasのパフォーマンス公演があるとのことで、まずそれを目指して午前中から動く。ダンテの朗読にあわせて、映像や舞台上の仮面などを用いたパフォーマンスや、カメラにオブジェを写してアニメーションのようなものを作ったりとか、そうしたさまざまなことどもが舞台上で重なり合う。
赤レンガ倉庫のブースは、具体や土方巽や風の旅団などの映像を上映。チェルフィッチュ「フリータイム」も。続けて新港ピアのブースにも行くが、全体的にぼわっとしていて、作品の力強さがあまり感じられない。作品解説が不十分なのではないかとAの解釈。パフォーマンス・アートに焦点があるのは好感をもつところではある。ただし、これではパフォーマンス・アート嫌いを増産するだけばかりではないか。BankArtにも行く。オノ・ヨーコ「カット・ピース」。しゃがむパフォーマーから衣服代わりだろう白いテープを剥がしてみる。ハサミで切る野蛮さはない。ただ貼りついた糊を剥がすめりめりという感触は、パフォーマーの身体に間接的に触れる行為ではあった。中西夏之の絵画作品は、倉庫の改造した会場のワイルドさにさらされて、日光にもあてられて、ちょっとかわいそうに思う。脆弱なるキャンバス。

9/16-17箱根→鎌倉旅行(出張)
ポーラ美術館にて、レオナール・フジタの子供を描いた作品を見る。神奈川県立近代美術館にて、岡村桂三郎見る。

9/19清澄白河のhiromi yoshiiにて、泉太郎の新作。複数のビデオカメラと複数のテレビが交差しあい、重なり合い、重層的な映像をライヴで生成している。扇風機はカメラの前に吊られた切り絵の動物たちを揺らす。映像を見る者は茶の間のような引きこもれる場所が与えられずに、映像の一部になることを余儀なくされる。スタジオであり居間である居間でありスタジオである空間。
Dance As!a「Encounter: ジェコ・シオンポとディック・ウォン」(@森下スタジオ)を見た。「異質な他者との絶え間ない接触と共生が大前提とならざるをえない空間としての「アジア」なるもの」(当日配付資料)、それが立ち上がってくる空間を生み出し、「そこにおいてダンスはどんな可能性をもつのかと考えてみること」(同上)が、Dance Asiaの基本コンセプトなのだという。ジェコ・シオンポはインドネシア、パプア州のダンサー。『Tikus-Tikus(ネズミ)』『The Behind is in Front』10分程の2作を上演。ちっちゃくて、まるっこくて、手足が短くて、顔の大きいダンサーは往々にして魅力的なのだ。何故か。動きが小さくてはやいのと、短さが不十分な印象を与え、しかしそれによってリハーサル的な軽さ、いい意味での適当さを感じるからではないか。ちょっとへんなくせもあって、無駄な動きが、思いがけず、ちょっとしたスリルも生んでいる。見慣れない新味なダンスは、ユニヴァーサルな尺度も日本国内の尺度もうまく当てはまらずに、どう評価していいのか戸惑う。けれども、そこに「アジア」という中間的な尺度があるともいいきれない。ヒップホップの要素にミックスするシオンポの独特な身体からは、ポストモダンの多元性とマルチカルチュラリズムの多元性とのどちらも感じるのだが、そうした多元的なものを肯定するというだけではいまやあまり作品の価値を感じ取れなくなっているわけで、こうした作品にどう向き合うのかというのは、とても難しい問題だと思う。もうひとりのディック・ウォンは香港で活動するアーティスト。捩子ぴじんとのデュオ作品で、2人は、互いに相手の振りを交換したり共有したりする。先に挙げた言葉を使うなら多元的な世界での互いに異質な者の出会いが、テーマとなった作品。きわめて優等生的な作品。けれども、ここにあるのは「アジア」という切り口というよりは、各人のルーツであり、交換する試みとそこに生じるある一定の満足であろうか。ともかくも彼ら2人のダンサー、アーティストは、いまの日本にない個性を見せてくれた。その点で、こうした発掘作業を継続的にこのDance Asiaの制作者たちがしてくれるのなら、見る者はその度に何かを確実に得られることだろう。ただし、何故「アジア」という枠組みなのか?という疑問は残る。自分たちがアジアの一員だからというのは、安易だろう。これが「アジア」だという強い印象を、とくにダンスの分野においてどうしたら観客の内に引き出せるのか。「アジアの身体性とは何か」という問いをつきつめた先にその方途が見えてくるのだろうか。

9/20横浜・寿町にて未来美術家・遠藤一郎にインタビュー
すでに脱稿しているのだが、『美術手帖』と同サイズのサブカル雑誌誌面において遠藤一郎へのインタビューが出来ることとなった。初・寿町。すごい。もうなんていえばいいんだろう、空気の中になにやらひとを脱力させる薬が含有されているみたいに、そこここにいるおじさんたちは、みんな一様にだらーっとしている。地獄のようなところかと思っていたが、そのディストリクトに入ってしばらくして、ここは本当は天国なのだと分かった。職安の二階の野外でインタビュー。途中で救急車は来るわ、2人の目の前でひとが担架で運ばれるわ、ギャングのような子供たちが、騒がしく団地でドラゴンボールごっこしてるわ、お母さんは子供を叱って「鳥の糞はさわっちゃだめよ!」と絶叫するわ。

9/21勅使川原三郎「Here to Here」(@彩の国さいたま芸術劇場)
三方を取り囲む白い壁は実は膜と言いたくなるような布で、明るい白い空間は、その背後にいる者が影絵であらわれたり、幻想的な場にも変貌する。膜の柔らかさが硬質な勅使川原の身体とうまく響きあっていない気がした。ゴスな雰囲気とか、面白いようにも思ったが、全体としては単調な印象をもってしまった。
Chim↑Pom「オーマイゴッド 気分はマイアミビーチ」(@無人島プロダクション)
エリイ作の映像作品がちょっとよかった。「ERIGERO」にちょっと似ていて、椰子の木の木屑を吸飲する。

9/24多摩美のHくんとKさんとで打ち合わせ(下北沢)。多摩美周辺で今後イベントがはじまる予定。
会田誠「ワシはミヅマの岩鬼じゃーい!!」(@ミヅマアートギャラリー)
「判断力批判批判」という作品は、岩波文庫のカント『判断力批判』を一枚一枚ディスプレイして(壁一面を使って)、そこに落書き(ドローイング)がなされているというもの。会田はほんとに勤勉だと感じる。カントまで、会田のフィールドに入ってくるのか。美学・美術(の受容)批判としての会田美術のさらなる前進。愛憎。アイロニー。五階では、武蔵野美術大学の学生とのコラボ作品が展示してあった。ゴシック美術(教会)を元ネタにして、ダンボールでオブジェを制作せよとのインストラクションが学生に課せられていたらしい。

「都市のディオラマ」(@トーキョーワンダーサイト渋谷)
エキソニモ、アレックス・ガヴロンスキ、パラモデル、ゲイル・プリースト、ティム・シルバー、鈴木ヒラク

9/25後期の講義開始。

9/28「THE ECHO」展(@横浜ZAIM)
最後に見た泉の作品には、何というか素直に面白いと思えたのだが、それ以外のほとんどの作品には、ぴんとこなかった。なんか痩せた、髪型が鬼太郎みたいなよく見る若者の姿を透かし見ていた。どうしても「かっこつけ」ているように見えてしまって、それはおやじ(=ぼく)の愚痴なのかもとも思うので、若いひとの感想とかも聞きたいのだけれど、ぼくの周りの若者はもっと批判的なこと言っていたので、どう考えればいいのかよく分からない。等身大の自分を表現することに専心している気がして、芸術というのは自己表現に他ならないということなのか、、、そんなことも無いはずだ、、、などと。
川上幸之介、鬼頭健吾、田幡浩一、名和晃平、泉孝昭、榎本耕一、秋吉風人、大庭大介、星野武彦、政田武史、渡部豪、さわひらき、榊原澄人、天野亨彦、磯邉一郎、大野智史、竹村涼、泉太郎、増田佳江、山口智子、青山悟

大橋可也&ダンサーズ「Black Swan」(@BankArt NYK)
THE ECHO展の後、ZAIMから歩いてNYKへ。小雨がちらちらでも本降りにならずに終演してほんとに良かった、などと身内のような気分で見てしまった野外公演ヴァージョン。ダンサー(人間)は、横浜の年季の入った町並みの建物や道路等々と比べるととてもやわだ。そうした硬質なオブジェ達に囲まれた「Black Swan」は、月島のギャラリー・スペースで見るよりも、当然だけど、現実とぶつかり合っていた。遠くに見える車の流れが、シリアスな雰囲気をつくる音響とともに見るときには、まさに緊急事態で過ぎゆくもののように見えたりした。大橋作品で重要だと思うのは、記憶を喚起させるところだ。「緊急事態」をリアルに透かし見てしまったのは、ぼくの「緊急」なあれこれの時が想起させられたから、だと思う。記憶を喚起させる装置が振り付けとか、照明とか音響とか、さまざまに備え付けられている。それを可能にするデリケートな手つきが大橋作品らしさだと思う。それはなんだかときに催眠術のように感じる時がある。

9/29 イオネスコ「瀕死の王」(@あうるすぽっと)を見た。


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