爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

講座1・2 ~「白川郷」「五箇山」昔と今をひも解く講座~を聞いて(2)

2021-10-03 11:15:50 | 日記

講座の方は、第1回目と同様緊急事態宣言発令中(9月29日現在)のためリモートでの開催であった。
今回の五箇山の講座は、白川郷に続く2回目の講座になります。同じ庄川沿いの合掌造りの違いなど興味のあるところである。
いままで、白川郷が岐阜県で五箇山が富山県であるイメージがなかった、あるときは岐阜県で、あるときは富山県でとの感じであったが今回の講座で明確になった。 同じ庄川流域にありますが、五箇山は越中富山の文化圏、白川郷は飛騨高山の文化圏に入ります。 ... 五箇山は、小規模ではありますが、より素朴な山村の原風景をみることができます。
五箇山のある富山県南砺市は、平成の合併により南砺市となったが、私が学生時代は、砺波平野の散居村やチューリップの生産量日本一で有名であった。散居村のような平地の場所もあるが、五箇山の方は、山地、高地に囲まれ起伏の激しい地形もある。気候は、日本海側であるため、日照時間が少なく曇天が多い。冬季は、降水量・降雪量が多く、五箇山方面は岐阜県白川郷と同じで、特別豪雪地帯に指定されている。

【講座2】「世界遺産相倉に住む」
講師は、五箇山で生まれ育った 池端 滋 氏である。池端氏は、現在、民宿「勇助」を経営している。写真家でもある池端氏は、多くの写真集を出版している。

1.五箇山の歴史や合掌造りについて                                                 
五箇山の歴史
〇縄文中期とみられる土器が五箇山の各地で出土する、約4000年前から生活を営んでいたとみら れる。
〇鳥獣、川魚、山菜、果実等山間部の方が平地より生活に適していたと思われる。
〇中世、人形山(1726m)は山岳信仰の山であり、また平家落人伝説も伝えられている。
〇1468年 蓮如上人が五ヶ山、白川郷を通り京都に着く。赤尾の道宗の働きかけもあり、本願寺      の影響が五ヶ山全域に広がる。
〇 1513年 実如上人の裏書に「五ヶ山」の文字が初めてみられる。
〇 1552年 古文書に「図書了観 あいのくら太郎次郎」の名前が初見する。
〇 1585年 加賀藩前田家の領地となる。同時に流刑地ともなる。 
        加賀藩時代の主な産業は、養蚕、和紙、煙硝
〇 1889年(明治22年)町村制の発令で五ヶ山は平村、上平村、利賀村となる。      
            昭和に入り五ヶ山を五箇山に変えて使う。
〇 1927年(昭和2年)城端ー下梨間道路開通304号線
〇 1930年(昭和5年)祖山ダム完成 平村に電灯がつく
              ※20Wが無料に、いまだに続いているとのこと。
〇 1952年  城端ー下梨間にバス開通
〇 1984年 五箇山トンネル開通   冬季の車での通行が可能にとなる
流刑地として
・五箇山地方は秘境であり、金沢からは15里60キロと距離も近く、管理しやすい場所であった。
・政治犯として加賀騒動の主犯:大槻伝蔵ら多くの武士らが流されている。
・遊女らもながされていて、おさよ伝説も残っている。
煙硝
・織田信長と本願寺との石山合戦(1570~1580)には五ヶ山の煙硝が送られた。
・加賀藩は、煙硝を税として毎年1260貫(4200斤)を納めさせた。
・煙硝の製造は五ヶ山に多くの富をもたらした。
※「煙硝」や「焔硝」は硫黄や炭末を加えた黒色火薬を指すが、加賀藩では「塩硝」と呼ばれ 五 箇山産の硝石を意味するとされる 。

合掌造りの歴史 合掌造りは平屋建て
・煙硝の製造で多くの富が生まれ、、400年ほど前に加賀藩の宮大工が合掌造りの一階部分を造り、 住民がその上に屋根部分を造った。
・一階を生活に、土間で和紙、二三層(2,3階)部分で蚕を飼った。
・合掌小屋から合掌造りへ少しずつ変化していく。
・合掌造りは五ヶ山から白川郷に伝わる。
合掌造りの保存
1960年 (昭和35年)国の文化財に
          岩瀬家 村上家 羽馬家、を指定。
1966年 (昭和41年)相倉合掌造り集落 菅沼合掌造り保存内定・・・集落保存
1970年 (昭和45年)  
                    相倉合掌造り集落 菅沼合掌造り集落 ー国史跡指定
1994年       相倉合掌造り集落 菅沼合掌造り集落 ー伝建地区指定
1995年 (平成7年)白川郷 五箇山の合掌造り集落 世界文化遺産に登録

※手前の合掌造りの屋根が地面まで伸びているが、これが原始合掌造りか?

合掌造りはエコ住宅
・囲炉裏の火は食事の煮炊き、暖を取り、囲炉裏を囲んで団欒。
・茶釜のお茶で沢庵つまみに茶会も楽しいです。                                
・囲炉裏の煙のすすは木材をいぶし防腐剤の役目をはたし、わら縄より強くなります。
・15~20年で茅葺の屋根は葺き替えますが役目を終えた古茅は畑に敷き肥料や防虫剤の役目をはたします。

2.世界遺産相倉の一年

相倉合掌造り集落は
相倉集落は生活している事が一番重要なことです。15軒に48人が住んでいます、内13人が子どです、幼稚園、小中高、が歩いて15~30分、スクールバスで15分範囲にあります診療所、商店が車で5分、スーパーは20分です住民は助け合い、見守られ、大家族のようです相倉集落は自慢であり誇りです。

3.昭和30年~40年代の五箇山

4.世界遺産相倉の四季


相倉合掌造り集落に住んでいて思う事
相倉は、歴史 自然 生活 がバランスよく成り立っている。
毎日、自然と向き合って生活していると田舎にあって都市にないものが見えてくる。そういうものを伝えていけたらとおもう。
合掌造り家屋にすんでいると先人の知恵や能力を、先人達の豊かな生活を感じる。

                                                                    ♢終わり♢

合掌造りについて、それぞれ違う地域での説明を2回お聞きしました。庄川沿いに集落として保存されている事は、珍しいのではないでしょうか。
両地域とも養蚕、和紙、煙硝の産業によりあのような形態の住居に発展したのでしょう。
白川郷は、高山藩から幕府の天領地、五箇山は、加賀藩の統治下ということで違いがあるかと思い
調べたら下記の傾向があるようです。

白川郷と五箇山の違い?
〇はっきりしているのは、白川郷の方が規模が大きく観光化されている。
〇白川郷では、屋根の斜面側が入り口、五箇山では玄関が正面にある家屋が多いのが特徴。
〇建築様式にも違いが見られ、湿気が多く重たい雪が降る五箇山では、白川郷よりも傾斜が少し急 で、雪を落としやすい屋根となっているようです。
〇屋根の茅葺きの端が、少し丸く刈られているのが五箇山の特徴。白川郷では、きっちり揃えて作 られています。
〇加賀藩の手厚い保護を受けた五箇山は、重厚感あふれる豪華な内装が特徴です。鍋の高さを自在 に調節できる「自在鍵(じざいかぎ)」がある囲炉裏というのも、五箇山ならではの特徴。

日本人の心に刻まれた懐かしの原風景、なお暮らしの中に息づ伝統がここに残っています。五箇山は、日本でも特異な地域でもあり、いつか訪れてみたいですね。

画像については
            ・講演の池端滋氏のレジュメの写真
            ・富山県南砺市の観光パンフレット写真           を利用いたしました。

【その他のPhoto】

世の中、確かに便利になりました。人間、便利になると、さらにもっと便利にを求めます。

自分の生活を考えると、昔のような生活に戻れるか・・・。懐かしさを感じることは、良い時代だったのでしょう。

どこからか「こきりこ節」が聞こえてきそうです・・・

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