爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

講座1・2 ~「白川郷」「五箇山」昔と今をひも解く講座~を聞いて

2021-09-11 19:16:07 | 日記

久々の電車である、「不要不急の外出は・・・」で秋葉原の電気街もいつもの賑わいは無い感じたが、講座の方も緊急事態宣言発令中のためリモートでの開催であった。
今回の講座は、2回おこなわれる。時代の変化の中で人々が守り抜いた、世界遺産合掌造りの集落の美しさを探る。

【講座1】「日本最後の秘境白川郷の今」

講演は、白川村教育委員会の松本継太氏で、世界遺産地区内の合掌造り家屋を中心とした文化財建造物の合掌造り家屋に関する保存、知識及び村の文化・暮らし・風俗に精通している。NHK ブラタモリ「白川郷〜白川郷はなぜ美しい?〜」に出演されている。


1.白山と白川村
白山と言うと石川県のイメージが強いが、白山は単独峰でなく周辺の山峰の総称であり、厳密には富山県、石川県、福井県、岐阜県にまたがる。一般的には最高峰の所在地は、石川県白山市と岐阜県大野郡白川村となっている。白山は日本三霊山(富士山・白山・立山)の一つで最高峰は白山信仰の対象で山頂には神社が奥宮にあり各地に白山神社がある。
※霊山には色々と他の名もあげられている。
周辺は、豪雪地帯で「豪雪地帯対策特別措置法」に指定されている。「豪雪地帯対策特別措置法」は、豪雪地帯のうち、積雪の度が特に高く、自動車の交通が長期間途絶することなどから、住民の生活に著しい支障が生じている地域としている。白川村では、昭和56年豪雪では積雪4.5m、累計降雪21mとなっている。赤道に近い豪雪地帯と言われている。このような閉ざされた地域から、昭和15年7月発行の「アサヒグラフ」では「伸びゆく傳説の秘境」として取り上げられている。


2.白川村の概要
観光パンフレットなど「白川郷」として目にしていているが、白川郷は近世幕藩体制時の郷村制の自治範囲の呼び名である。白川郷は、南北30km庄川沿いの集落である、明治8年に白川郷42か村の内の23か村が今の白川村となったが、他は、荘川村(現:高山市)である。白川郷と言った場合、白川村と高山市荘川を言う。
白川村は、岐阜県北西部に位置し、両白山地により石川県と北を人形山により富山県五箇山と区切られている。村の面積97%が急傾斜の山林が占め、庄川沿いの平坦地に集落がある、大きい集落である荻町集落は、茅葺建物114棟で人口522人、129世帯である。日本の典型的な冬型の気圧配置による北西の風、大陸からの寒気が白山に吹く豪雪地帯である。人口1,546人、世帯数602世帯(R3.8月)の寒村である。県庁所在地の岐阜市より金沢市、富山市の方が近い。

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3.合掌造りとは

叉首(さす)構造の切妻造り茅葺き→合掌造りの定義
日本の茅葺き民家の主流は、「寄棟造り」と「入母屋造り」であるが、合掌造りは「切妻造り」である。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太を「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている。特徴である屋根の傾斜は、豪雪による雪下ろし水はけを考慮し、家屋の中で家内工業として養蚕が行われている。他にも和紙漉き、*1塩硝作りなどもあった。
中でも、養蚕は明治時代以降も継続され我が国の重要な輸出産業でもあった。
*1.火薬の原料となる塩硝製作は、加賀藩政時代の五箇山では一大産業だったそうです。

白川村のような山間にあっては少しでも農地を確保するために、住居の屋根裏を活用し建築形態も寄棟・入母屋造りより面積等において有効であった。NHKブラタモリでも放映されたが白川郷の合掌造りの屋根がいずれも妻を南北に向けているが、3つの利点からと言われている。
〇冬場に屋根にまんべんなく太陽が当たり、融雪と茅葺き屋根の乾燥させるため。
〇強風から合掌造りの風を受ける面積を少なくするため。
〇夏場の屋根裏部屋に風を吹き抜けることにより、養蚕を暑さから防ぐ。
科学的に計算しつくされた合掌造りである。
古民家の維持管理は大変である。自治体によっては、茅葺の古民家を保存しているが建築資材の「茅」や葺き替え作業は大変である。維持管理で茅葺屋根をトタン屋根に変えた古民家もある。急傾斜の屋根である合掌造りは・・・?。合掌造りもその保全のため、約30年のピッチで大規模な補修や屋根の葺き替えを行う必要があり、人手と時間を要する大掛かりな作業である。住民は、互助組織を形成、その組織を「結(ゆい)」と言う。この「結」は、鎌倉時代にこの地に根付いたとされる浄土真宗の信仰に起源があるとされる。葺き替えなどの家は、「結帳」を作成し参加者を把握する、参加した方が同じような場合は協力する相互扶助である、こうした「結」制度が合掌造りを存続させている。

なお、萱は、萱場が数か所あり、今はトラックで集めているが、昔は、急斜面の残雪を利用し束ねて滑らして集めていた。

資料  -叉首構造-
茅は雨漏りを防ぐため45度以上の矩勾配で噴く必要があり、結果屋根高さが高くなる。また軒を深く出すため垂木に強度が必要で竹や丸太が用いられた。茅葺きの屋根の構造を叉首組構造(さすぐみこうぞう)という。「叉首組構造(さすぐみこうぞう)」は伝統構法の小屋組で茅葺屋根に採用される。別名「合掌造り(がっしょうづくり)」と呼ばれ、叉首組構造は、垂木や合掌の横に渡す木「屋中(やなか)」と合掌の骨組みである丸太と垂木の上に横に渡す竹をワラ縄などで結び作られます。(中川幸生氏)                             

4.最後の秘境白川郷が世界遺産に

・昭和46年住民保存会「荻町集落の自然環境を守る会」設立
・昭和51年重要伝統的建造物群保存地区選定
・平成7年世界文化遺産登録
生糸の生産は、明治42年に世界一の生糸輸出国となりました。 輸出が始まった幕末から明治、大正、昭和の戦前までの80年弱、生糸は日本の総輸出品目の中で常に第一位、輸出の花形であり続けました。この地域も明治初期には一戸当たりの繭の生産量も飛騨地区のトップであった。
しかし養蚕業の衰退(昭和50年には無くなった)、電源開発ダム建設とともに合掌造りも大正時代の半減となり、昭和40年代には今後の生活が話題に、畜産もで出たが、当時、国鉄のディカバージャパンのキャンペーンもあり観光立村へ。昭和46年に「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」を結成。白川郷の保存の原則として「売らない・貸さない・壊さない」とした。委員会のメンバーは、・7つの組の代表・飲食店、土産物、民宿組合・合掌家屋保存組合、大工組合・青年会、女性会・地元議員・その他推薦と多岐にわたった、これが保存活動が進んだ原動力となったのだろう。昭和51年には重要伝統的建造物群地区に選定され、平成7年には世界文化遺産に登録された。
世界遺産としての普遍的価値は、・合掌造りのその特異な形態と希少性(建築的な価値)・ほとんど消滅してしまった合掌造りの集落のなかでかつての集落景観を残すわずかな集落(集落景観の価値)・それらの価値が守られている(真正性の保証)で、とりもなおさず長年の努力の成果が結実した。


5.世界遺産から25年
・観光客数の推移 平成7年年間70万人→平成31年度年間200万人
急激な観光地化は、地域社会に様々な問題を引き起こしている。生活道路にまで観光客の自家用車が多く、村も交通社会実験により大型バスの通行規制など交通対策に取り組んでいる、旅館・土産物店・喫茶店などが建てられ唱和40年代の景観を守るのが理想でも急激な観光地化の波が大きい。

画像資料:講座リモート写真
        講座資料抜粋
        白川村観光振興課パンフレット抜粋

 

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