爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

「生き活き倶楽部」の”築地/佃島界隈の狛犬と豊洲市場を訪ねる”に参加

2019-03-02 18:53:30 | 日記

集合場所は、八丁堀の「桜川公園」である。八丁堀駅に至近のこの公園は、名前の通り桜のシーズンにはお花見の場所として賑わうようである、もう一つこの場所が八丁堀の地名の堀があった所でもある。江戸初期に掘削され長さが八丁(873m)あったことから呼称された。江戸湊に入った回船は、鉄炮洲沖に停泊し荷を瀬取舟という小舟に積み替え市中に運んだ。桜川公園前の新大橋通(関東大震災の復興事業で開通)の反対側には「八丁堀の旦那」と呼ばれた与力、同心の組屋敷があった。この堀も明治時代に桜川改称され現在では埋め立てられた。

桜川公園を抜けて「鉄炮洲稲荷神社」に入る。もともと鉄炮洲稲荷は、湊稲荷と称し京橋にあったが江戸市中が整備されるにしたがって移転して鉄炮洲に。この鉄炮洲の地名は、鉄炮の形をした州で後に鉄炮の試射をしたことから呼ばれた。神社の前が、千石船行き来し湊の入口に鎮座する神社として船問屋、船乗りの信仰をあつめた。神社の鳥居の下に対の中国獅子がありました中国獅子は珍しいそうで、これは皇紀2600年記念として奉納されたもの、彫りは浅く股間にはオスの印があり、尾の下の窪みは肛門と思われるそうです、獅子は気を体中に吸い込み、吸い込みすぎの気は肛門から出すそうです。境内の狛犬は、鎌倉時代に造られた大宝神社の狛犬をモデルにし、彫刻家「三木宗策」の原型から名工 木村旭晨が刻んだもので当時の流行とのこと。また、境内の奥には安政2年築造の富士塚がありました。お洞や富士講の銘板もあり古さがわかります。

鉄砲洲稲荷神社を出て、佃島に向かう途中「南高橋」を渡り「亀島川水門」を通る、この場所は江戸時代の八丁堀の入り口にあたる所で、南高橋は昭和7年に架けられ都内最古の鋼鉄橋である。関東大震災の復興事業が計画される中、この場所にも架橋の計画がされたが、震災による破損した橋の架橋による財源不足により原型の両国橋のトラス橋を再利用となった。亀島川水門は、昭和43年に完成した防潮水門です。亀島川が隅田川と合流する地点に位置し周辺流域を高潮の侵入から守ります。

合流部付近に変わった形の構造物がありました。水準点モニュメントとの事である、前に国会議事堂前の公園に行ったときにあった、日本水準原点標庫(千代田区永田町1丁目)の元になる「日本水準点検潮発祥地」で、かつてはここの東京湾平均海面高を0mとした大元であった。近くには、「一等水準点(交無号)」の標石もありました。
①この場所(霊岸島量水標:中央区新川2)で平均海面高を0とし。・・・海抜0m
 ※現在の量水標は、三浦半島油壷観測所でおこなわれている。
②付近の場所に水準点(交無号)として標高を反映させる。・・・水準点標石で示す
  ※交無号とは、水準路線が交差する点である「交」と、0を意味する無号を合わせたとのことです。
③さらに永田町にある、「日本水準原点標庫」高度差を反映させる。・・・これが基準!!  ※現在は、24.3900mが水準原点である。
④日本水準原点から日本各地の一般水準点に反映される
 ※一般の水準点は主要道等に沿って標石が設置されている

もう一つ史跡があり、案内板には「向井将監ゆかりの地」とありました。徳川家康の武将として東海道の水軍をひきいた向井忠勝は、数々の軍功を賞され。幕府は、水軍の総帥的地位につかせました。このあたりに屋敷があったようです。

中央大橋を渡り佃島に入ります。大橋を渡ると左が石川島公園、右が佃島公園となるがこの付近が石川島人足寄場跡(現在:大川端リバーシティ21)である。「人足寄場」とは、無宿人や軽犯罪人の更生施設で、寛政2年(1790)火付・盗賊改役の長谷川平蔵の提言により老中・松平定信(徳川吉宗の孫)が設置した。寄場の人足は、400人~600人で入所すると水玉模様の衣類を着せられ、水玉の数により入所年数が分かる仕組みになってました。作業は、大工・建具・油絞りなどそれぞれの得意の仕事をさせた。近くに石川島灯台があり油絞りの益金で築かれた。幕末には水戸藩の造船所となり後に官営石川島造船局製造所となった。これが現在のIHI(石川島播磨重工業)となり、近代造船業の基となった。

佃島の住吉神社に入る。佃島の地名は江戸幕府を開いた際、かつて攝津(大阪)にあった佃村の漁師に助けられことから、江戸に招き住み着いた場所を「佃」とした。幕府は、隅田川河口の干潟と漁業権を与え、諸藩の回船の監視にあたらせた。佃島の漁師は、「白魚」などを献上し余った魚は日本橋周辺で売ることが許された、これが日本橋魚河岸の発祥である。
住吉神社は、そうした佃島住民の故郷の住吉神社を思い、分霊を祀った。海運業・各問屋組合など多くの人から海上安全・渡航安全の守護神として信仰を集めています。狛犬は、愛知県岡崎の石工「酒井孫兵衛」が考案したされたもので同じく「二宮金次郎像」とともに全国的に普及した。眼光鋭く、いかにも神域を守る狛犬としての威厳が感じられます。
本殿近くに青銅製の灯籠がありました。裏に金子政吉君之徳・佃島住民と刻印されており、佃島住民の金子政吉氏に対する記念碑であるが、この金子政吉は「日本最後の侠客」と言われ、佃島のために体を張った親分で金子政吉を讃え銅像という話があったが本人が辞退したため灯籠になったそうです。大震災で防火につとめ、日本橋魚河岸の築地移転にも貢献したとのこと、豊洲移転も金子政吉がいれば混乱しなかったかも・・・。78歳で亡くなったがその葬儀は日本三大葬儀の一つと言われているそうです。この神社の御輿は「八角御輿」と言われ、関東では珍しく天皇陛下の御座高御座を擬したと言われてます。

住吉神社から佃大橋を渡り明石町に入ります。

明石町界隈は、外国人居留地のあった所で「東京における外国」と称された、明治32年には修好通商条約撤廃とともに廃止された。
川べりを歩きモダンな「聖路加ガーデン」に入る。再開発され「医・職・住・学・悠の融合都市」として都市空間をなしている。明治時代には「アメリカ公使館」が麻布善福寺からこの地に移転したが、明治23年には現在地の赤坂に移転している。

聖路加ガーデンから「聖路加国際病院」付近を散策する。講師のMさんが、この地の土地の変遷を話してくれた。
〇かつては、「浅野内匠頭邸跡」で赤穂藩の上屋敷でした。元禄14年「江戸城松の廊下」での刀傷事件で領地没収、お家断絶となった。
〇「芥川龍之介誕生地」でもあります。龍之介は名叔父25年、この地で牛乳業を営む新原敬三の長男として誕生、生後7ヶ月で母フクの実家芥川家の養子となりました。
〇「蘭学事始の地」聖路加病院の一帯は、中津藩(大分)の下屋敷。前野良沢・杉田玄白らは邸内の役宅で「解剖書:ターヘルアナトミヤ」の翻訳に取り組み安永3年(1774)解体新書を完成させました。
〇「慶應義塾発祥の地」同じ中津藩の福沢諭吉は、藩命によりこの地で蘭学塾を開いた。慶應4年(1808)には塾は芝に移転し、これを機に「慶應義塾」と名付けられた。
明治7年(1874)に外国人居留地にM.ウイリアムズ主教が立教学校を開く。

こんなにいろいろな事があるのも都内でも珍しい土地かもしれません。

埋め立てられた築地川公園から築地本願寺へ。とても浄土真宗のお寺と思えない外観である。古代インド仏教様式で東京帝国大学名誉教授・伊藤忠太の設計である、伊藤はこの他、明治神宮・平安神宮・大倉集古館を設計した建築家である。珍しい鉄筋コンクリート造りで内部は大理石彫刻をふんだんに用いられている。狛犬は、有翼獅子で日本では珍しい物で、百獣の王ライオンと鳥の王、鷲を合体させた霊獣の創造です。

お楽しみの昼食は?場所柄どこかなと・・・築地場外を離れて行った所が「江戸銀」でした。創業が大正時代という老舗すし店で、私が若いころはマスコミでも取り上げられた名店です、夫婦で食べに行きましたがお休みの日で残念でした、帰り有名なTVアナウンサー夫婦に会いましたが、「江戸銀」に行くのかなと妻と話した思い出がありました。

昼食後は、場外市場を抜けて波除稲荷神社へ。築地市場は昭和10年に日本橋から移転し、世界有数の卸売市場に発展しましたが、老朽化のため平成30年10月に移転しました、場外だけは残り営業をしておりますが活気は昔と変わりません。
波除稲荷神社は、万治元年(1658~1661)築地の埋め立てに際し波が荒くて堤防が築けなかった。この時、海中から出てきた稲荷明神の像を祀ったところ波が静まり、無事工事が完成した。人々は、神徳のあらたかさから「波除」の尊称を奉り、また、雲を従える《龍》、風を従える《虎》、一声で万物を威伏させる《獅子》の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼「つきじ獅子祭」の始まりである。以来、厄除・航海安全の神として信仰されてきた。

都営地下鉄・築地市場駅から「ゆりかもめ」に乗り継ぎ市場前駅で下車。市場と駅とをつなぐ歩行者デッキから見学コースへ、着いた時間が4時近くでは市場開市日でも店舗も閉まっており市場の雰囲気を味わうことができなかった。たしかに綺麗に整備され見学のための展示もそれなりにしてあったが、雑然とした市場の様相はなかった。
やはり市場は混み合っていないと・・・ネ

このコース、なかなか面白いコースでした。  

【その他のPhoto】

 

 

 

 

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