爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

城下町の近代化 ~絵図から地図へ~

2017-02-17 20:06:45 | 日記
埼玉県立文書館で企画展示が行われていたので見学に行ってみた。
この展示会は、1/14から3/5まで予定されているが、この日は県の学芸員の方が、説明していただける日であったが、やはり、地図や古文書、説明パネルを見ただけとは理解度が違う。


城郭の絵図から近代になりどう変わったか地図と古文書にて検証されていた。
今は、お城ブームで姫路城、小田原城、そして地震で修復中の熊本城など、お城の残っている都市にとっては、現在いい観光資源でもある。
埼玉県ではどうだったのだろう、企画展では、忍(行田市)、川越(川越市)、岩槻(さいたま市)を比較した、三城は江戸幕府にとっては防衛上の特に重要な城で「老中の城」と言われた。


明治政府は、明治6年に「廃城令」を発布し全国のお城が壊された。海外のお城は住まいという考え方が強いが、日本の城は、軍事要塞(水堀・空堀・土塁など)である。城だけだはなく「町割り」も「喰い違い道」「鍵の手道」「丁字路」など町人、農民を巻き込みながら防備してきた。新政府にとっては反乱が怖かったため「廃城令」出したが、維持する経費負担も大きかった。
埼玉県でも堀が埋められるなど、公共施設や田畑に変わりました。
新政府では城郭を管理していたのは陸軍省で、県から取り壊しの「伺い書」が残されていた。都市の近代化の中で古い「町割り」の課題が残り、いまだに道路が残されたり、鉄道と城が離れているなど、今も昔も都市計画は難しい事を地図が語っている。

コメント
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