桜も終わり緑が美しい時期となった。今日の「退職者の会」の散歩は、蔵前で下車し「西福寺」から始まる、松平西福寺とも呼ばれ、松平の山号と葵の寺門が許されており、入口の門には葵の紋が刻印されている。お寺の入口に「勝川春章墓」と説明書きがあった、 浮世絵師の勝川春章は個性を表現した独特の肖像画を確立した浮世絵師で葛飾北斎も一時期門人であったらしい。もう一つ入口に「育英小学校発祥の地」とある、明治新政府が教育推進をはかるため、東京に六つの小学校を設立したその一つで境内に設立した。(育英小学校の前身で仮小学校第四校)
西福寺から北に歩き蔵前小学校そばの「淨念寺」に入る、「三島政行墓」と説明書きにあり江戸時代の府内の地誌である「御府内備考」を編纂した人物である、墓石は号である凸凹斎知還翁之墓とあった。
三筋町に入る、幕府の下級官吏の屋敷があった地域で三筋の道があったと言われる。「斉藤茂吉歌碑」に立ち寄る区立三筋保育園の中にあり、一人で来たら通り過ぎる場所にあった。斉藤茂吉が学生時代に上京し当時を懐かしむ歌が刻印されていた。
春日通り三筋二丁目交差点の角に「川柳発祥の地」の碑があった、碑そのものは新しく初代柄井川柳の似顔絵が記されていた。柄井川柳の墓石はこの場所から近い龍宝寺に祀られている、入口右手に柄井川柳の辞世の句「木枯らしや跡で芽をふけ 川柳」の碑があった。墓石は墓地の入口にあり、隣には不動板碑があった、板碑は石造りの塔婆で鎌倉時代から室町時代にかけて追善供養で造られた。
蔵前駅に戻るように進み「蔵前神社」を参拝、蔵前神社は1693年に江戸城の鬼門除けの守護神として創建された、当時は現在より境内が広く勧進大相撲を度々催され横綱谷風、大関雷電など力士が活躍し、相撲協会とはゆかりのある神社である。また、古典落語の「元犬」、「阿武松」の舞台であり元犬像が設置されている。
榧寺を出て厩橋を右手に見る、新入社員の時にエポック社、バンダイ、野村トーイなど輸出でよく行った、蔵前はおもちゃのメーカーが多かった。
昼食後は、「黒船神社」「本社三島神社」と回る、三島神社は2階が本殿だが狛犬が変わっていて磁器でできた沖縄シーサーのような物で珍しい。
国際通りを横切り金竜寺へ江戸中期で幕府にも使えた国学者・荷田在満の墓がある。
金竜寺の西側に本法寺があり塀が変わっていた、ブロック塀のような石一つ一つに放送局・落語家・芸人名などが刻まれ奉納されています、中に入ると「はなし塚」の碑がある、昭和16年に建立され戦時下に時局に合わない不真面目な事は自粛を求められ落語界では自主規制した、「はなし塚」は名作と落語界の先輩らの霊を弔うために建立し塚の中には台本等が納められた。奉納された塀の石には二度とこのような事がないようにとの願いもあったのでしょう。このお寺もう一つ珍しいのがお寺と神社が一緒である、神仏混合なのか?山門の石柱が右が本法寺、左が熊谷稲荷とあるが鳥居や狛犬はない。
さらに西に進み「永見寺」に入る、入って左手に囲われた一角がある、撮影禁止で写真は撮れなかったが、玉菊という吉原の遊女のお墓だと言う、才色兼備の人気の遊女だったが大酒のみで25歳で亡くなった。玉菊灯籠は、玉菊を偲んで供養した事から付けられた。
もう一つ珍しいのが「まよひ子のしるべ」の石碑が本堂脇にあった。石碑には表裏があり、表には「たづねる方」で迷い子の特徴を書いて貼り、裏は「志らする方」で見つかった事を貼った。今でいう伝言板であるが、昔も今も子どもの事は親は必死である、こうした石碑は江戸時代は多く見られたようである。
今日は、4月18日葛飾北斎が亡くなった日である。今回は誓教寺は2回目であるが前回は法要には参加しなかったが今日は法要の時間には間に合う時間に着いた。住職が幹事のMさんの学生時代の先輩と言うこと団体で押しかけ配慮して頂いている事が多い。和室にて葛飾北斎に関わる展示品を見学、江戸時代の人たちが触れた北斎漫画を手に取れるなんて感激である。法要の時間になると込み合ってきた、TV撮影クルーなども取材し葛飾北斎の人気はスゴイ!。境内では車いすの高齢の婦人が何人もの男性と記念撮影をしていた、後で知ったが篠田桃紅さんであった。103歳の美術家で従弟が監督の篠田正浩さんである、昨年は「103歳になってわかったこと」はベストセラーになった、一見してただものではないと分かったが、元気なおばあちゃんである。
法要が込み合っていたので遠慮し、下谷神社へ立ち寄り上野駅へ。
【その他のPhoto】
西福寺から北に歩き蔵前小学校そばの「淨念寺」に入る、「三島政行墓」と説明書きにあり江戸時代の府内の地誌である「御府内備考」を編纂した人物である、墓石は号である凸凹斎知還翁之墓とあった。
三筋町に入る、幕府の下級官吏の屋敷があった地域で三筋の道があったと言われる。「斉藤茂吉歌碑」に立ち寄る区立三筋保育園の中にあり、一人で来たら通り過ぎる場所にあった。斉藤茂吉が学生時代に上京し当時を懐かしむ歌が刻印されていた。
春日通り三筋二丁目交差点の角に「川柳発祥の地」の碑があった、碑そのものは新しく初代柄井川柳の似顔絵が記されていた。柄井川柳の墓石はこの場所から近い龍宝寺に祀られている、入口右手に柄井川柳の辞世の句「木枯らしや跡で芽をふけ 川柳」の碑があった。墓石は墓地の入口にあり、隣には不動板碑があった、板碑は石造りの塔婆で鎌倉時代から室町時代にかけて追善供養で造られた。
蔵前駅に戻るように進み「蔵前神社」を参拝、蔵前神社は1693年に江戸城の鬼門除けの守護神として創建された、当時は現在より境内が広く勧進大相撲を度々催され横綱谷風、大関雷電など力士が活躍し、相撲協会とはゆかりのある神社である。また、古典落語の「元犬」、「阿武松」の舞台であり元犬像が設置されている。
榧寺を出て厩橋を右手に見る、新入社員の時にエポック社、バンダイ、野村トーイなど輸出でよく行った、蔵前はおもちゃのメーカーが多かった。
昼食後は、「黒船神社」「本社三島神社」と回る、三島神社は2階が本殿だが狛犬が変わっていて磁器でできた沖縄シーサーのような物で珍しい。
国際通りを横切り金竜寺へ江戸中期で幕府にも使えた国学者・荷田在満の墓がある。
金竜寺の西側に本法寺があり塀が変わっていた、ブロック塀のような石一つ一つに放送局・落語家・芸人名などが刻まれ奉納されています、中に入ると「はなし塚」の碑がある、昭和16年に建立され戦時下に時局に合わない不真面目な事は自粛を求められ落語界では自主規制した、「はなし塚」は名作と落語界の先輩らの霊を弔うために建立し塚の中には台本等が納められた。奉納された塀の石には二度とこのような事がないようにとの願いもあったのでしょう。このお寺もう一つ珍しいのがお寺と神社が一緒である、神仏混合なのか?山門の石柱が右が本法寺、左が熊谷稲荷とあるが鳥居や狛犬はない。
さらに西に進み「永見寺」に入る、入って左手に囲われた一角がある、撮影禁止で写真は撮れなかったが、玉菊という吉原の遊女のお墓だと言う、才色兼備の人気の遊女だったが大酒のみで25歳で亡くなった。玉菊灯籠は、玉菊を偲んで供養した事から付けられた。
もう一つ珍しいのが「まよひ子のしるべ」の石碑が本堂脇にあった。石碑には表裏があり、表には「たづねる方」で迷い子の特徴を書いて貼り、裏は「志らする方」で見つかった事を貼った。今でいう伝言板であるが、昔も今も子どもの事は親は必死である、こうした石碑は江戸時代は多く見られたようである。
今日は、4月18日葛飾北斎が亡くなった日である。今回は誓教寺は2回目であるが前回は法要には参加しなかったが今日は法要の時間には間に合う時間に着いた。住職が幹事のMさんの学生時代の先輩と言うこと団体で押しかけ配慮して頂いている事が多い。和室にて葛飾北斎に関わる展示品を見学、江戸時代の人たちが触れた北斎漫画を手に取れるなんて感激である。法要の時間になると込み合ってきた、TV撮影クルーなども取材し葛飾北斎の人気はスゴイ!。境内では車いすの高齢の婦人が何人もの男性と記念撮影をしていた、後で知ったが篠田桃紅さんであった。103歳の美術家で従弟が監督の篠田正浩さんである、昨年は「103歳になってわかったこと」はベストセラーになった、一見してただものではないと分かったが、元気なおばあちゃんである。
法要が込み合っていたので遠慮し、下谷神社へ立ち寄り上野駅へ。
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