昭和館と思って地下鉄から地上に出たが九段会館の方に歩いていた、途中で変だなと思ったが、レトロな九段会館をカメラでパチパチ。
九段会館は、昔、友人の結婚式で中に入った事があるが外見と同じで中も重厚な感じであった。私の母などは軍人会館と言っていたが、昔の方は、軍人会館の方が分かりやすようだ。軍の予備役の訓練、宿泊を目的とした建物で、2.26事件では戒厳令司令部が置かれた、現在は、日本遺族会に無償貸与されている。昭和館は隣で入口は反対側であった。平成11年に開館され、まだ、新しさを感じる7階建ての国立博物館である。(厚生労働省社会・援護局が所管している)6・7階が常設展示で有料であるが、この常設展示を見学しない事には何しに行ったのかわからない。昭和10年から昭和30年頃までの国民の生活を実物資料を展示している。戦前・戦中・戦後を通しての国民の不安・苦しみ・悲しみ・怒りが伝わる展示である、父母がこんな時代を生きてきたのかと思うと、二度とこんな時代を繰り返してはならない。
靖国通りを歩き田安門(江戸城最古の門)を見学、中に入ると北の丸公園(江戸城の北の丸であった)で武道館など文化施設があるが今日の目的ではないので重要文化財を見て出る。
千鳥ヶ淵緑道を過ぎ左に曲がり、今日の目的である「千秋文庫」へ、。「千秋文庫」は、旧秋田藩主の佐竹家に伝わる貴重な文化資料を集めた博物館で、創立者は佐竹家の家令職であった小林昌治で、太平洋戦争の戦火から文化財を守るために佐竹氏から小林氏に譲渡されたもので、小林氏の遺志により「千秋文庫」として昭和56年に開館した。武士の時代から近世まで歴史的な資料を、今、見る事ができる。それにしても、日本には多くの藩が存在していたが、「佐竹本三十六歌仙絵巻」など佐竹氏ほど文化的な資料を所蔵していた藩主は珍しい。
「千秋文庫」を出るともう12時過ぎである、付近の飲食店はサラリーマンの昼食時で混んでいそうなので、コンビニで「おにぎり」「お茶」を買い千鳥ヶ淵緑道のベンチで昼食を取る。時折、ランニング姿の人が駆け抜けていく、これが皇居外周のランニングか・・・
食事も終わり、緑道を歩く今は緑であるが、桜のシーズンにはライトアップもされ賑わうそうである、ボートも楽しむことができる。
「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」は、そんな場所にあります。海外で亡くなられた軍人・軍属のみならず海外において犠牲となられた一般邦人も含まれ、昭和28年以降収集したものが安置されている。六角堂には儀式があたのだろうか天皇皇后両陛下による献花がされていた、家族連れがお参りしていたが父親が外地で亡くなられたのか遺骨が無い場合ここで合掌するのが一番だろう。名もなく亡くなられた人を考えると平和を祈るばかりである。
持っていたお茶のペトボトルもぬるくなり冷たい水が欲しくなる。予定していた博物館が見つからないのでカットして、靖国神社の遊就館を見て帰る事にする。途中、滝廉太郎の居住地跡があった、碑は交差点にあったが実際は100m西のマンションの場所で、明治27年から明治34年まで住んでおり、「花」「荒城の月」「箱根八里」などの作品を作ったようです。
靖国通りに出ると目の前は、靖国神社である。「遊就館」は、本殿の近くにある、1階(零戦等の陳列・売店)は無料であるが2階(4つの展示ゾーン)は有料となっている。靖国神社は、歴史が浅く明治時代である。ある目的をもって創建された神社であり、その創建目的が精神的支柱となり日本の熱烈な保守層のより所でもある。かつては神社には「格」があり、今でも昔の「格」を引き合いに出す人がいるが、靖国神社は別格のようです。鉄製の鳥居の大きい事、大村益次郎(長州藩・陸軍の創始者)の像が高い事などプロパガンダに果たした役割は大きく、今も続いている。
5月なのにニュースになる暑さ、「遊就館」内のベンチでしばらく休憩し早々に帰った。
【その他のPhoto】/font>
九段会館は、昔、友人の結婚式で中に入った事があるが外見と同じで中も重厚な感じであった。私の母などは軍人会館と言っていたが、昔の方は、軍人会館の方が分かりやすようだ。軍の予備役の訓練、宿泊を目的とした建物で、2.26事件では戒厳令司令部が置かれた、現在は、日本遺族会に無償貸与されている。昭和館は隣で入口は反対側であった。平成11年に開館され、まだ、新しさを感じる7階建ての国立博物館である。(厚生労働省社会・援護局が所管している)6・7階が常設展示で有料であるが、この常設展示を見学しない事には何しに行ったのかわからない。昭和10年から昭和30年頃までの国民の生活を実物資料を展示している。戦前・戦中・戦後を通しての国民の不安・苦しみ・悲しみ・怒りが伝わる展示である、父母がこんな時代を生きてきたのかと思うと、二度とこんな時代を繰り返してはならない。
靖国通りを歩き田安門(江戸城最古の門)を見学、中に入ると北の丸公園(江戸城の北の丸であった)で武道館など文化施設があるが今日の目的ではないので重要文化財を見て出る。
千鳥ヶ淵緑道を過ぎ左に曲がり、今日の目的である「千秋文庫」へ、。「千秋文庫」は、旧秋田藩主の佐竹家に伝わる貴重な文化資料を集めた博物館で、創立者は佐竹家の家令職であった小林昌治で、太平洋戦争の戦火から文化財を守るために佐竹氏から小林氏に譲渡されたもので、小林氏の遺志により「千秋文庫」として昭和56年に開館した。武士の時代から近世まで歴史的な資料を、今、見る事ができる。それにしても、日本には多くの藩が存在していたが、「佐竹本三十六歌仙絵巻」など佐竹氏ほど文化的な資料を所蔵していた藩主は珍しい。
「千秋文庫」を出るともう12時過ぎである、付近の飲食店はサラリーマンの昼食時で混んでいそうなので、コンビニで「おにぎり」「お茶」を買い千鳥ヶ淵緑道のベンチで昼食を取る。時折、ランニング姿の人が駆け抜けていく、これが皇居外周のランニングか・・・
食事も終わり、緑道を歩く今は緑であるが、桜のシーズンにはライトアップもされ賑わうそうである、ボートも楽しむことができる。
「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」は、そんな場所にあります。海外で亡くなられた軍人・軍属のみならず海外において犠牲となられた一般邦人も含まれ、昭和28年以降収集したものが安置されている。六角堂には儀式があたのだろうか天皇皇后両陛下による献花がされていた、家族連れがお参りしていたが父親が外地で亡くなられたのか遺骨が無い場合ここで合掌するのが一番だろう。名もなく亡くなられた人を考えると平和を祈るばかりである。
持っていたお茶のペトボトルもぬるくなり冷たい水が欲しくなる。予定していた博物館が見つからないのでカットして、靖国神社の遊就館を見て帰る事にする。途中、滝廉太郎の居住地跡があった、碑は交差点にあったが実際は100m西のマンションの場所で、明治27年から明治34年まで住んでおり、「花」「荒城の月」「箱根八里」などの作品を作ったようです。
靖国通りに出ると目の前は、靖国神社である。「遊就館」は、本殿の近くにある、1階(零戦等の陳列・売店)は無料であるが2階(4つの展示ゾーン)は有料となっている。靖国神社は、歴史が浅く明治時代である。ある目的をもって創建された神社であり、その創建目的が精神的支柱となり日本の熱烈な保守層のより所でもある。かつては神社には「格」があり、今でも昔の「格」を引き合いに出す人がいるが、靖国神社は別格のようです。鉄製の鳥居の大きい事、大村益次郎(長州藩・陸軍の創始者)の像が高い事などプロパガンダに果たした役割は大きく、今も続いている。
5月なのにニュースになる暑さ、「遊就館」内のベンチでしばらく休憩し早々に帰った。
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