爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

今、「東京市品川区大井鈴ヶ森町1961と日本橋区呉服橋3丁目1番地4」は

2014-02-23 17:29:24 | 日記
「大井鈴ヶ森」が姉の生まれた地で、「呉服橋3丁目」は母の実家の地である。以前に母の実家についてはブログに掲載したが、古い地番と現在の地番の正確な位置の確認できなかったが、地図センター(埼玉県立文書館)で古地図を調べ、ある程度まで分かってきた。
母が、「大井鈴ヶ森」に住んでいた時期の事については、「立会川」「鈴ヶ森刑場」「大森貝塚」の事をよく話していた。古い住所地を現在の地図に合わせてみると「鈴ヶ森刑場」に至近距離であった。現在の最寄り駅は「立会川駅」である、1942年まで「鈴ヶ森駅」が存在していたため、父が「鈴ヶ森駅」「立会川駅」のどちらか利用していたは不明である。
「立会川駅」で下車した、駅の階段を下りるといきなり小さい商店街がクロスしている、こんな狭い商店街で搬入の車が入れるのだろうか?不思議である。

第一京浜道路で目的の「鈴ヶ森刑場」へ、江戸時代の三大刑場(鈴ヶ森・小塚原・大和田)の一つで1651年に開設され1871年(明治4年)閉鎖されるまでの220年の間10万~20万人が処刑されたと言われている。当時は、江戸に入る人への見せしめのため主要道路に処刑場を設置したようである。最初の処刑者は江戸時代の反乱事件の丸橋忠弥、平井権八、天一坊、八百屋お七、白木屋お駒、といった人が処刑された。刑場は記念碑、供養塔などがコンパクトに配置されており、当時はもっと広かったであろう。

 姉の生まれた所は、刑場にある大経寺より駅寄りに浜川神社があり、その西側がその地域である。第一京浜と京浜急行がクロスする付近はだいぶ変遷しているのか「この辺かな」ぐらいしかわからない。

東京湾に近く海抜2~3mで鈴ヶ森中学校で2.1mとなっていた震災規模の津波があると大きい被害が想定される地域である。帰りは第一京浜を避け駅に向かった、駅に近づくとレトロな橋があった「浜川橋」と表示があった。別名、涙橋と言うそうで、処刑される罪人が裸馬に乗せられ江戸府内から処刑場に護送されましたが、この時、親族らが密かに見送りに来て涙を流しながら別れたことから涙橋と呼ばれたとの事である。

それにしても立会川は7km程の2級河川で、昔はザリガニ取りで遊べたそうであるが今では暗渠で塞がりあまり綺麗とは言えないが、遊歩道を造るなど整備されているようである。行けなかったが,立会川沿いに歩くと浜川砲台跡がある。、この辺一帯が土佐藩の敷地との事で、駅の近くに坂本龍馬像があり、ペリー来航の際に屋敷に待機して警備に当たったそうである。

 東京駅からの帰り際に母の実家と思われる所に寄ってみた。日本橋区呉服橋3丁目1番地は、さくら通りの南側で外堀通りに近い所で、番地も外堀側から1,2,3・・・となっていたようである、今は小さい店舗が並んでおりこの一角なのだろう。この地にくると母と伯父伯母の幼少の頃の事を知りたくなり、聞いておけば良かったと思う。

2つの住所を調べると住所表記はもう無く、名が残っているのは交差点や高速ランプ、学校名、町会名のみである。昭和も遠くになりにけりの感が強くなった。
コメント
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