爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

市外文化財ツアー「川の歴史と文化を学ぼう!」に参加して

2022-02-01 11:42:33 | 日記

埼玉県吉川市教育委員会生涯学習課の企画による文化財ツアーに参加した。
吉川市の広報誌には「吉川市は、川の恵みを受け、まちが発展してきました。吉川市の歴史と文化について、 関宿博物館から探ってみませんか?」とあった。
野田市の関宿地区については、関宿城と鈴木貫太郎記念館(終戦時の内閣総理大臣)を訪れてみたいと思っていたが、交通の便があまり良くなく後回しになっていた・・・
かつては千葉県最北端の町で埼玉県と茨城県と接している、関宿町は2003年6月6日に廃止され現在は野田市に編入されている。

古くから物流(河川舟運)と軍事的な拠点として発展。 江戸幕府の成立により、関宿は有力譜代大名の居城として整備され、関宿城藩主が幕府の要職を勤める点から「出世城」と言われたそうです。しかし近代に入り廃藩置県、舟運の衰退によって城下町、宿場町としての面影がなくなりました。関宿の道路網や鉄道網から離れた地理的位置が拍車をかけました。
平成7年(1995)には、関宿城跡の近隣敷地に天守閣を備えた千葉県立関宿城博物館が開設されました。

野田市関宿地区の地理  
関宿は、東は利根川を境に茨城県と、西は江戸川を境に埼玉県と隣接する。江戸川は関宿分岐点からの河川で、2つの一級河川に挟まれている。これは利根川水系の治水と水運のため江戸時代初期に行われた河川改修工事で「利根川東遷事業」と言われている。数次に渡る瀬替えの目的は、江戸湾に注いでいた利根川から江戸を水害から守る、また流路を変えることによる新田開発舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体制の確立にあった。しかし時代とともに水運が廃れ鉄道に移るとともに重要性が低下した。地形は、平坦であり両河川に挟まれた低地(最高標高約16m)肥沃な土地で農地が集中している)

見学バスは、埼玉県から江戸川を渡り野田市に入り北に向かって進む。朝8時過ぎで通勤・貨物自動車で込み合っている、道路状況が良くない。この辺は山がなく関東平野が続く、茨城県境町への橋の手前で左折すると関宿城が見えてきた、川沿いにスーパー堤防で整備されて公園として整備もされている、サイクリングロードになっていた。スーパー堤防の上にお城があるようだ、規模的には埼玉県行田市の忍城に似ているが関宿城の方がゆったりしている。お城は、平城で現在の位置にあったわけではない。

          千葉県立関宿博物館 
千葉の県立博物館は、県内8ヶ所にあり一番県北にあるのが関宿城博物館である。展示内容は、河川に関わること、関宿城(藩)に関わることなど、川の歴史と文化を掘り下げています。
入口には、博物館イメージキャラクター「カッピー」がお出迎え。

展示室1には、近現代の利根川・江戸川での洪水との闘いや河川改修工事など紹介。

※水塚ー洪水の際に避難できるように、屋敷内の土を盛った上に建物を建て、生活用品や非常食の食糧などをそなえていました。

※関宿水閘門ー利根川と江戸川の水量を調節し、船の航行を助けるために設置された関宿水閘門。1927(昭和2)年に完成すると、それまで水量調節を担ってきた「関宿棒出し」は役目を終えた。関宿の水閘門は、材質的にも、それまで主体であった煉瓦造りからコンクリートへ移行する時期の貴重な文化遺産とのこと。

※利根川の改修(築堤工事・浚渫工事)ー大正時代から蒸気機関車で土を運搬する作業が行われました。しかし、地固めなどの作業は人力による場合が多く、現場周辺の農家からも多くの人出が動員された。

川底にたまった土砂を取り除くことを浚渫といいます。これにより、船の航行をしやすくしたり、洪水をおこしにくくしたりします。船による浚渫作業は、明治33年(1900)の利根川第1期改修工事から導入されました。

※水運ー明治10年(1877)内国通運株式会社(日本通運の前身)が「通運丸}(外輪蒸気船)を利根川、江戸川に就航させました、両国、関宿間は、江戸川を遡るのに9~10時間、下るのに7時間かかりました。野田市と流山市、柏市との間を流れる利根運河は、オランダ人技師のムルデルが建設を担当し、明治33年(1890)竣工となりました。明治後期から大正時代にかけ多くの船が通行しましたが、昭和16年(1941)の洪水により水堰橋が壊れて運河としての役割を終えました。

展示室2には、近世の利根川の東遷事業の河川改修、手賀沼・印旛沼の干拓などの紹介。

   

※利根川の東遷事業ー江戸時代初期、幕府は河川交通の整備、新田開発、農業生産力の増強、洪水対策などの目的で利根川本流の開削工事を行いました。東京湾に注いでいた本流を途中で締め切ったり、新たに川をつくったりしながら少しずつ東へ流れをかえ、承応3年(1654)に本流を銚子河口から太平洋に流す工事が完了しました。この工事の中で、様々な河川技術が考え出され、今日の護岸工事などの基盤が築かれました。

※洪水ー近世、関東地方は何度も大洪水に見舞われました。なかでも天明6年(1786)の大洪水は、天明3年(1783)の浅間山の噴火により噴出した岩石が利根川を下り、川底を上昇させたことでより被害が拡大し、江戸中が大洪水に見舞われるなど、江戸時代最大の被害をもたらしました。戦後も、暴れ川と言われた利根川は、大きな災害をもたらしました。

※沼の干拓ー水害の防止や新田開発・水運の発達を目的とした沼の開拓工事が、徳川幕府によって継続的に試みられました。かつて関宿の周辺には大きな沼がたくさんありましたが、干拓によって姿を消しました。手賀沼も江戸時代初期から新田開発を行いましたが、度重なる洪水によって壊滅しました。その後もたびたび埋め立てを行い、新田開発が計画されましたが、成功しませんでした。印旛沼が姿を変えたのは、昭和21年(1946)の農林省直轄の干拓事業でした。

展示室3には、河川交通と伝統産業を取り上げ、水運で活躍した高瀬舟、河岸問屋と醤油蔵を再現、水運の推移、河川の発達でもたらした文化を紹介。

※利根川の水運ー利根川は、渡良瀬川や鬼怒川など多くの川が合流し、関東の大動脈として大消費地江戸を中心のい物資や人の交流など重要な役割を果たしてきました。江戸時代の利根川水運の主役は、高瀬船と呼ばれる大型の川船でした。その長さは、最大で30m位もあり、米俵約1300俵を運べました。このようにして、水運が盛んになると流域のいろいろな場所に産業がおこりました。このような船が、利根川や江戸川を大きな帆を張りながら行きかい、米はもちろん生活用品や各地の特産物、人々を運びました。明治時代に入ると蒸気船(通運丸)が登場し、銚子から利根運河~東京間を運航しました。

※河川が育てた伝統産業ー水運の発達により流域各地と大消費地江戸が直接結ばれ、河岸が形成され、さまざまな物資が利根川・江戸川流域で生産されるようになりました。野田・銚子の醤油、佐原の酒、流山の味醂、猿島(茨城県南西部)のお茶などの産業が発達しました。猿島のお茶は、品質改良により「猿島茶」として幕末には海外にも輸出されています。

企画展示室には、「関宿藩と関宿」藩の歴史、関宿城の資料、藩主久世氏の関係資料の展示。

※関宿藩と関宿城ー関宿は関東平野のほぼ中心にあります。戦国時代には「関宿を支配することは一国を支配するのと同じくらいだ」と言われるほど重要な場所で、ここを手に入れるために戦国大名が戦いを繰り返しました。近世に入ると江戸幕府は関宿藩を置き、徳川家に古くから仕え、信頼できる譜代大名に関宿の支配をまかせました。藩主は、幕府の重要な仕事をこなすとともに、地元関宿では洪水対策、新田開発、産業(お茶の栽培など)に力を入れました。利根川と江戸川が分かれる関宿は河岸として栄えるとともに、「日光東往還」(日光街道の脇海道)の宿場町としても賑わいました。
関宿城は、今から500年以上前に簗田成助(当時、古河から関宿にかけて支配していた足利成氏の有力家臣)が建てたと言われています。天守閣は古い記録によると、寛文11年(1671)に江戸城富士見櫓の形をまねて建て直されました。関宿城は、佐倉城、忍城などどともに江戸城を守る重要な城の一つでした。

4階は展望室となっており、利根川・江戸川の流れをはじめ、筑波山・日光連山・富士山など関東平野を取り巻く山並みを遠望することができます。 見学して、野田市関宿地区と吉川市は、地理的に似ていると思いました。

現在、散歩コースになっている川沿いの道も多くの人々の歴史があったと考えさせられます。

コロナ禍や家族の病気などで参加も迷いましたが、半日の見学とのことで参加しました。企画担当の方も気分転換も考えコロナ感染に気を付けて実施しましたと言ってましたが、こうした時間も大切です。

【その他のPhoto】

※香取神宮の式年神幸祭での御座船、神の待つ牛ケ鼻を目指すお船渡の飾り。

※お城の北側は、庭園となっている。他にも公園として整備している。

 

コメント
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