7月の「退職者の会」日帰り散歩は、府中の大國魂神社の「すもも祭」(7月20日)に日程を合わせて幹事のMさんが企画してくれた。
京王線府中駅で下車する。府中というと我々の年代には、3億円強奪事件の街というイメージが強いが、歴史を感じさせる街でもあった。地名である「府中」の由来では、律令時代の国府所在地を意味し武藏国の国府が置かれた事から呼ばれた。古代の遺跡や出土品が多く、古くから政治・経済・文化の中心地として栄え、江戸時代には甲州街道の大きな宿場町(府中宿)で要衝地域であった。1954年(昭29)府中町と2村が合併して「府中市」が誕生し現在でも多摩地域の拠点都市の一つである、これは古くからの地理的、歴史的な役割によるものである。
※夜間人口お昼間人口がほぼ同一で近隣のベッドタウン化の自治体とは違い職住近接の理想的な生活環境で市民の将来も住み続けたい「生活実感値」満足度都内1位といわれている。
府中駅の西側を南北に通る「国分寺街道」の都立農業高校から大國魂神社まで「ケヤキ並木」として整備されており、通称「馬場大門のケヤキ並木」と言われている。昔、この地で馬市が立っていた、ケヤキについては諸説があるようだが通りにあった「八幡太郎源義家公」の銅像には「前九年の役」の凱旋時に苗木を寄進したと説明されていた。
大國魂神社前の交差点を右折し「府中街道」の府中市役所前交差点の所に「高札場」があった。今、通って来た道が甲州街道でここが賑やかな場所であり、法令や禁止事項を伝えた、交差点にある小さい敷地であるが当時の様子を伝えている貴重なものである。
旧甲州街道を進み曹洞宗「高安寺」に入る。室町幕府・足利尊氏が全国に置いた安国寺の一つで武蔵野国の安国寺が高安寺だった。室町幕府の庇護を受け一時は末寺を抱える大寺院であった。当初は建長寺の末寺だったが、現在は、曹洞宗に改宗された。
見事な山門を有している、正面には阿吽の仁王像、背面には彩色された地蔵尊と奪衣婆が置かれている、奪衣婆は珍しい。上層の彫刻も見事でした。境内に弁慶伝説のある井戸がありました、1185年に、平家を滅ぼし鎌倉に凱旋しようとした源義経は、兄・頼朝の怒りを買い鎌倉に入ることが出来なかった、許しを得られないまま京都に帰る途中、見性寺(高安寺の前身)に立ち寄り、義経、弁慶らは、赦免祈願のため大般若経を書写したといわれ、その折に弁慶が清水を汲み取った井戸とされている。
早めの昼食は、パンフレットに掲載されていた明治17年創業の老舗「手打ちそば・吉見家」へ、十割そばが品切れのようで「だったんそば」を注文。初めて聞く名のためどんなのが出て来るのか興味があったが普通の蕎麦だった。ダッタンとは、モンゴルに住む遊牧民族の古い呼び名の一つでタタール人のことで、食品名は彼らが好んだことにちなんで付けられた。
来た道を戻り「すもも祭」中の大國魂神社(1900年の歴史を持つ)へ。参道には露店がならんで珍しいのは露店の中に「桃」や「すもも」が売られていることである。この「すもも祭」は、毎年7月20日に実施されます、起源は源頼義・義家父子が奥州平定の途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、戦いに勝利し戦勝御礼詣りのためこの祭りが起こりました。その際、供物として「すもも」を供えたことから境内に「すもも市」がたつようになった。もう一つ珍しいのが「からす団扇」「からす扇子」が頒布されていた。この扇で扇ぐと、農作物の害虫駆除、また病人は平癒、玄関に飾り魔を抜くと言われている。いわれは、約1200年前の神話からきているとのことである。その他、5月には「くらやみ祭」という神事も行われている。神輿が八基と六張りの大太鼓、木彫の狛犬を展示している神社宝物殿を見学し神社を後にした。
大國魂神社の近くに府中の歴史を知ることが出来る「国史跡 武蔵国府跡 -国衙地区ー」がある。奈良時代の初め頃から平安時代の中頃(約1300年~1000年前)にかけて武蔵国を治めた役所(武蔵国庁・国衙など)が置かれた政治・行政・経済・文化の中心であった。
今日のコース最後は、国府八幡宮で京王競馬場線の線路沿いに進み広々とした国府八幡宮に到着する。八幡宮神社は全国に多くあり一国一社的な役割を負う部分もあるが、ここ武蔵国府八幡宮については、意外にも小舎な社であり、昔はどうだったのだろう。
帰り竹林の綺麗な妙光院に立ち寄りJR武蔵野線府中本町駅に向かい帰路に。
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