朝は梅雨空であったが、丸ノ内線「四谷三丁目駅」で降りると明るくなり、これは暑くなりそう。幹事のMさんが新宿通りの南側と北側を回るとの説明、早速、新宿通りを右に曲がり「円通寺坂」に入り「祥山寺」をお参りする、奥まった所にあり分かりにくく、ここから入っても正面ではないようです。別名、忍者寺と言われているようで、かつては近隣に伊賀町があり、伊賀者達が祀られていたようです。供養の忍者地蔵もありますが、普通の地蔵でした、不思議なのが「猫地蔵」?が気持ち良さそうに横になっていました。
道なりに進み、法蔵寺、真英寺に立ち寄りながら、「愛染院」へ入る、入口が古いレンガ塀で一見お寺?と思うが、入口の案内に「新宿区指定史跡」の表示で「高松喜六の墓」「塙保己一の墓」とあった。埼玉県に関係ある人は、「塙保己一」は郷土の偉人であり名前だけは聞いた事がある人が多いが、参加者皆が「高松喜六」は、???であった。塙保己一の墓は、墓地の入口にあった。彼の名は、県立盲学校である埼玉県立特別支援学校塙保己一学園として名を留めている。幼い時に失明し13歳に江戸に出て、国学・漢学・和歌・医学と幅広く学び、「和学講談所」で後輩を育て、「群書類従」編纂した苦学の人である。「高松喜六」は、一言でいうと、現在の新宿の生みの親で内藤新宿を開発した人物である。
隣にあたるお寺が「蓮乗寺」である、観音坂にある真言宗豊山派のお寺で、現在の建物は戦後に建てられもので、こじんまりした緑の多い落ち着いたお寺である。法事前の住職が宗派のこと戦中の事などを丁寧に説明して頂いた。
次のお寺は「西念寺」で、今日のコースの中では、人気のあるお寺の一つである。服部正成(半蔵)が開基したお寺で、服部氏の菩提寺です。また、正成が守り役を務めた徳川家康の長男・岡崎三郎信康の為に建てた供養塔もあります。服部正成(半蔵)は、伊賀衆の組頭で徳川家康の信頼が厚おく旧江戸城の半蔵門は服部正成(半蔵)から名前が付けられた。また、政略のため非業の死を遂げたと言われる信康の供養ため、服部正成(半蔵)は余生を過ごした、まさにこれが武士道か。
参加者のWさんが、もう一人有名な婦人運動家の墓石を紹介してくれた、その名は「山田わか」で「平塚らいてう」と共に婦人運動家である。評論家として「東京朝日新聞」の女性相談で回答者として婦人の地位向上に尽力した。西念寺のお参りも終わった所で、幹事のMさんが「服部正成(半蔵)の槍」を見せて頂けるようお寺の方に話をし、住職の奥様のご配慮により見学させて頂いた。槍には新宿区の登録書が添えられている。重さ7.5kg、長さ258cmであり、全体が黒くなっていたが、実際は、さらに60cm長かったそうで、半蔵が地震の際に槍を守ろうと投げ出した時に先が欠け、昭和20年の空襲では住職が持ち出したが焼けてしまったとの事である。なかなか見られないものを見学させて頂いた。
鉄砲坂、戒行寺坂を通り、江戸時代後期に活躍した刀工「源清麿」の墓石がある宗福寺を参拝、住職が気さくな方で自分の寺の事より、この後行く戒行寺の長谷川平蔵の墓まで案内してくれた。ちょっと分かりにくい所に墓石があったため、大変助かりました。TVでの「火盗改め長谷川平蔵である」との中村吉右衛門の台詞が思い浮かぶ。
親切な宗福寺の住職と別れて、「西応寺」へ入る。明治27年に亡くなり、最後の剣客と言われた「榊原謙吉」の墓石がある。直心影流の免許を受け、幕末を生き抜いて、明治に入っても剣術の再興を願い、亡くなるまで髷を切らず最後の剣客と言われた。また、西応寺には、新宿区の文化財となっている梵鐘がる。
勝興寺には、同じ剣術使いでも「首切り浅右衛門」と言う「山田浅右衛門」の墓石ががある、山田家は代々、「御様御用(おためしごよう)」という、試し切りの御用を務めていたが役人ではなく浪人の身分のままで、罪人の処刑まで関わり、吉田松陰、橋本左内などが斬首された。死刑執行人であるがため浪人の身分かと思われるが、収入的には人のいやがる仕事であり、遺体の利用(薬、試し切り)により良かったようである。
四谷のお寺街の中で高台にあるのが四谷の総鎮守となっている「須賀神社」である。主祭神が「須佐之男命」「宇迦能御魂命」の二柱を祭り、天王様として親しまれ。「天王祭」「かっぱ祭」は有名で江戸の五大祭りの一つになっている。社宝として「三十六歌仙絵」が保存されている。
小さい頃、お化けと言えば「四谷怪談」である。ここに、お岩さんに関わる神社とお寺がある。「陽運寺」と「於岩稲荷田宮神社」である、鶴屋南北に出てくる「お岩さん」は実在の人物であるが、実在の「お岩さん」は家庭を大事にする貞淑な妻であったと伝えられています。陽運寺は、戦後に建てられたお寺で「お岩さん」ゆかりの地であるため祀っており、墓石はありませんが、縁結び縁切りで人気のスポットになっています。「陽運寺」から目と鼻の所に「田宮稲荷神社跡」(於岩稲荷)の東京都教育委員会の案内板があります、田宮家の邸内にあった神社を「お岩さん」が信仰し、「四谷怪談」以降、多くの方の信仰を集めたようです、しかし明治時代に社が火事で消失し、戦後、再建したものです。
南側のお参りが終わり新宿通りに出て、車力門横丁から「金丸稲荷神社」に入る、入るといっても小さい神社である、この一帯、荒木町と言い昔の花街である、石畳と階段が昭和を感じさせるが建物の面影はない、さらに、すり鉢状の地形を下がって行くと「津の守弁才天」がある、小さい池に鯉や亀がいる、昔は滝があったそうだ。両神社とも花街の関係者が手を合わせて願い事をしたのだろう。
荒木町を離れ舟町に入る、「何で舟町というんだろう?」との声が聞こえてきた、「舟」という名を付けるからには何かあるのだろうが、入り江だったわけでもなく私自身も気になって調べると、昔この辺は杉林で杉を伐採し舟板にしたことから付けられたようです。立ち寄った先が舟町の全勝寺で、吉田松陰などに影響を与えた兵学者・尊王思想家「山県大弐」の墓石があると案内にあった。本堂の前の碑を見て満足したのか座り込んでしまう。お墓を探してもなかなか見つからない、幹事のMさんがお参りに来ている方に聞いても分からなかったが、ご親切に帰る際にお寺の方に聞いて頂、案内をしてくれた。(感謝・感謝)斉藤氏という墓石の表面に刻字されていたが、これでは探しても分からない。
同じ舟町にはさ「西迎寺」があり、新宿区の有形文化財である、「阿弥陀如来座像」と「梵鐘」が見られる。
これにて予定の拝観が終了である、四谷がこんなにお寺が多いとは思わなかった、これは幕府の防御のためお寺が集められたためで、地名の「四谷見付け」からもわかる。また、この一帯の高低差があるのには驚かされた、地名の由来の一つが四つの谷があった事から付けられた事もうなずける。(4軒の茶屋という説もある)
帰りは「曙橋」駅に向かうが、途中、「釣り文化資料館」が無料で公開しており立ち寄る、「週刊つりニュース」の創設者が釣り関係の後生へ残すため開設した施設である。釣り好きにはたまらないのだろう。
地下鉄に乗車する前に、曙橋駅の近くのドトールコーヒーで一休みして帰路に。
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