爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

池上本門寺から池上梅園を巡る散歩

2024-02-23 18:51:24 | 日記

「退職者の会」2月の例会は、池上本門寺を中心とする散歩となった。池上本門寺は、東急池上線(五反田ー蒲田)にありJR蒲田駅で乗り換えて二つ目の池上駅にある。

池上駅前の「本門寺通り」から本門寺に向かう、参道なのだろうが名物の「くずもち」屋など老舗らしき商家があるが,あまり参道らしさを感じさせない。

☆古い商家がありました・・・萬屋酒店
萬屋酒店の建築年代は、明治8年(1875)、木造平屋建、寄棟造瓦葺で造られています。厨子二階建(つしにかいだて)*1 出桁(だしげた)*2造りの江戸時代以来の町家建築の形式を残した建物で本門寺の通りを代表する建物。
茶屋を開いたのが始めで、明治期に現建物が建てられ、一部改造、増築されたが内外観ともにほとんど変えていない。
*1:江戸から明治にかけてたてられた「中二階」ともよばれる古い様式。江戸時代に建てられた町屋は、平屋か厨子二階と呼ばれる階高が低い二階を納屋として持つもの、大名行列の際に二階から見下ろす行動が禁じられた。
*2:梁または腕木を外に突出する構造

☆霊山橋と呑川  
呑川は、世田谷区、目黒区、大田区の3区にまたがる二級河川で、流末は東京湾に接続しているため、下流部は潮の満ち引きの影響を受ける感潮河川となっている。

途中、不自然な狭い脇道がありましたが、「六郷用水物語」という案内がありました。六郷用水とは、徳川家康の命を受けて14年の歳月をかけた用水路で多摩郡和泉村(現在・東京都狛江市)の多摩川を水源とし、旧世田谷領と六郷領、現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路で総延長23Kmで49の村の約1,500ヘクタールに供給する農業用水路です。かつての大田区周辺は、この六郷用水により多摩川の水を利用した稲作が可能になり、豊かな穀倉地帯へと発展しました。

  

本門寺近くに、鬼子母神堂がありました。鬼子母神は、法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多いようです。表記については、鬼の字の第一画目の点がない場合があるようで、ここ池上鬼子母神もありませんでした。これは釈尊に諭され角が外れたためと言われている。

本門寺は、山の上にあるようなお寺で、この長い階段を上がるのかと思うほど、まだ都内にこうした場所があるのだと・・・。フウフウいいながら上る、

池上本門寺の名で親しまれているが、正式には長栄山本門寺である。日蓮聖人が入滅した地である。日蓮は、弘安5年(1282)、身延山を降り、常陸(茨城県)の湯治場へと病気療養に向かった、その途中、熱心な法華経信者だった鎌倉幕府作事奉行、池上宗仲の屋敷に立ち寄る、一時小康もあったが10月13日に61歳で亡くなった。           
熱心な信者である池上氏が土地を寄進し、日蓮の弟子が伽藍を整備したのが寺の草創という。その後、鎌倉・室町期には有力武士の庇護、江戸時代になると将軍家の庇護も受け、寺格を高めた。

 

著名人の墓石も多くあるとのことで墓所を周りました。
幸田露伴一族の墓石

力道山の墓石

市川雷蔵の墓石を探しましたが、移転したとの事でした。

本門寺の周りには多くの子院があり、その中で大坊本行寺、実相寺に立ち寄りました。

本行寺
本行寺は、子院の中でも池上三院家のひとつで筆頭をつとめた。起源は1276年に池上氏館内の持仏堂が法華堂とされたことに始まり、日蓮入滅後間もない1283年に池上氏館の地共々寄進されて開創とされた。以来宗祖入滅の霊場とされた。

実相寺       
 本堂および山門は文化庁の登録有形文化財に指定されています。


                               
本門寺・本門寺子院の西にある池上梅園に向かう。
池上梅園は、高低差を生かした梅園や茶室などがある公園である。戦前までは日本画家の伊藤深水の自宅兼アトリエ(月山山荘)であったが戦災で焼失。戦後は、築地料亭経営者の邸宅であったが、所有者没後に大田区に譲渡された。大田区では庭園に区の花である梅の花を植林、現在は370本(白梅・紅梅)が植わっている。梅のシーズン以外にも四季を通じて楽しめるようになっている。
数日前にTVで池上梅園の梅の花が紹介されたこともあり、多くの来園者で賑わっていた。

当日は、深夜の悪天候でどうなることやらと思っていたが、暑い一日(群馬県伊勢崎市で夏日)の「日帰り散歩」になってしまった、周った場所はそれほど多くはなかったが2月の暑さに疲れも。


【参考資料】
・ウイキペディア
・大田区
・大田区立池上梅園
・文化遺産オンライン


 《その他のPhoto》


埼玉県吉川市役所にて(株)タカラトミー創業者のミニ展示・・・約50年前の思い出

2024-02-14 11:06:11 | 日記

玩具メーカーの(株)タカタトミーの創業者である「富山栄市郎」氏は、埼玉県吉川市の出身である。(株)タカラトミーが今年2月で100周年を迎えるのを記念し吉川市役所にて紹介のミニ展示が行われた。
   

(株)タカラトミーは、前進を「トミー」と言っていた。1924年(T13)創業し、2006年(H18)にタカラと合併し現在に至っている。
創業者の富山栄市郎氏は、1903年に現在の埼玉県吉川市平沼に生まれ、1978年に亡くなるまで玩具業界をけん引してきた。
※トミーという社名は、苗字の「富山」をもじり、海外でも言いやすい社名にしたようです。

タカラトミーは、現在では宇宙開発の一翼を担い、2023年9月に打ち上げられたH-ⅡAロケット47号の「SORA-Q」で共同開発に協力、玩具作りにおいて培われた小型化、軽量化の技術が生かされた、これには創業者の富山氏もビックリだろう。

約50年前の思い出であるが、私が新入社員当時にアメリカの通販会社を担当したことがあった。約50年前は、カタログによる販売が中心であった。シアーズ・ローバックとモンゴメリ・ウォードが通販の両巨頭で1880・1870年には創業していた。アメリカという広大な土地と大衆消費社会の中でカタログによる販売は絶大であった。担当していた頃はカタログと言っても厚みが電話帳よりゆうにあり多品種にわたった。日本からの輸出製品も相当数掲載された、日本はアメリカの安価な工場であった(今の中国か)衣類、小型電気製品、玩具などを日本から送った。玩具などはクリスマス商戦に向けて暑い時期にサンプル品を送付したが、その中に(株)トミーもあったが、当時はトミー工業と言っていたと思うが?。アメリカの家庭では、そうしたカタログを微笑みながら眺めていたのだろうと思っていたが、私などはただただ羨ましくもあり生活レベルの違いに溜息が出るばかりであった。

当時の大手通販会社(シアーズ、モンゴメリ)も、もうない。時代の流れとは言え寂しい限りである。日本の多くの玩具会社も合併、廃業しているようである。今も続いている(株)タカラトミーなどは、創業者・富山栄市郎氏の精神や夢が生きているのだろう。


【参考資料】
吉川市役所
東武朝日新聞
ウイキペディア
ヤフーオークション


「退職者の会」日帰り散歩: 帝釈天など柴又を巡る散歩

2024-01-19 14:47:02 | 日記

新年の散歩は、9年ぶりの企画である柴又です。私にとっては初詣です。参加者13名と多かったが皆さん新年ということで、いろいろ願いがあるのだろう。前回も参加しブログにUPしましたので参考にして下さい。(2014,01.10 柴又七福神)

京成金町線柴又駅で下車する。映画「男はつらいよ」で柴又駅で「寅さん」を「さくら」が見送るシーンがあったな~と思うほど、柴又と言えば、「男はつらいよ」の寅さんである。知らない人がいない地名でありお寺である。参道の商店街も活気があり、「映画」の効果が大きい。


参道を通り過ぎると、そこは柴又帝釈天(題経寺)である。精巧な法華経説話彫刻と裏手にある庭園・邃渓園(すいけいえん)が見どころです。※前回のブログ参照を

次は帝釈天の裏手にあたる、「矢切の渡し」(都内に唯一残る)に行く、快晴とはいえ風が冷たい。河川敷全体がスポーツグランドとして整備され、初めて来るとどこに渡しがあるのか分からないと思う。渡し近くになると、二つの碑がありました。一つは、「葛飾や桃の籬も水田べり 秋桜子」とある。秋桜子は、「しゅうおうし」と読み男性である。籬は「まがき」と読み垣根で、秋桜子の愛する昭和初期の葛飾を抒情的に読んでいる。ここでの桃は、対岸の市川で市川は、梨の栽培の他、桃林が点在し桃花観望で多くの方が訪れていました。

もう一つの碑は、やはり、演歌「矢切の渡し」(詞・石本美由起、曲・船村徹、歌・細川たかし)である。♫「連れて逃げてよ・・・」の出だしで始まるこの演歌は大ヒットしました。この渡し場は、江戸川の両岸に田んぼを持つ農民が関所を通らずに自由に行き来できるため誕生(柴又ー松戸)でいわゆる農民渡船である。江戸川開削から明治初期まで栄えたが陸運・鉄道の発達とともに役割を終えた。渡船場所が木造でできているため江戸時代の渡船場をしのばせる。

渡船場から、江戸川堤サイクリング道路を歩き「葛飾柴又寅さん記念館」と併設されている「山田洋次ミュージアム」に行く。映画「男はつらいよ」のシリーズは、1969.8.27第1作公開から1995年の主演の渥美清が参加した第48作まで続いた、1997年と2019年に特別篇も公開された。「葛飾柴又寅さん記念館」には、実物セット・寅さんの衣装トランク、帝釈天参道のジオラマ、マドンナや名場面集など映像コーナーなど寅さんワールドを楽しめる。
「山田洋次ミュージアム」は、山田洋次作品の世界に触れられるコーナーである、監督の映画作りの撮影機材や台本など数々の作品を紹介している。

寅さん記念館と入館券がセットになっているのが「山本亭」である。カメラ部品メーカー・山本工場を創立した山本栄之助の旧宅で(昭和63年に葛飾区が取得)、関東大震災後の大正末期から昭和初期に増改築された、当時としては珍しい二世帯住宅です。木造瓦葺2階建ての母屋と純和風の書院庭園で長屋門も和洋折衷となっている。建物は、床の間・違い棚・明かり障子・欄間からなる書院造、数寄屋風の天井、下端部は石張りで上部は白漆喰塗りの土蔵などの伝統的な和風建築と、壁にはマントルピース、寄木を用いたモザイク模様の床、ステンドグラスをはめ込んだ窓、ガラス製ペンダント照明を用いた、昭和初期独特の洋風建築が複合されています。庭園は、池泉・築山・滝などを設けた典型的な書院庭園も国内外を問わず高く評価されています。(米国の日本庭園専門誌の日本庭園のランキング3位にランクイン)

 

この後、前回も訪れたことがある、真勝院と柴又八幡神社に立ち寄り終了となった。

【参考資料】
・ウイキペディア
・葛飾区HP

《その他のPhoto》


神宮外苑のイチョウ並木などを巡る散歩

2023-12-19 13:17:57 | 日記

12月の「退職者の会」日帰り散歩は、神宮外苑のイチョウ並木の黄葉と、付近の社寺、将棋会館を巡るコースを企画してくれました。このコース以前にも実施したコースです。前のブログ「神宮外苑のイチョウ並木などを巡る散歩(退職者の会:日帰り散歩)」(2017.12.07UP)も参考にして下さい。
☆コース☆
      ・神宮外苑イチョウ並木
      ・高徳寺
      ・熊野神社
      ・龍巌禪寺
      ・仙壽院
      ・榎稲荷神社
      ・瑞圓禅寺
      ・聖輪寺
      ・鳩森神社
      ・将棋会館

前回と同様、地下鉄・青山1丁目駅で下車するが6年ぶりのため方向感覚??やっとのことでイチョウ並木に到着、TVではイチョウ並木の賑わいを報道していた、外苑のイチョウ並木(約300m)に来ると映画「第三の男」ラストシーを思い出すが、今年は異常気象のせいか入口の2~3本程がイチョウの葉が残っていたが想像する並木径ではなかった、そうそうに寺社巡りに移る。

高徳寺
左右レンガ塀の奥に本堂があるお寺である。お寺でレンガ塀はあまりないので前回訪れた印象があった。入口に「河内山宗俊之墓」の案内石があったが碑はあったが墓石は見つからなかった。

青山熊野神社
青山総鎮守となっています。
明治維新時に発布された神仏分離の令により1869年(明治2年)に「青山熊野神社」と改称。 青山熊野神社は華麗な社殿を持つほか、俗謡に「青山に過ぎたるものが二つあり、鳶の薬缶に原宿の山車」と唄われ、盛大な祭礼でも知られる。もとは赤坂紀州家邸内に祀られていたが、町民の願いにより現在の地に遷座したと伝えられている。

龍厳禅寺
「勢揃坂」の中ほど国学院高校(近衛連隊跡)前に龍厳禅寺がある。門前には檀家以外については公開してない旨の表示があったが、幹事のMさんが事前に許可を受け境内を見学させていただいた。さほど大きくない境内には四季折々の植物が植えられ目を楽しませてくれる、義家が腰掛けたと伝わる「腰掛石」がある。この腰掛石の側には、松尾芭蕉の「春もやや けしきととのふ 月と梅」の句碑がある。この句碑の上半部は、1945年(昭和20年)の空襲で欠損している。本堂前の墓地にに、4基の円墳型の大きい墓があった、広島の浅野家の墓所で珍しい墓石であった。

かつては「笠松」または「円座の松」と呼ばれる松の名木があった。『富岳三十六景』や『江戸名所図会』にも取り上げられるほどの名所であった。しかし、その後枯れてしまい、この松は現存していない。

当寺には「蛇体弁天」という弁才天を所蔵している。明治期に当時の住職が境内の崖に埋もれていたのを発掘したものである。「原宿の弁天」の異名もある。ひっそりしたお寺であるが歴史のあるお寺である。
※なお、境内の公開をしてないため、写真については入口のみにしました。

仙壽院 舌状台地の高台に位置する仙壽院は、前回のオリンピックの影響を受けたお寺である。1964(昭和39)年に墓地の下に「千駄ヶ谷トンネル」を掘って都道が建設されました。今では、墓地の下のトンネルが心霊スポットとして有名な場所となっています。
仙壽院は、お万の方(徳川家康の側室)ゆかりのお寺で本堂前に石碑がある。

榎稲荷神社(お万榎)は、榎の巨木があったことから呼ばれた(今はありません)。「お万の方」が信仰したと伝えられる。小さい稲荷で、細い階段の中ほどに石の祠があり、さらに上がると木の祠があった。この階段は瑞圓寺の裏手の階段になっているようです。狐の像や観音像が置かれているが長い年月で痛みが激しい。

瑞圓禅寺は、榎稲荷に隣接しているお寺です。鳩森八幡神社の別当寺であった。境内には梅林がありきれいなお寺です。本堂横に無縁塔があり、最上段に区内では珍しいとのことですが、六面地蔵像を浮き彫りにした六面塔があります。また、同じ本堂横に庚申塔二基あり、青面金剛や三猿が彫られています。二塔には、上部に家紋が彫られている珍しいものです。側面には稲穂をくわえた狐が彫られており、稲荷信仰が表現されているのは大変珍しい庚申塔です。

聖輪寺(しょうりんじ)
  観音坂の名は、聖輪寺の本尊が如意輪観音であることに由来します。境内には見守不動がありました、その功徳からか門前の観音坂では事故がないとのこと。本堂左手奥に綾部燈籠(キリシタン燈籠)がありました。大きい燈籠かと思っていたら、小さいものでした。

 鳩森神社・将棋会館近年の将棋ブームで来訪者の多い場所である。神社一帯は、門前町も形成され、定芝居や水茶屋、楊弓場が常設され遊興の場となっていた。
隣にあるのが将棋会館です。いいニュースがない昨今、将棋の藤井さん、野球の大谷さんだけが明るい話題で、将棋会館も訪れる方が多い。

外苑のイチョウ並木は、残念でしたが巡った寺社で紅葉を楽しむことができました。
戦災の影響を受けた寺社やオリンピックや都市開発の影響を受けた一帯でもあり、昔の面影を探すのも大変である。さらなる開発が予定されているようです。 


【参考資料】
・ウィキペディア
・渋谷区教育委員会


《その他のPhoto》


千駄ヶ谷を歩いていると、「東京新詩社跡」の碑がありました。
 東京新詩社・・・明治32年、与謝野鉄幹が設立した結社。翌明治33年「明星」を発行。与謝野晶子・石川啄木・小山内薫・木下杢太郎・北原白秋らが参加した。浪漫主義文学の牙城となる。案内板には、明治37年11月に中渋谷からこのあたりの千駄ヶ谷大通りに移りました。与謝野明子は、詩歌集「みだれ髪」などを刊行し、寛(鉄幹)もしきりに短歌会を催すなどして機関紙「明星」も隆盛を極めました。しかし「明星」は百号で廃刊となり、その後、移転しました。


<駅からハイキング>「物語の生まれるまち あびこ」を楽しむ散策 に参加して

2023-11-27 19:05:20 | 日記

我孫子市の散策については、手賀沼や文人達の別荘などの散策の計画をしていて、今回、図らずも「JR駅からハイキング」のコースとなり参加した。
都内から水辺歩きを楽しむには我孫子が近い距離にある、ひところは汚い手賀沼だが綺麗になってきている。
我孫子市は、千葉県の北西部に位置し、東京都の都心から30~40Km圏内の都市で、利根川と手賀沼に挟まれ、なだらかな下総台地が東西に約14km、南北に4~6kmにわたってひろがり手賀沼沿いと利根川沿いは平らな地域となっている。人口約13万人、江戸時代より水戸街道の宿場町として栄え、数多くの文化人が環境の良い場所として手賀沼畔に住居や別荘を構え文化都市として「北の鎌倉」と言われた。
我孫子の由来は、古代において「我孫子」は氏(ウジ)や姓(カバネ)という、血筋や職種にかかわる苗字のようなものであり、人名として使用されていました。表記は異なりますが「阿毘古」「我孫公」という人の記録が残されています。古墳時代(3世紀から7世紀)にかけて日本列島で大きな権力を有した大王(オオキミ、のちの天皇家につながっていくとされる)や大和地方の有力豪族は、各地の地方豪族を支配下におさめる際に、豊かな土地を直轄地とし、そこに住む人々から貢納物を納めさせました。その際に土地やそこに住む人々に「我孫子」という名前が付けられたと考えられます。大阪や奈良をはじめ、全国各地に「我孫子」「安孫子」「吾孫子」などの地名や人名が認められるのはこのためであると思われます。(我孫子市)

我孫子駅で参加の手続きを済ませ最初の訪問先である「杉村楚人冠記念館」に。

「杉村楚人冠記念館」
明治末期から昭和前期の東京朝日新聞社で活躍したジャーナリスト、杉村楚人冠(本名・広太郎)の自宅を改修した記念館。杉村楚人冠は、新聞社に調査部や記事審査部を設けるなど、新聞業界を発展させた。

楚人冠記念館を出て「白樺文学館」に行く途中に小さい丘を上がると楚人冠公園があった。杉村楚人冠を顕彰している碑「筑波見ゆ冬晴れの洪(おお)いなる空に」が立っていました。かつては高台から遠くを望むことができたようですが、現在は木立で無理です。

「白樺文学館」
「白樺派」という集まりは、学校で教わりましたね。説明と言われるとチョット・・・
白樺派は、明治末期創刊の文学同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸思潮の一つで、理念や作風を共有した作家の人達です。大正デモクラシーなど自由主義を背景に理想、人道、個人主義的な作品を製作した。メンバーは 柳宗悦*1・志賀直哉・武者小路実篤などで、白樺派と呼ばれる文学者が手賀沼に住み、文学活動をおこなった。我孫子が拠点となった。
*1 柳宗悦については、「オンライン講座10 考現学の祖・今和次郎の描いた東北 2022.11.10」、『「東京ステーションギャラリー」と「将門塚」を散策 2022.9.24』についても参照して下さい。

 

白樺文学館の中に柳氏の掲示物があったので受付の方に地図をもらいコースを外れ見学を。柳宗悦の住まいは「三樹荘」という、林に囲まれた坂の階段を上がった所に三樹荘跡がありました。この坂は、天神坂と言い、かつては文人の多くが散歩したとのことです。受付の方の話のとおり、中は見学できません、表札を見ると他の方が住んでいました。三樹荘の名は、3本のスタジイから柳の叔父の加納治五郎に命名されました、3本のスカジイの木は長寿・叡智・財宝を象徴する木と言われています。多くの文人やバーナード・リーチ*2が訪れたとのことです。なお、柳が住んでいた建物は残っていないようですが、現在の建物もモダンな建物でした。
向かい側に公園があり、「加納治五郎別荘跡」がありました。我孫子に多くの文化人が住むようになったのは嘉納治五郎の影響と言われ我孫子市が保全しています。
*2イギリス人の陶芸家で、画家、デザイナーでもあった。白樺派や民芸運動にも関りが深く柳宗悦に協力した。

元のコースに戻り志賀直哉邸跡へ。

志賀直哉邸跡(緑雁明緑地)
「小説の神様」とも称される白樺派を代表する小説家。志賀直哉は我孫子で「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」などを執筆。また「暗夜行路」をを執筆した書斎が保存されています。さらに道なりに歩くと「旧村川別荘」がある。

旧村川別荘
西洋古代史学者、村川堅固が建てた別荘。大正から昭和にかけての別荘地としての我孫子の様子を残している。
建物は、斜面上にありました。上がったところの和風の建物は母屋となっています。母屋は元々この場所にはなく、我孫子宿本陣の離れの建物を一部改修し移築しました、大きく変えた点は、元々は茅葺屋根を、後に瓦屋根に変えられましたが江戸時代の部分も多いです。和室には、細かい飾りや細工が見られます、大きい建物ではなく、こじんまりした建物です。
隣にあるのが新館です。昭和2(1927)年には、朝鮮半島での調査に際して、現地の建物から得た印象を元に新館を建てました。大正12年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、銅板葺きとしています。沼を見下ろす南側の展望を意識した大きなガラス窓や、寄木モザイクを配したモダンな床の作りが特徴です。角部屋からの窓を通しての景色は、絵画のようです、残念なことに今では、大きい建物ができ、当時のような景色は望めませんが、旧村川別荘は手賀沼の景色に溶け込んでいたことでしょう。

下総台地で以外に高低差がありました、また、別荘が高台に建てられ事もあり日常生活に不便さも感じました。自転車のご婦人が降りて押している姿もありました。

手賀大橋 
我孫子市と隣の柏市を結ぶ全長415mの四車線のアーチ橋である。以前は二車線でそれ以前は手賀沼を結ぶ連絡船があった。橋から見える手賀沼の景色は壮観である、思わずこれが沼か?

この後のコースでは、3か所あるがここで疲労を考えて離脱、まだコースに入っていないが見どころとして武者小路実篤、水の館、鳥の博物館(工事中?)等があるが残念。


【参考資料】
・JR東日本
・ウイキペディア
・我孫子市

 《その他のPhoto》