こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

男は要るか、要らないか?(中)男女公平な社会を目指す

2018年08月16日 | 愛と女性とジェンダーと

人間の男女が以前生物学的にどのような役割分担を持っていたかということは、今は関係ない。

私は想像力はそれほど豊かではないが、男性の存在意義を卑近な例をあげて考えてみる。

私の周りの女性の多くはゴキブリが苦手だ。ムカデもあまり好きではないようだ。私もこれらはそんなに好きではないが、いたら殺虫剤をかけ、弱ったところでつまんで捨てる。私が考えるに、女性の多くがゴキブリが苦手なのは、ゴキブリというものの総体的な不気味さであり、ある意味感情論的なものだ。男性が”ゴキブリは不潔な存在”としてのみ捉えているのとは大きく異なる。女性にとってゴキブリとはゴキブリというゴキブリ的なものの代表であって、それがゴキブリでなくてもゴキブリ的なものであれば嫌悪感を抱く。だから、ゴキブリが住み着いてしまうような不衛生な部屋もゴキブリ的だし、外から帰ってきて手を洗わないのもゴキブリ的ということになる。一方、男性にとってゴキブリとは様々な細菌を媒介する不潔な存在でしかない。だから、自分の部屋が汚いためにゴキブリが住み着いたからといって、自分の部屋を綺麗にはしない。ゴキブリはゴキブリ、汚い部屋は汚い部屋なのだ。

女性の場合、対象に対して感情移入する力が強く、共感力が高いといえる。男性の場合は対象と感情を切り離して考えるから、共感力は女性に比べたら低いだろう。例えば、ゴルゴ13は男性の究極の表現型といえる。軍人は兵士個々人のことを考えることはなく、ただの駒として扱う。特攻隊はこの考え方の行き着いた先の不幸な産物だ。

このような特性は職業にも反映される。医者であれば、男性医師は患者に対して、患者という相対的な人間を治療するというより、患者の病気そのものに対する対応へと考えが向く。女性医師の場合、患者に振り回されるばかりか、上司、同僚さらには仕事をしていく上で生じる家族との軋轢といった諸々のことに関心が向くが、これらすべてのことに拘泥し振り回される。これが男性医師の場合であれば、”仕事は仕事”として割り切るから、”医師として使命”という大義名分さえあれば、寝食を忘れて仕事をするし、家庭を顧みることもなくなる。女性医師だけでは医療現場は回らないし、男性医師だけでは働き方は一向に改善しない。

私が思いつくのはこんな程度のことだけど、これだけでも男性と女性の違いは明白だ。

男性と女性を平等に扱うということ自体に無理があるということになる。妊娠出産は個人の自由だから別としても女性は年齢とともに肉体的に大きく変わる。更年期障害も男性は軽い。さらに総じて男性に比して非力であり、どんな職場であっても、男性の力は必要だ。そうすると、いま盛んに言われている男女の問題は何なのか。医科大学の入試で女子学生が排除されたことがなぜ批判されなくてはいけないのか。それは、入試において不公平であったからで、男女の問題ではない。その辺りをきちんと整理して考えなくてはいけないし、そのことをジェンダー論争に発展させてはいけないのだ。でも、残念ながら東京医大は男女差別の象徴的な存在としてのレッテルを貼られつつあるし、医学界全体が女性に対して不公平な業界と考えられている。

男性は不要、というのは全くの誤った考え方だ。だが、男性がこれまで不当に独占してきた分野というは少なからずあるはずだ。まずはそういった領域を女性に解放していくことが、男女”公平”な社会の実現に繋がっていくのではないかと考える。

難題だが

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


男は要るか、要らないか?(上)男は何のためにいる

2018年08月15日 | 愛と女性とジェンダーと

厳密にいうと正確さを少々欠いてしまうが、簡単にいうと生物にはオスとメスしかない。人間の男と女は生物学的に異なっているので、それぞれの特性も大いに違うと考えているが、最近は男女平等という考え方が浸透してきているので、こういうことを軽々に口にしてはならない。

5年ほど前、ヒトはどこから来てどこへいくのか(1)、(2)、(3)、(4)、というシリーズで”遺伝子が持っている意志”のようなものについて考えた。でも、なぜ遺伝子が発生しなくてはいけなかったのかについてはいまだにわからない(遺伝子の定常性と進化 2013年11月14日)。アミノ酸ができて、遺伝子が生まれたということが、偶然の産物としてのある意味奇跡なのか、神様の意思なのかはわからないが病気の人がこれほど多いことを考えると、やっぱりただの偶然の産物なのだろうと思う。その偶然の産物が編み出した自己保存方法がオスとメスを分けてそれぞれに遺伝子を運ばせることだった。男には子宮がないので子供を産むことはできない。いつか人工子宮ができて女性が出産から解放される時が来るかもしれないが、それはまだずっと先のことで、今の私にはおそらく関係はない。


とにかく、人間が生まれてから数万年、今や世の中は急速に変貌し、男女の存在について根元的に考えなくてはいけない時代が到来している。ここ2、3千年の間、人間界ではオスが社会、特に政治を支配してきた。これは、ただ単に人間のメスよりもオスの方が力が強く、闘争心もあるから女性を虐げてきた結果なのかもしれない。このオスすなわち男性が世の中を支配しているから、いつまでたっても戦争が終わらないという説がある。だからいっそのこと政治を女性に任せてしまったらどうかという。仮に女性がうまくやれなかったとしても、今、こうして戦争が繰り返されているという状況がこれ以上悪くなることはないだろうという考えだ。

話は少々飛躍してしまうけど、そうなると男性って、いったい何のためにいて、何をやってるの?という疑問が生じてくる。遺伝子の意図としては、遺伝子本体を引き継ぐべく肉体を存続させるための存在が女性。遺伝子の多様性の維持のために存在するのが男性だが、ならなぜ女性よりも力を強くしたのかということになる。と、考えると男性には子育てをするために肉体を酷使する女性の変わりに、狩りなどの労働をするという役割があったのではないか。もっと他にも色々あるだろうけど、元々はこんなことをするために必要だったのが男性ということはできないだろうか。でも、技術の進歩によって男性のそんな役割の必要性が薄れてきたと考える人が増えてきたのかもしれない。

では具体的に考えてみたら

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→

 


渋谷の雑踏の外国人観光客の多さに驚いて思う

2018年08月14日 | 日々思うこと、考えること

昨晩、高校時代の友人たちと同窓会の打ち合わせをするため、大雨上がりの渋谷に行った。お盆で人は少なめとはいえ、スクランブル交差点にはそれなりに人出があった。まだ明るさの残る時間はもちろん、打ち合わせが終わった23時頃になってもまずまずの混雑ぶりで、交差点の真ん中で立ち止まって写真を撮っている人がたくさんいた。

外国人観光客の多さには驚いた。昨晩なんて、スクランブル交差点の上にいる6〜7割が外国人だったのではないか。さらには、道玄坂や東急本店に向かう道はもちろん、センター街、井の頭線渋谷駅の下のパチンコ屋の横の小道を、カップルや家族連れでみなさん楽しそうに連れ立って歩いている。あまり綺麗とはいえないダウンタウンなのに、少なくとも明るいうちは犯罪被害の危険がほとんどなく、安心して歩ける街なんて、世界中探しても稀有な存在だろう。

物価が高いと言っても、蕎麦(それもかき揚げ付き!)なら500円、ラーメンだって800円も出せば、とてもとても美味しいものがいただける。ランチだったら1200円も出せばそれなりのものが出てくる。さらには値段は明朗、表示通りだ。欧米を観光した時の方がよほど高いように感じた。一体どこと比較しているのだ。

鎌倉はもちろんのこと、青森でも外国人観光客の多さに驚かされるた。海外からの観光客3000万人を目指すというけど、本当のことにそうなりそうだ。

私が小学生の頃、国鉄が”DISCOVER JAPAN”という宣伝をうっていた(国鉄だって頑張っていたのだ)。その頃は日本人観光客の掘り起こしのためだったけど、今やこの言葉は海外向けになってきている。あの頃あった、素晴らしい路線の多くが廃線となってしまっているのはとても残念だけど、鉄道をはじめとしてまだ残っている”日本らしい”観光資源を大切に扱って、観光産業はますます発展していってほしいものだと思う。

災害時の対策もしっかり

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


人を思う気持ち、もしくは想像力

2018年08月13日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

先日、鎌倉の由比ヶ浜海岸にシロナガスクジラの赤ちゃんが打ち上げられ、ニュースとなった(由比ガ浜にクジラの死体 絶滅危惧種のシロナガスクジラと判明 2018年8月6日 11時52分 テレ朝news)。赤ちゃんクジラが母親とはぐれてしまったのではないかと考えられている。この時、あるSNS上である女性が、「赤ちゃんクジラ、かわいそうにお母さんとはぐれ、さぞ淋しくて辛かったでしょう」とクジラの赤ちゃんを思いやるコメントをしていた。私は、衝撃を受けた。クジラに対してでも、こうやってその気持ちを思う、これが想像力というものかと、そして私には想像力が不足しているということを思い知らされた。

先月西日本を襲った未曾有の豪雨(平成30年7月豪雨 Wikipedia)の時に、首相以下政府の重要メンバーが宴会を開いていたことが話題となった。そこに参加していた政治家のほとんどは、このような大災害になるということを想像していなかったのだろう。毎年、西日本は梅雨が終わる頃に集中豪雨があるのは私でも知っている。そういったこととあまり縁のない東京暮らしが長くなると、何か大変なことが起こるかもしれないということも想像できなくなってしまうのだろう。想像力の欠けた人が政治家になると、苦しんでいる人のことまで思いが至らず、苦しい人は余計に苦しくなる。

人を思いやる気持ち、というのはとても深いものだ。同情であれば簡単にできるけど、思いやる、その人の気持ちになる、ということは大変なことだ。いじめについてはこれまで何度も考えてきた。それでもいまだに私は意地悪なままで、人の気持ちがわからず日々悩んでいる。どうしたらいいだろうと、妻にも相談したが、こればっかりはさすがの妻でもどうしようもないようで、匙を投げられている。話し合ってわかったこととして、原因の一つは私の育てられ方にあるようだ。妻の知り合いの教育者によると、幼児期の”お砂場教育”がとても大事らしい。ここでうまく育つと、人への思いやり、共感力が高まるようだ。私がその頃どうやって育てられたのかは知らないが、あまりよその子と遊んだ覚えはない。母がそういったことに興味がなかったのか、まだ幼かったダウン症の弟にかかりきりだったからなのかはわからない。情け無いことに、私は弟の気持ちを思いやることもできない。

おそらく、この先も私は人の気持ちのわからない、冷たい人間として生きていくだろう。でも、いつも人の気持ちを思いやるということを心がけていたら、気持ちがわからないなりに多少はわかるようになるかもしれない。人を思いやる気持ち、とか想像力というのは天性のものかもしれないが、努力すれば手にすることができるかもしれない。これからでも遅くはないはずだ、その努力をしてみたいと思う。

この子たちの気持ちも

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


ご先祖様は優しい声をかけてくれて

2018年08月12日 | 家族のこと

お盆の墓参り、鎌倉は午後から天気が崩れるということだったので、早めに出かけた。息子は就活、娘は山行、妻は手話の講習会ということで、今年は、私一人で出かけた。私の家のお墓は鎌倉市内にあり、妻の実家のお墓も近くの街にあるので、いつもワンセットでお参りしている。夜中に降った雨のせいかだろう、鎌倉じゅう湿度が高かく、蒸し蒸していたけど、多くの人が墓参りにきていた。

汗だくになって掃除をしたあと、一人ということもあって、しばし祖父母と話をした。
近況報告をしたら、祖父は「コロ健はよくやっとるな、頼もしいもんじゃ」と褒めてくれた。祖母に私の出張の話をしたら、「あら、コロ健と一緒に行きたいわ、連れてってーな」と、やっぱりいつも通り。少しの間、楽しく話すことができた。
お墓でご先祖様はいいことしか言わないけど、それはそれでいい。誰も、嫌なことを言ってくる人のところに行きたいとは思わない。

妻の実家のお墓があるお寺に行ったら、サルスベリがよく咲いていた。亡くなってもう10年になる義父に、子供たちの近況を報告し、幼かった頃にあれこれと助けてくれたことに改めて礼を言う。義父が生前好きだったバラとワインを備えた。こういうことを話し、元気づけられるからこそ、お墓参りとは大切なものなのだとしみじみ思う。

鎌倉に戻った後も、雨は結局降らなかった。

墓前で手を合わせもの思う

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


青森県深浦町のマグロせんべい

2018年08月11日 | 料理・グルメ
 日本海経由で十二湖とブナ林を見に行った帰り、五能線に沿って走っていたら、”マグロステーキ丼”というノボリが目に入った。それもどこかの町役場。少し先の道の駅でイカ焼きを食べようと思っていたのだけど、豪華そうな名前に誘われこちらで昼を食べることにした。

 そこは深浦町というところの町役場。入り口はこんなで普段は役場の食堂or喫茶なのだろう。

 店内には5組ぐらい客がいて、ひと組みは高校生5人ぐらい。周りには海と五能線の線路以外何もないところだけど、ここは結構賑わっていた。

 店内はさすが”ステーキ”というだけあって、少々煙いが、いい香りが漂っている。厨房の中では、3、4人の女性が忙しそうに働いていた。

 マグロといえば同じ青森県の大間町が有名だが、水揚げは深浦町が青森県内で一番とのこと。そして、出てきたマグロステーキ丼がこれ。見ての通り、マグロは厚めの赤身が9切れ。

 三切れを刺身で食べ、残りを小さなジンギスカン鍋で焼いて食べる。ご飯の上に乗っているのは、とろろに錦糸卵にマグロ節。もちろんマグロは美味しかった。税込1,500円という設定が、地元で食べるには妥当な値段なのかとか米は青森産つがるロマンなのだろうかなどと考えているうちに食べ終えた。

 妻と二人分3000円を払っていたら、レジの横の棚に”マグロせんべい”というお土産が置いてあった。一箱36個も入っている。職場へのお土産はいつも数が中途半端で困るのだけど、36個はすごい。一も二もなくすぐ買い求めた。

 このマグロせんべい、やっぱり優れものだった。どんなものが入っているのか想像もつかないでいたのだけど、まずは、個装。

 せんべいというのとはイメージが違うのではないか。そして、中身がこれ。かわいい。

 せんべいといったら平らに焼いた板にマグロの焼印というイメージを少し持っていたが、全く違う。そして、裏も。しっかり型がとってある。せんべいというよりはクッキーと言った方が適切な形。

 味もせんべいではなく、少々甘めの美味しいクッキー。さらにマグロエキス入りということだけど、どんな味として認識されているのかはわからない。生臭くならないようるに、ほんの少しだけ入っているのか。というか、そもそもマグロエキスって何?

 ”マグロせんべい”と”マグロクッキー”ネーミングとしては、後者の方が適切だし、かわいいと思うし、売れると思うのだけど。

コスパ最高

ブログランキング・にほんブログ村へ←よろしく!→


にほんブログ村 シニア日記ブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

 PVアクセスランキング にほんブログ村




リュウゼツランは何のために生きてきた?

2018年08月10日 | 鎌倉暮らし

ねぶた見物を兼ねて、青森の親戚のところに行って以来”フゾクのリュウゼツラン(竜舌蘭)”がその後どうなったか、気になっていたのだけど、台風13号がやってきてしまいナイトを散歩に連れて行けず、リュウゼツランを見にも行けなかった。やっと晴天となって、様子を見にいくことができた。

一番先の方の花はほんの少しだけど残っていて、最後の花を見ることができた。開花し始めてから2度の台風の直撃にもめげず、よく頑張った。いつも一緒に写しこんでおいたムクゲの花も数が減ってきた。立秋も過ぎて、盛夏もそろそろ終わりに近づいてきた。相変わらず、猛暑は続くようだけど、今朝なども湿度は少し低く秋の気配が混じっている。

ここ数日、医療業界におけるジェンダー問題を考えていたら、人間社会というものがいかに矛盾に満ちたものであるかということがわかってきた。なにより、遺伝子を残すためにオスとメスが存在するということが最大の矛盾であると気づいた。人間は常に自分の性というものを意識して生きている。ほとんどの人は自分の肉体的表現型は別として、自分を男性か女性かどちらかに振り分けているのではないか。さらには、どちらにも属さないという人もわずかながらいるだろう。何れにせよ、それぞれの動物はオスとメスという全く異なる染色体を持った生物に振り分けられ、それぞれ異なった役割を生まれ持っている。いまの世の中はそれぞれの異なる役割を無いものとする方向に進んでいるように思う。

AIの力を借りたら、人間社会における男女の肉体的格差は消失するのだろうか?男女はすべからく平等と意識が変わっていったら、全ての女性がゴキブリ退治ができるようになるのだろうか。そうなれば、愛する女性のために嫌々ながらゴキブリ退治をしている世の男性にとっては朗報かもしれない。それとも、それ以前に掃除ロボットが活躍して日本中の台所からゴキブリを駆逐してくれているから、ゴキブリ退治自体関係がないのだろうか。女性の前で頼りになるような振る舞いをすることは、多くの動物のオスに共通するアピールの一つだけど、少なくとも人間に限ってはそういったことはなくなっていくのだろうか。女性にしても着飾ることの意味がやがて消失するだろう。ファッションのユニセックス化は随分前から進んでいるから、その勢いはますます加速していくべきだ。

でも、そのような変化は私は味気ないことだと感じる。むしろそうなっていくということは、多くの人間が機械化されていく一つの過程のような気がする。

相手の人格を否定するようなセクハラ・パワハラの類いは許されないが、かといってどんな話題であればしていいかということもわからない。一人一人のスマホに監視用録音装置つけてその時々の判定をAIに委ねたらいいのだろうか。何だか、考えること自体馬鹿馬鹿しくなる。

リュウゼツランはいよいよ萎れてきて、葉は垂れ下がり、茎にはいくつもの筋が目立ってきた。果てる時が近づいていることが良くわかる。この場所で、この次のリュウゼツランが育つことがあるとしても、花をつけるのは私が死んだあと。人間社会の喧騒をよそに、一つの場所でずっと育ち、一つの生物として気の遠くなる時を経て花を咲かせる。そんな、生き方に感動を覚えるのはなぜだろう。リュウゼツランはどうしてこんな生き方をしているのだろう。最近の私には、それを考える力が残っていない。

それぞれの生き物の生きる目的

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


問題解決の処方箋はどこにある

2018年08月09日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

旧科学技術庁出身官僚による研究費に関わる不明瞭に端緒として、話は東京医科大学が入試の際に行なっていた一浪までの男子受験生への優遇措置の問題となっている。公平を前提として行われている入学試験でそのようなことが行われたら、そういうことを知らないまま試験を受ける女子学生には不利で、女性差別が問題となっている。東京女子医科大学があるのだから、東京医大もいっその事男子校にしてしまえばよかったのにと思うが、もちろんそうはいかない。国公立大学を含め、地域枠なんていうものがあるのだから、東京医大も”大学病院に残ってくれてよく働いてくれる医師枠”を男女の区別なく作ったら良かったのにとも思う。でもそうすると裏口入学枠がなくなるからできなかったのだろうか。まさしく、そういう学生をとっていたのだから開き直ってそうしてもよかったのに、表面上は公平な入試をうたっていたのが間違いだった。

今回の問題を通じて女性医師の働き方改革ということが話題に上がっているが、この場合”女性医師が家事育児をできるような働き方”、という表現になっているが、このことに問題はないのだろうか?これって、女性医師が”家事育児”をすることが前提になっていないか気になる。さらには、この問題を結婚する女性医師のことに限定しているということも話がわからない。さらには女性医師の連れ合いの人の意見が聞こえてくることはついぞ無い。そういう高給取りの妻を娶った男性の意見というものをぜひ聞いてみたいものだ。でも、そんなことも本質的にはどうでもいいこと、人それぞれなのだからこれが正しいということはどこにも無い。

最近、この国の抱える社会的な問題に対する議論というものが、刹那的で一本調子になっていると思う。東京医大が”女性医師は結婚して家庭に入ってしまうので人数を制限した”というのであれば、問題は”女性はすべからく結婚して家庭に入る”と考えたことが問題なのではないか。でも、医師になることと結婚することは全く別の問題で、男性医師も状況は同じだ。家庭に入ったら、子供をもうけて育てる、というのはもう医師だろうがなんだろうが関係ない話だ。そして、女性医師でもやっぱりワンオペ育児をしていて、そのためにはフルタイムでは働くことが難しいということ。でも医師の場合は当直も土日の日直もあるし、学会出張も少なくない。そういったことすべてをひっくるめての問題がこの先待っている。私の周りの女性医師をみても、様々だ。ワンオペ育児をこなしている人もいれば、あっさり家庭に入って週に2、3度のアルバイトをしているだけの人、結婚しないで男性医師と同じように働いている人、婚期が遅れ子供が欲しいと思っても難しい年齢になった人。それぞれの人がそれぞれの選択をした結果であって、それぞれの生き方についてあれこれいうことはできない。男性優位の社会だからやりたいことができなかったという声もある。間違いではないのだろうけど、詮無いことだ。人生の選択は、その時々の状況をみて決断していくものだし、時間は前にしか進んでいかない。もし自身が男性社会の理不尽な力に道を閉ざされたことがあったのならば、それを後に続く人にさせないようにしてあげることしかないのではないか。

今回の問題を解決するためのこれといった処方箋はない。解決すべき問題が多すぎる。少なくとも東京医大はこれからは入試制度を公正なものとするしかない。第一に、初期研修制度が始まって、大学病院にそのまま残る医師は減っている。開業医の子弟なんてそのまま実家に帰って地元の研修病院で研修をした方がよほどいい。これまでの古い考え方は恥を忍んでさっさと捨てるのが得策だ。そして教員、在校生および全ての卒業生が、医療向上のために邁進することが信頼回復への最良の道だろう。

そしてこれは医療界だけの問題ではない

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→

 


日本の医療問題の行き着いた先

2018年08月08日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

連日、トップニュースで流されている東京医科大学の裏口入学を端緒とする多くの問題。たどり着いた入試得点の操作問題は、現在の日本の医療問題の縮図を反映したものといえる。いや、医療問題だけではなくて、少なくとも教育問題の縮図でもある。教育問題にまで話を広げたら、キリがないので医療の問題にとどめておく。

入試の際の得点操作は、”現役〜2浪男子は20点、3浪男子は10点を加点する一方で、4浪男子と女子には加点しないというもの。女子は現役・浪人を問わず、男子は3浪以上になると事実上減点される仕組みだった”そうだ。歳をとってから医者になるとすぐに家業の医院を開業するために大学病院を辞めてしまう、女性医師は結婚、妊娠・出産を機に大学病院を辞めてしまう、というのが大まかな考え方のようだ。

これは、男性医師優遇、というよりは、男性優遇の医療システムだ。過酷な長時間労働をさせる代わりに、妻を専業主婦として生活できる程度の給料を払うことで、若い男性医師をブラック企業に確保する。こういうシステムは日本中多くの大学病院で行われていることだ。長時間労働に陥りがちな外科や内科の一部は特にそうだろう。手術に入る前、最後に顔を見た医者が、目覚めたときにも目の前にいたら嬉しいだろうけど、もう、そういう時代ではない。手術に5、6時間かかったら、そのあとの回復室では別の医者が手当する。担当医はさっさと帰る、そうならなくてはいけない。

初期研修医のシステムが9時5時となって数年経つ。私の勤務先でも初期研修医が真っ先に帰る。帰るというか、帰らなくてはいけない、というのが正しい表現なのだろうけど、まだまだ目が冴えている夕方の時間は何に使っているのだろうと思う。医者の場合はセカンドスクールもないから、結構な時間のロスだと思う。せめて、毎日、あと数時間余計に勉強したらもっと伸びるだろうにと思うが、そうもいかない時代となった。医療を行うための知識は膨大で底なし沼だ。自分の専門領域だけは足りないから、幅広い知識と経験が要求される。

でも、多分そんなすごい医者よりも、時間給で働いてくれる医者が増えてくれる方がいいのだろう。時間給としてはいまと同じでも、労働時間が抑制できたら、医療費は抑制できる。給料もそんなに高くないから、医学部人気も下火となって、優秀な人材が他職種に回ってくれるようになる。いまの日本の地盤沈下の原因が、優秀な人材の一極集中にあるとすると、その改善にもつながるかもしれない。

医者の子弟みんなが医者になりたいわけでもない

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


働き方を変えていった先には何が

2018年08月07日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨日の暑さからは一転、今日は霧雨の涼しい朝となった。休み明けには見に行こうと思っていたリュウゼツランだけど、雨ではナイトの散歩にも出られないので断念。どうなっているだろう?夏季休暇といっても、トータルの仕事量は変わらない。あらかじめ決めておいた仕事量を変えてしまうと不公平になるから、休み得は許されない。もちろん、誰かが病気になったり、誰かが産休、育休を取ったりしたら話は別で、そうなったらシフトを組み直すとかすることになるだろう。

題名が思い出せないのだけど、星新一のショートショートに、悪魔が依頼主の望むものを手に入れるために、何処かの誰かのお金だの寿命を取って来て回していたのだけど、あることで不審に思った依頼主が悪魔を問いただすと、”悪魔といえども無から生み出すことはできないから”とタネを明かす。というような話で、仕事にしても同じようなものだと思ってしまった。なんでも絶対量というものはあって、それは結局は自分でカタをつけなくてはいけない。病理なんかは特にそうだ。

昨今の、働き方改革の考え方は、労働は美徳だけど、相応の対価が支払われなくてはいけない、となってきた。大事なことは労働は美徳という考え方で、権力者や支配者階級が労働者階級に強いてきたレトリックであるということ。医者にしても、労働者階級であることに変わりはなく、昼夜を分かたず働くことが良いと考えさせられてきて、多くの医者が過労で命を落としたり、家庭を崩壊させたりしてきた。

医者の労働環境も今では随分改善されていて、初期研修の間などは当直を除いたら原則9時5時だ。医者は経験を積み、勉強して価値が上がるものだから、勉強をしたい人は時間外にも勉強するけど、そうでない人はぼんやりしていても誰にも叱られない。”いつでもそこに行けば医者がいる”ということに応えることができるようなことに対応するための、意味もない長時間労働は減っていくだろう。”滅私奉公”的な医者は減っていくけれど、それは社会の”働き方改革”という流れに沿ったもので、医療界だけのことではないのだ。

医者も時間通りに働くものだという認識が世の中に浸透していってくれたら、そんなに働く必要はなくなるし、給料も抑制できるから医療業界にとってはいい事だし、安定しているからというだけで優秀な若者がこぞって医者を目指すというおかしな状況も多少は変化していくのではないか。

それでも儲ける人はいるだろうけど

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


今年の夏休みは(3)三内丸山遺跡と青森ねぶた

2018年08月06日 | 日々思うこと、考えること

起きたら青森は17度で雨、少し肌寒い。一方鎌倉は晴れで28度。すでに10度の気温差。予想最高気温も20度と32度。それでも、東京も37度とかの尋常でない暑さにはならないみたいでホッとしている。ねぶた祭りが見たいからと青森の親戚の家に妻と二人、泊めてもらい随分助かった。この時期の青森の宿の心配をせずに済んで良かった。

ねぶた祭りの前に、三内丸山遺跡まで案内してもらい、縄文時代に思いを馳せた。先日たまたまNHKでの特集を見ていたおかげもあって、興味深く見学することができた。

北東北、道南の遺跡群をまとめて世界遺産登録を目指しているそうだ。鎌倉は断念したけど、こちらは頑張ってくださいと案内の人に声をかけた(こんなところだろう・・・鎌倉世界文化遺産「不登録」 2013年05月01日)。

青森ねぶた祭りは、それはすごい人出でびっくりしたけど、鎌倉花火大会ほどではなく、十分歩くことができてそれほど問題はなかった。

弘前のねぷたで驚いていたけど、青森のねぶたはもっとすごくて驚いた。町中が太鼓の音で満たされている。

ただまあ、跳人は2時間も続けて跳ねているわけにもいかないようで、適当に休んでいた。ちょうど私たちの座っていた前あたりが休憩ポイントだったようで、そのあたりは今ひとつだったような気がする。

大雨が続いていたこともあって、山車には透明なビニールで覆いがかけられていたのは少し残念だったけど、どれもとても美しかった。

山車を一台出すのに2000万円かかるそうで、”出陣”している企業も全国規模の大企業か市役所・県庁。山車にはたくさんの宣伝が入っていて、商業主義の感が強かったけど、この祭を維持していくには仕方のないことなのだろう。

今日は午後から仕事。朝早い新幹線で帰ったら十分時間はある。便利になったものだ。それにしても、あっという間に夏休みが終わってしまった。働き方を変えたくても、今のところ病理医の全体数からしたら難しい。新幹線を降りたらまた真夏の暑さ。青森の夏は短いようだけど、関東地方の夏はまだまだ続く。

青森の滞在で、妻も暑気あたりから回復したようでよかった。

熱中症に気をつけよう!

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


今年の夏休みは(2)日本海と十二湖青池

2018年08月05日 | 日々思うこと、考えること

前に日本海を見たのは学生時代、バスケットボール部の合宿で来て以来だから、およそ30年ぶり。金沢で学会が開催された時に夜行バスで行った時、車窓から見たようなきがするけれど、寝ぼけていたのでよく覚えていない。

だから、今回、世界遺産白神山地のそばまで行く途中に日本海を見ることができたのは嬉しかった。

曇りだったせいもあるかもしれないが、やっぱり日本海はグレーだった。

今日は大雨になってしまったけど、昨日は時折晴れ間がのぞいてブナ林の空気は美味しかった。

十二湖、とくに青池はものすごい数の観光客でびっくりしたが、随分マナーも良くなっているのだろう、ゴミも少なく気持ちよく見ることができた。

レンタカーで全行程200キロ以上走ったら、腰が痛くなった。普段乗っていない車で、どうもどうも体に合わなかったようだ。

今夜は青森ねぶた

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→

 

 


今年の夏休みは(1)秋田犬と弘前ねぷた祭り

2018年08月04日 | 日々思うこと、考えること

短い夏休みが取れた。実質3日だけど、今回は青森のねぶた祭り見物という観光らしい観光休みとなる。青森についてすぐにレンタカーを借りて、秋田、大館の秋田犬会館まで行った。妻が以前秋田犬を飼っていたことがあり、ぜひ見たいというので、半分は勢いだった。大館駅前に秋田犬ふれあい処というのがあって、モフモフ体験。

その後で、秋田犬会館まで足を伸ばして、秋田犬の歴史を知った。

秋田犬に触れ合った後、青森に引き返した。今週は青森県内各所でねぷたとかねぶたが行われいるそうだ。昨晩、宿のある町でも、山車が出ていた。

この町を後に、弘前ねぷたまつりへと行った。妻の古くからの友人が場所を取っておいてくれたので、いい場所から見ることができた。

それにしても、すごい迫力でびっくり。これがねぷたか。

太鼓の音もすごかった。中央弘前の駅で降りたら、もうお囃子が聞こえてきて坂を上がったらたくさんの人が山車を引いているのが見えた。道の向こうから次から次へと美しい山車が引かれてきて、止まってぐるぐる回ってと、驚くばかり。あんまりたくさんで、最後の方は写真を撮るのもしんどくなった。

生きているうち、一度は見たかったねぷた。いい思い出となりました。

やーやーどー

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


女性のライフスタイルに合わせてみたらどうだろう

2018年08月03日 | 愛と女性とジェンダーと

某医科大学が入試で女子学生に不利な選抜を行っていたということが明らかとなって大騒ぎとなっている。

女医はある時期に離職して育児を行うため、医師として育成するのが困難だというのがその理由。たしかに産休、育休さらにはお受験、介護、ほとんど全てを女性が行なっているこの国では、女医さんとてそうならざるを得ないのは仕方ない。

ならばいっそのこと、男性のライフスタイルを女性と同じにしてみたら全てが解決するのではないか?

出産だけはできないけれど、育児、家事なら時間さえあればできる。仕事は女性がしてくれたらいいし、給料は男女平等にしたら問題ない。終身雇用で退職金をたくさん払うようなシステムはやめて、退職金分を前払いにしておけばいい。長く勤めたらその分のボーナスが出るなんていうのがそもそもおかしな話だ。

それはさておき、女性からの収奪という社会システムをそろそろ諦めたらどうか。男性だって、家庭に入りたい人は少なくないはずだし、家事が苦手な女性も少なくない。そういう男女が一緒になれば、多少は婚姻率も上がる。

こういうことを書くと、『なぜ、男性のアドバンテージを捨てなくてはいけない?』といってくる人がいるけれど、男女が平等でないから、セクハラだのパワハラの問題が起きてややこしくなる。男女は対等だという基本的認識さえあれば男女差は体力のみの問題となる。

体力差にしても、女性の方が優れている点もあり、トータルで見たらトントンではないか。夜中の3時間おきの授乳なんてこと男にできるか?

「〇〇科は男社会だから、女には無理」といって、チャレンジしてくる女医さんに対して意地悪している場合でもない。〇〇科が女医さんでも無理なく働くことのできる科になったら、男性医師も無理なく働くことができるようになるのではないだろうか。

働き方を変える

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→

 


フゾクのリュウゼツランと火星

2018年08月02日 | 鎌倉暮らし

この半月ほど見守ってきたフゾクのリュウゼツランがいよいよてっぺんまで開花した。暑気あたりからなかなか出歩かないでいた妻も、今日で花がすべて咲くと伝えたら、私と一緒に見に出てきた。せっかくなので、今日は解像度を高くしておきます。

夜明けの時間が遅くなって、5時すぎでも、空はまだ乳白色。でも、鳥と蝉の声が交錯している。そういえば、今、火星が地球に大接近中とのこと。15年ぶりぐらいの近さだそうだ。明るい赤い星が南の夜空に輝いていた。

スマホのカメラでもこうして捉えることができるほどなのだからよほど明るいということだ。マイナス2.8等というとどれぐらいかわからないが、普段の50倍の明るさとのこと。

さて、フゾクのリュウゼツランだけど、思っていた通り、先端の10個程度の花まで咲いている。

下の方の花はほどんど落ちて、茎や葉は随分やせ細ってしまった。それでも最後の力を振り絞ってついにてっぺんの花まで咲かせることができた。台風12号にも負けず、よく頑張った!と声をかけてあげた。花の周りにはたくさんの虫が飛び交っている。こんな、たった1本だけにもかかわらず、数千の花をつけ、多くの命を育んでいるのだと思うと感動を禁じ得ない。妻はナイトと一緒に引き返し、私はそのまま鎌倉駅に。これで普段よりも1時間近く早く仕事に取りかかることができた。これぞ早起きは三文の得?

”自然”という言葉からはほど遠い環境だけど、こうして”人間以外の生命”の営みを実感できたことはとてもよかった。なにもリュウゼツランでなくても、チューリップでもひまわりもある意味同じだけど、30年だか50年という時間的スケールからすると感じ方も違ってくる。

附属小に通っていた息子によると、リュウゼツランの存在は認識していたそうだけど、それがいつから植わっていたのかはしらないらしい。もちろん、私たち近所の者も朝夕その”竜の舌”のような大きな葉の横を通りながら、いつも”ちょっとだけ”すごい葉だと感じていたけど、ほとんど気にはしていなかった。ネットで探したら、私同様”馬鹿でかいアロエ”として写真をとっている方がいらした(北京老学生・日本から台湾へ ”【40年ぶり?の鎌倉】その2 頼朝の墓、小2学生のときの記憶” 2013/10/9)。貴重な写真だ。私もそうだったけど、やっぱり誰もが、大きなアロエと思う。

私も、附属小の低グラ(低学年用のグラウンドの意)の写真があったら、探してみようと思う。例えば、入学式の日に撮った写真でもがあれば、その隅っこにこのリュウゼツランが写っているようだといいのだけど。


育つ途中はどうだった?

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→