ノー天気画家の本音生活 

これが私の生き方などとヤセ我慢するよりも、今日の風に流されましょう!

本から得られる知識よりも、自分で考えて発見した知恵が大切

2012-03-02 03:18:39 | 犬たち

 

私の蔵書(商売道具の美術書を除いて)が、我が家からすっかりなくなりました。

古本屋さんに出したりゴミ回収に出したで、本の重さを実感した力作業でした。

 

現役時代の私は活字中毒とまではいかないまでも、かなりの読書家でした。

通勤電車はまさに読書室となり、ベッドに入るときもトイレの中でも本を離さず、本がなければ不安になる精神構造が刷り込まれていたようです。

その理由は、本好きもさることながら情報産業を職業としていたため、たえず多くの知識を得ることの義務感と、時代のトレンドを掴むことに焦りを感じていたためで、知識を得ることに脅迫されたように読み漁っていたような気がします。

しかし、退職して画家の道を歩み始めたのですが、画家としての職業観はこれまでとは逆で、自己を見つめることが大切な仕事である反面、世間や時代などの情報は邪魔な雑音にしか過ぎないとわかり、すぐその気になる私はいとも簡単に活字を読むマインドコントロールから逃げ出すことに成功しました。

 

それ以来まったくの本の購入も購読も接することもなく、雑誌の購入も皆無、新聞もすぐに止め、活字メディアとは無縁の生活となりましたが、愛着のこもった本を捨てることに多少躊躇していたのですが、そんな未練を断ち切るためにもすべての本を廃棄したのです。

というわけで情報といえば聞き流しているTVと、パソコンでのインターネットだけになるわけですが、それも熱心とはいえないため、私の生活は情報過小の生活となりました。

それは単に情報の少ない仙人のような静かでさびしい生活が訪れると思いきや、意外なことに次から次と新しい発想が生まれる忙しくて活気ある生活に変貌したのです。つまり

 

情報の絶対量が少ないということは、考えるチャンスが増えることであり、

それは安直に本から得られる知識よりも、自分で考えて発見した知恵の方が、

はるかに重要な人生の道標に繋がることを実感したことでもありました。

 

日本の学校教育はいまだに「知識の詰め込み」が主流のようで、先進各国の「考える教育」に大きく立ち遅れており、日本の将来の危機であるという指摘があります。

たとえばテストとなると、日本では鉛筆と消しゴムだけで臨み、知識や暗記力が点数に直結しますが、諸外国では教科書などの持込は自由で、パソコンまでがOKの国もあるそうで、その評価基準は徹底して「考える力」にあるのです。

学校教育は社会人への訓練機関とすれば、社会では今やパソコンやスマートフォンを小脇に置いての知識の引き出しは常識というより必須条件で、実践での能力の差は「知識の差」ではなく、「考える力の差」になっているのです。

 

このブログもそうですが、私のブログ「ノー天気画家の生活日記」は、外からの情報ではなく、自分で考え、自分で発見したものをだけを書いています。

時には他人のオピニオンを取り上げることもありますが、そのときは情報の出所を明示しているつもりです。 

とまぁこのブログを開始してから8年がたち、毎回違うテーマを数百(千を越えているかも)も書き続けてきました。

これだけ書けばもうそろそろネタも尽きるだろうとお思いでしょうが、外からの情報に頼らず、バカな頭を振り絞って考えれば、満天の星のごとく新しい星が見つけられるような気がするのです。