ノー天気画家の本音生活 

これが私の生き方などとヤセ我慢するよりも、今日の風に流されましょう!

写真を超えたところって何ですか?の答です

2008-12-26 17:25:13 | 犬たち

当ブログの11月22日の「描きたい世界は写真を超えたところにある」の中で「上級者は写真を超えたところで勝負しなければなりません」と書いたところ、「写真を超えたところって具体的に何ですか?」という質問がありましたので、今回はそのことについて考えていきたいと思います。

通常の絵では人間の肉眼で見て描きますが、トレース水彩画は撮った写真を素にトレースして描きます。
その「人間の目」と「写真の目」の違いを比較するところからはじめたいと思います。
最近のカメラは高性能なので肉眼より解像力が高いのですが、それだけでなく以下のところに決定的な相違があります。

たとえば何年ぶりかで古い友人と渋谷駅のハチ公の前で合う約束をしたとします。
約束の時間になっても友人が現れず、「もしや・・・」と不安がよぎった瞬間、人ごみをかき分けて走ってくる友人の顔を捉えました。そのときの彼の目には周りの風景はすっ飛んで、昔とちっとも変わらない笑顔だけが感動とともに眼に焼きつくこととなります。それが人間の目が写した情景です。
もし、その瞬間をそのまま写真で写したとしたら、ビル群が写り、おびただしい電柱や看板が写り、雑踏が写り、その雑踏の中に小さく友人の顔が写っています。味も素っ気もない平凡で冷たい写真でしかありません。

そうなんです。写真の目はあくまでも冷静で客観的なのです。事実を真っ正直にしか写すことができないのです。
それに対して人間の目は主観的で感情的、言い方を変えれば自分勝手で、たとえ事実と違っても脳の命令に従って都合よく映るんです。

絵は感動を表現するメディアです。
となれば絵は冷静で客観的なカメラの目ではなく、主観的で感覚的な人間の目で表現されるのが正しいのです。
それでは写真を素に描くトレース水彩画は邪道なのでしょうか。
否、これだけ生活の中に普及し、驚くほど高性能になったカメラという道具の使い方や活用の仕方にあるのです。それにより絵を描くための大変便利な道具となり武器となるのです。

たとえば上記の出会いの感動をトレース水彩画で描くとすれば、冷静で客観的な写真を、ホットで主観的な絵に置き換える必要があります。
それにはまずカメラのレンズは広角ではなく望遠レンズが適しているでしょうね。
その上描く段になると、ビル群を省略し、おびただしい電柱や看板も省略し、雑踏は雰囲気を出すために描くものの大幅に手抜きして描き、その代わり古い友人の顔だけはしっかり描く・・・。

「写真を超えたところで勝負しなければなりません」の意味はもうお分かりでしょうが、描き手を料理人とすれば写真は素材です。素材をそのまま手を加えないで出す場合もあれば、素材を切り刻み、使わない部分を捨て、素材とは別の新しい味を創り出す、その自由で奔放な使い方こそがトレース水彩画のの勝負どころであり醍醐味なのです。