「一義性と多義性」は今度の長崎への旅で痛感したことである。数学とか物理ではその解釈とかは別にすれば、なんでも一義的でなくてはならない。誰にとっても1+1=2でなくてはならない。
ある人には1+1=3だったりすると、これは比喩的な話にはまあいいとしても、数学とか物理では困るわけである。そういう意味ではこういうものは普遍的というか一義的でなくてはならない。
ところが芸術の世界ではその必要がないほうがいいらしい。むしろ多義的であるのが面白いというか興味深いのである。I 教授の定年を記念した協賛の展覧会を長崎まで見に行ったわけだが、その中にある中国の大学の美術の先生の絵があった。
中国では伝統的に墨絵の伝統があるので、それに則っているのだろうが、それから外れる試みをしている人であった。廃墟を描いているのだが、その中に女性の顔が入っていたりするようにも見えるのである。それも一つではない。絵の中にいくつものそういう隠し絵みたいなのが入っている。
I さんによれば、多分この先生は新しい試みを密かに楽しんでしているのではないかと言っていた。中国はまだ政治体制的には社会主義の国である。経済は市場経済を導入したが、それはあくまでも経済においてであって、政治は依然として変わっていない。だから、芸術にもその自由がある意味では束縛されているのかもしれないが、それでもその中でいろいろと密かな試みをしている人がいるらしいと感じられる。
だから、この墨絵は多分に多義的なのである。もしそれを非難されたときにはまじめに、これは廃墟を描いたのでそれ以外の他意はないと言い逃れをすることもできるし、また、感じる人には感じ取ってももらえるというわけである。
そういえば、量子力学でも有名な話として、光の粒子性と波動性とか電子の粒子性と波動性とかいった概念がある。古典的力学的に考えると粒子性と波動性は相容れない概念である。
それを量子力学ではある意味で統一的に理解をしている。それを理解できるようになったという意味ではやはり量子力学は20世紀前半の偉大な業績であったろう。