物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

999

2010-03-10 15:33:33 | 日記・エッセイ・コラム

999とはなにか。今回がこのブログの999回目である。明日になるかどうかはわからないが、次回はめでたく1000回目になる。それで今日はこういう999みたいな反復に因んだことを述べよう。

999だったら、トリプル・ナインというのかスリー・ナインというのか、もっともそういう言い方は和製英語かもしれない。これに似たよく知られている例では映画のジェムス・ボンド・シリーズがある。

いわずと知れた007シリーズである。私もこの映画が好きで割合見ている方だが、この映画は私が学生の頃からある。ゼロ・ゼロ・セブン「危機一髪」・・・とか言っていたが、どうもこれは私たち日本人の呼び方で映画の中ではダブル・オ・セブン(double o seven)といっている。

これとはまったく違うが、アメリカに有名な雑誌があって、その名をIEEEという。これは電気通信学会かなにかの雑誌らしい。詳しい名は知らないが、アイ・トリプル・イーと呼んでいる。

スリー・ナインの延長としてというか、むしろこちらの方が先に耳にしたものだが、シックス・ナインとかナイン・ナインというものある。これは半導体などで99.9999%の純度のものだとかいうわけである。ナイン・ナインの純度の半導体が実在するかどうかは知らない。

私は半導体の専門家ではないので、間違っているかもしれないが、ゲルマニウムとかシリコンはIV族の元素でこれにIII族の元素またはV族の元素をごく少量混ぜて半導体をつくる。そうすれば、固体の電子の伝導帯の直ぐ上とか下にドナーとかアクセプターといわれる準位をつくれて、それでその物質を半導体とするというのだった。

これは大学の固体物理の講義では聞いた訳ではないが、大学に勤めてから本を読んで知ったことである。それについて自分で授業をすることもなかったから知識としては今もってあやふやである。

911はいわずと知れたSeptember 11で9月11日のWTOセンターへのジャンボジェット機の突入という、事件のあった日のことである。これはもちろんSeptember 11が普通の表現だろうが、ナイン・ワン・ワンともいっているらしい。しかし、ナイン・ダブル・ワンとは言わないのだろうか。


雨と晴れの功罪

2010-03-09 13:00:21 | 日記・エッセイ・コラム

雨の日もあれば、晴れの日もある。雨の日ばかりが続くこともないし、晴れの日ばかりが続くこともない。もちろん、雨の日、または晴れの日が続いたとしても、これは数日のことであって、百日の単位で続くことは今のところない。

これは将来にわたって保証されているわけではないが、誰でもそう思っている。もちろん、これはたとえば、気候変動によって極端なことが起こらないというような仮定がされているのだが。

人生でも比喩的に言えばそういうことが起こるだろう。雨の日ばかりでもないし、晴れの日ばかりでもない。雨に日は地球が顔を洗っているか風呂に入っているのだと私は思っている。人間が顔を洗ったり、風呂に入ったりするようにである。

ファインマンの「物理学講義」電磁気学(岩波書店)には地球上では三万箇所ぐらい同時に雷が鳴っている地区があるのだと書いてあった。そんな統計を誰がとったのか知らないが、そういうことに関心のある人がいるものだと感心した。

その雷の部分を読んだのは学生から雷の起こる原因を聞かれてそれに答えるためであったが、彼の説明は詳しすぎて私には学生の質問に答えるための要約ができなかった。


社会からの隔離

2010-03-08 17:40:02 | 日記・エッセイ・コラム

別に新型インフルエンザにかかっているわけでもないが、ここ3週間ばかり社会から隔離している。先月の25日にドイツ語の今期の打ち上げ会があったから、そのときには出席したが、それ以外には外に出ていくことも少ない。

前からやっている翻訳の件が終わらないのである。一応終わったつもりにしたのだが、どうもそうもいかない。それで訳を見直している。やればいくらでも仕事はある。翻訳はプロでもなければ引き合わない。これは持論である。

これは私の以前の経験からもそうであったが、今回もそうである。だが、やり始めた以上はやり遂げねばならない。少なくとも私のこれに使った時間はどのくらいになるだろう。時間単位の報酬に直したら多分時給600円の最低賃金を下回っていることになるかもしれない。

いや、これは別にうらみ思って言っている訳ではない。事実がそうだということを言っているだけである。なんでも、人に働いてもらうためにも自分が一番働く必要があると思っている。

だから、もう少し社会との関わりが薄い日が続くだろう。したがって、ブログも書けない日があるかもしれない。


一歩、一歩

2010-03-06 18:45:40 | 日記・エッセイ・コラム

1千回のブログにもう少しで到達しようとしている。確かに一回目を書いたときにはほとんど毎日書くようになるとは想像はまったくしていなかった。

気が向いたときに書けばいいという気持ちだった。だが書き進めているうちに結構書きたいこともあったし、また書く内容はそう簡単には種切れにはならないということが判明した。

どういうことを書いていたかというと、自分のそのときどきで関心をもって、一生懸命にやっていることについてモノローグ的に書いた。これは私のブログであって他の誰のでもない。だから、誰かに読んでもらう必要はないのだとの開き直りがあった。

ただ、子どもからのその表示の仕方についてはアドバイスがあった。できるだけ段落を短く切って、短いブロックにしなさい。子どものアドバイスはそれだった。このアドバイスに感謝している。

普通のブログでは絵や写真が入ったりして視覚に訴えるものが多い。ところがこのブログにはそう言うことがまるっきりない。ただ、ひたすらに文章である。それでは面白いはずがない。

だが、世の中には変わった人がいて、私のそれほど面白いとは思えないブログを記録してくださっている人もいるらしい。だから、physicomathで索引すると結構そのような項目が出て来るということも最近知ったことである。

physicomathとはphysicsとmathematicsを合せた形容詞である。物理学会と数学会とに分かれる前は学会は数学と物理学と一緒でPhysico-mathematical Society of Japan(日本数物学会)といわれていたのである。

ちょっとレスリングのGreco-Romanスタイルといった形容詞と同じ類である。Greco-というのが何を意味するのか長い間わからなかったが、あるとき、ああこれはGreekの形容詞的な使い方だなと気がついた。

そのころにちょうどローマ・オリンピックだかがあり、そのころに新聞かテレビで、この語の説明がされていて、私の推測通りだった。だが、カタカナで書いてグレコーローマンスタイルのレスリングというときに私にはこのグレコという音が異様に響いており、これからギリシアを思い起こすことはとても難しかった。


ドイツ語の特徴

2010-03-05 17:21:52 | 外国語

ドイツ語の特徴は「枠構造」と「冠飾句」であるといわれる。

私が英語からドイツ語に入って戸惑ったのは実は冠飾句ではなくて、枠構造の方であった。

ドイツ語を学び始めてから数年間は、ドイツ語を読めるとか、わかる人はどんなに頭のいい人なんだろうと思っていた。それくらいドイツ語の語順にとまどっていたのだ。

これはドイツ語の文のつくり方は英語と同じだと思っていたら、私には全然わからない言葉のならべ方をしていたからである。完全なるカオスであった。

50年以上前に私が大学で学んだドイツ語の文法書は文の構造にはまったく触れず、ただひたすら冠詞、名詞、動詞の変化を教えるのみであった。こんなに無味乾燥で、眠たいものはまた他になかった。

大学3年になったときにそれでも大学院へ行こうかと思い出した。そのころは今と違って大学院の入学試験に第二外国語が課されていた。

それでしかたなく、ラジオのドイツ語のテクストを買って、少しドイツ語を勉強しようと思った。その頃にラジオの講座を担当されていたのは東京外国語大学の藤田五郎先生であり、それまでのラジオの講座の講師として有名だった関口存男先生が心臓発作か何かで急死した後を受けてだった。

その後、E大学に勤めるようになって、東京外国語大学を卒業した、ドイツ語の先生から聞いたところでは藤田先生は大学での授業をドイツ語でなさっていたという話だった。ラジオ講座の方はそういうこともなくわかりやすく、丁寧であった。

そのころ聞いたことでは分離動詞のことを説明するのに、万年筆のたとえをされた。これは使うときにはキャップをはずして使うが、分離動詞はそれと同じようだと言われていた。

ラジオ講座でやっとドイツ語の文には枠構造(付記参照)という重要な特徴があることを知った。この枠構造は現在完了の文とか助動詞構文に特によく使われる。だが大学のドイツ語の講義でこのことを聞いた覚えがまったくない。

大学の先生はドイツ文の枠構造についても話したのかもわからないが、何回も強調されないとそれは一度や二度聞いたくらいでは身につかないのであろう。

ただ、私のドイツ語がわからなかった経験は他の言語を学ぶときに役に立ったと思う。それは英語風の語順が唯一ではないことを身にしみて知ったから。

とはいうものの、たくさんの外国語を知っているわけではない。少し長くやっているのはドイツ語とフランス語くらいで、あとは何十年も昔にロシア語の講習会に半年ほど出たとか、同じようにイタリア語の講習会に半年ほど出たことがあるくらいである。いずれもものにはまったくならなかった。

2年後輩のO君はその外国語としてロシア語をかなり勉強して辞書があればなんとか読めるくらいになったと聞いたが、その後どうしたかは知らない。

彼は生物物理に関心があって、長く大学の医学部の研究所かなにかにいて、年中大腸菌を相手に顕微鏡を覗いていると聞いたが、定年後はどこかで物理を教えている。

(2012.2.21付記) ドイツ語の枠構造とは?

   Ich (kann) Deutsch (sprechen). (イッヒ カン ドイチュ シュプレッヘン:私はドイツ語を話すことができる)(注)

という例文から典型的にわかるようにkannという助動詞とsprechenという本動詞が離れており、人称に応じて語尾変化する定動詞は文章の2番目の位置にあり、本動詞は文末に来る。そしてこの二つで文の枠構造をつくっているということを指す。

このごろは文の不定詞句から文章が作られるという観点から、説明が行われている。すなわち、Deutsch sprechen k"onnenという不定詞句からk"onnenが主語の人称に応じて変化してkannとなり、主語ichのつぎの文の2番目の位置に来る。Deutsch sprechen はそのまま文末に残る。

このようにして、Ich kann Deutsch sprechen. という文がつくられるという説明が現在ではされている。もともとDeutsch sprechen k"onnenとsprechenとk"onnenとは不定詞句ではくっついている。

この説明だと分離動詞の前綴りが文末に残ることも同じような考えで説明できる。

同様に現在完了の文で、einen Kuchen gekauft haben(一つお菓子を買った)という完了の不定詞句から現在完了の文 

    Er (hat) gestern einen Kuchen (gekauft). (彼は昨日一つお菓子を買った)

という文の助動詞habenが3人称のerに応じてhatと定動詞となり、文の2番目の位置に来たというわけである。einen Kuchen gekauft はそのまま文末に残っている。

こういう説明は何十年も昔はされていなかったと思うので、ドイツ語の教育の仕方も改善されている。

「冠飾句」の方はドイツ語の会話では出てくることはなく、これはドイツ文を書いたり、読んだりするときに出てくるので、ドイツ語のもう一つの特徴ではあるが、ドイツ語の初心者をそれで惑わすことは少ない。

(注) 上の文でkannとsprechenで枠をつくられていることを強調するためにこの二つの語をかっこでくくって、(kann)と(sprechen)としてある。強調以外にはこのかっこに意味があるわけではない。

Ich (kann) Deutsch (sprechen)は、英語なら I can speak Germanとなる。can speakという風には、ドイツ語ではk"onnenとsprechenとが続かない。


外国語を学ぶとは

2010-03-04 17:23:26 | 外国語

外国語を学ぶことが学問だとは私は思ったことがない。なぜなら、英語を話す国に行けば、英語はほとんど誰でも話すからである。

先日のドイツ語の今期の打ち上げ会でドイツ滞在が4年にも及んだOさんが自嘲気味に外国語を学ぶのはいつまでも猿真似をしているに過ぎないと言われていた。

それで私は彼が「ドイツ人の若い知人と話すときにあなたはそのときでもまず日本語で考えてそれをドイツ語に訳しているのか」と聞いたら、それは「そうではない」という。だったら、幾分かは知らないが、すでに猿真似を脱しているのではないかと。

猿真似うんぬんは別としても確かに母語ではない言葉を話すとき、読むとき、書くときにはいつも難しい問題がある。

トルコ人のドイツ語作家が母語でない言葉を学ぶということについて昨夜のテレビのドイツ語の講座で話していたが、いつまで経っても到着しない旅に出ているようだという。

彼女はそれについて日本のことわざとかを紹介したが(そのことわざを私は聞いたことがない)、それによると「旅は目的地に着かなくても途中が楽しい」というのだそうである。

要するに外国語を学ぶことは目的地に永遠に着くことが出来ない旅に出ていると思えばよい。そしてその旅を楽しみなさいと。そのトルコ人作家は日本で言えば、芥川賞のような権威ある文学賞をドイツで数年前に受賞したらしい。

ドイツという国に住んでいれば、自然とドイツ語が母語の代わりに部分的にしろ入れ替わってくるということもあろうが、日本にいてドイツ語に触れるチャンスのあまりない私たちにとっては確かにそのドイツ語が母語である日本語に代わるということは考えられない。

もっとも第1外国語であった英語とは、私にとって第2外国語のドイツ語が入れ代わるということはいくらかあって、先日在日のアメリカ人と数時間話す必要があったのだが、「信頼できる」という語が思いつかずそれに当たるドイツ語のzuverl"assigという語だけが思い出されて困った。

後でreliableだったなと一日ほどして思いついたが、それはあまりにも遅すぎた。


林忠四郎氏の死

2010-03-03 14:43:13 | 物理学

昨夜テニスに行って帰宅後、風呂を浴びた後に新聞を見ていたら、林忠四郎さんが亡くなったと新聞に出ていた。林先生は天体物理学での巨人であり、何年か前にノーベル賞をとって先年亡くなったChandrasekarと同じように天体物理学の分野での権威であった。私は天体核物理のことを知らないが、畑中武夫さんの岩波新書の「宇宙と星」で林フェーズという言葉を知ったように思う。

畑中さんの「宇宙と星」の内容をまったく覚えていないが、この本はロマンをこの宇宙物理学の分野に感じさせられた名著であった。その後星の進化において元素がどのようにつくられるかについて岩波講座「現代物理学の基礎」シリーズの「宇宙物理学」の一部で学んだことがあるから、もう少し内容がわかるであろうか。もっとも、この名著「宇宙と星」ももう内容は古びていることだろう。

宇宙物理の分野においてもその進歩はすばらしいものがある。特にこのごろは暗黒物質(dark matter)が具体的に話題に上ってきているらしい。これは新聞とかテレビとかのマスコミを通じてかすかに知るのみである。ニュートリノのスーパーパートナーである、ニュトラリーノとかがこの暗黒物質の有力候補らしい。

素粒子の世界においてはこのスーパーパートナーの確実な証拠が挙がっているとは聞いていないが、天体物理においてはすでに超対称性が現実味を帯びているのだろうか。


注釈

2010-03-02 17:31:48 | 学問

学問だけには限らないのだろうが、昔からの古典にはその注釈がつきものだという。そして新しい注釈ができるとそれがその古典の新しい解釈というか読み方を与えると昨夜岩波書店のPR誌「図書」で読んだ。

そこで取り上げられていたのは、中国の古典司馬遷の「史記」であり、その注釈も多いという。これはしかし中国の古典だけに関係することではあるまい。例えば、物理では有名なファインマンの本とかにはその解説書みたいなものが、日本語では出ている。その質がどうかということはさておき、それは一種の注釈書であろう。

有名な朝永の「量子力学I. II」(みすず)では著者の名前は忘れてしまったが(これは以前のブログで話題にした)、詳しい計算をした本が出ている。もちろんこれは市販されなかったので、誰でも手に入れることのできる本ではないが、そういうものが出されているのは事実である。これはやはり一種の注釈書であろう。

私も本当に暇になって暇をもてあますようになったら、Pauliの量子力学の本の注釈というか詳しい計算をしたり、その解説とでもいうべきものを書きたいと思わないでもない。もっともこれは自分の趣味としてであってそれ以上をまったく意図していない。

ところがこの本には何十年か前に翻訳が日本でも出ているが、私がドイツ語で読もうとするとどうもドイツ語がしっかりとは分からないところがある。もっとも、これははじめの方を見た印象なのでずっと読んでいけばそういうことはないのかもしれないが、どうもドイツ語の読解力に自信を失うことはなはだしい。これは多分にドイツ語の特色の一ついわれる冠飾句の難しさによるものであろう。

だが、趣味としてのそういう読解をするような日が本当に来るのかどうかわからない。