神田上水のうち、関口大洗堰以降の人工的な区画についても、その成立年代を確定する史料はありません。「御府内備考」は「神田御上水 幅四間余 右は承応二年之頃掘割に相成候由尤白堀通しと相唱候」と、承応年間(1652~1655年)のこととし、「新編武蔵風土記稿」は、「此上水は御打入の後幾程もなく堀通せられし事は『武徳編年集成』等にも載たり、・・・・今の如く直流となりしは承応二年よりのことなり」と書いていますが、「寛永江戸全図」(1643年頃)や「正保年中江戸絵図」(1644年頃)には、今日確認できるのと同様の掘割が描かれており、開削にしろ直線的な改修にしろ、寛永年間までさかのぼるのは間違いないところです。
- ・ 「寛永江戸全図」 寛永20年(1643年)頃とされる「寛永江戸全図」(之潮刊)をイラスト化しました。右端の茶で囲んだのは水戸藩邸(現小石川後楽園)で、小石川(谷端川)も大下水化しています。
承応以前の二つの「江戸図」と、「明暦江戸大絵図」(1657年頃)や → 「寛文図」(1672年)を見比べると、直線的な改修がされているのは、神田上水を分岐した後の江戸川の方で、おそらくそれとの混同があったのでしょう。あるいは承応2年(1653年)は玉川上水の開通した年でもあり、それとの混同の可能性も考えられます。ちなみに、引用した「新編武蔵風土記稿」は小日向古川町にかかわるもので、同町は江戸川が蛇行しているところに、寛文元年(1661年)頃成立ました。町名はこの個所の江戸川の旧名によっています。
- ・ 小石川後楽園 水戸藩上屋敷(当初は中屋敷)内の庭園、後楽園は成立当初から神田上水の水を利用、明治に入り砲兵工廠用地となってからも、昭和初期まで工業用水として利用がありました。
確定的な史料はありませんが、関口以降の掘割が今日確認できるような形で完成したのは、3代将軍家光の治世が始まった、寛永年間(1624~44年)初頭とする説が有力です。関口の地名が文献に登場するのは寛永2年で、関口が大洗堰とかかわっていると考えれば、これも有力な状況証拠となります。また、上述の水戸藩中屋敷の成立は、「水戸紀年」によると寛永6年(1629年)、同年には家光が水元を井の頭池と命名したとの伝承もあり(「江戸名所図会」ほか)、これらは神田上水の完成後のことと考えられるからです。(神田上水の成立を寛永6年、ないし寛永6年頃とする文献も多く、都水道局のホームページでもそうなっています。)