今年も柿の季節。3年前、描く。
彼女とは一年間、とても仲良しだった。同じクラスで出席番号も近く、家もまあまあ近く、一年生の時は同じサークルだった。
学校ではいつも一緒、放課後も勉強する名目で教室に残っておしゃべり、下校も途中まで一緒、たまにはうどん屋へ寄ったり、ソフトクリーム食べたり、県庁のピロティや屋上の喫茶室で長話したり。
何を話していたかって。
他愛ないことです。女の子、男の子、若い先生のうわさ話、それから中学時代のこと、お互いの家族のこと。よくもあんなに話ができていたと、呆れるばかり。
違っていたのは彼女はすらりと背が高くて辺りを払う美人、私はすらりと背が高くなくて容姿は並み、何で仲良くなったかと言うと、彼女は新しいクラスで友達作り損ねて、フリーだった私に声かけてくれたとのこと。
私は昔も今も一人でも平気なので、そういう発想がなかったけど、確かにクラスに一人は親しい人がいた方が何かと便利。そして結局は楽しい。楽しい一年間だった。
私の通った高校は一学年千人近いマンモス校。第一次ベビーブーム世代。旧制女学校時代からの三階の校舎の上に継ぎ足して急遽四階建てに。高い建物のない時代、その四階の教室から北を見ると、海と本土と行き来する船がたくさん見えていた。
美人の常として、周りに男の子がわらわらと寄ってくる。中にはスペック高い子も。修学旅行ではいっぱい写真撮ってもらった。友達が目当てだけど、私も写り込んでいるという。。。あの時の男の子たち、どうもすみませんでした。
Q君は、最初は彼女の男友達の一人だったかな。いつの間にか私とも話をするようになり、学年の後半では結構気が合ってよく話をした。その頃の彼女はステディな彼氏がいて、一緒によく下校していたから、今思えば私と下校していたのは前半だったかもしれない。
高校生のデート、ささやかなものです。一緒に帰るのがせいぜい。私も雨の日は電車で通学していたので、バス通学のQ君とバス停まで歩いて帰ったこともあるけど、うーーーむ、詳細は失念。
それより、教室で、自分が書いたエッセィなど見せてもらった。小説も、短編だけど書いていたらしい。そんな話をしているととても大人になった気がした。
楽しい時期は長くは続かない。最終学年では進路別にクラス分けがあり、彼女は家業を継ぐ立場だったのでお父さんから県外の進学はまかりならん、婿を取って家を継ぐべしと言明されていて、就職クラスに。
Q君は理系に、数学、物理との相性が極めて悪い私は文系に。最後のころはQ君に数学をたまに教えてもらった。とても頭のいい人だった。何でもスッキリとわかるらしいのがうらやましかった。
友達はとても進学したそうだった。県内の短大でもいいから行きたいと、クラス分けが決まった後で変更したいと先生に言いに行ったけれど、結局は就職クラスになった。
私はQ君とたまに手紙をやり取りしたり、校内で会うとちょっと話したりという緩やかな関係。同級生の中には二人で相談して、東京なら東京、京都なら京都と同じ場所へ進学する人もいたけれど、私はそこまでの仲ではなく、いろいろな事情で今の地に。Q君は東京のさる大学に現役合格して、進学後も、帰省の時は会ったりする関係が続いていた。
地元銀行に就職した友達に、Q君と付き合っていると話のついでに軽い気持ちで言ったら、その後、その友達から会わないかと誘われたとQ君の話。
私はああそう、という感じ。その頃は、進学した私と地元にいる友達、次第に話が合わなくなっていた。Q君は一度会ったと後で話してくれた。やはりああそう、という感じ。
私は高をくくっていた。流れが逆に向くことはないというのが一つ、それと彼女の立場。婿を取って、その人に自分の姓を名乗ってもらって、家業を継いでもらう。初めは親の見習い。相手への要求がめちゃくちゃ高い。
私は男の兄弟がいるし、先祖から受け継いだのは広い農地だけ、親はその頃会社勤めもしていたけれど、大変に身軽。どこへでも嫁に行ける。
若いのでそこまで意識していたわけではないけれど、Q君は友達の相手としては不適格だったのでしよう。結局彼は大手企業の偉い人になって定年まで勤めあげ(これはまた聞きとネット検索)、都会の人になっているらしい。きっと元気で生きているはず。
最近、皇族の結婚から始まって、庶民でも家を継ぐってどういうことかなと考える機会が多くなった。友達は、高校の時から男友達からの手紙は父親が開封して中身を読み、娘が恋愛していないか監視していた。と聞かされた。
それは家業を続けるために。娘の人生よりは続いてきた家が大切。そう考えるお父さんだった。どう考えても人権侵害。でもそういうことがまかり通る時代でもあった。
結局、彼女は勤め先で条件に合う人に出会い、早々と結婚し、子供に恵まれ、仕事も広げ、ご両親も見送って・・・と言う顛末を前の同窓会で再会して聞かされた。
仲良くしてもらって有難うと私はお礼を言ったけれど、次に少人数で会うからと誘った時には彼女はとうとう来なかった。彼女なりに何か鬱屈するものがあったのかもしれない。
きょう電車に乗ってぼんやりそのことを思い出すうち、もし立場が逆だったらどうしたかなあとふと思った。
私が好きな人をあきらめて、家を継いでくれる人と一緒になり、友達が自由に生きているのを見る立場なら。
Q君を呼び出して会った彼女。大学の話を聞かされたと後で私に話してくれた。ありがとう。でも彼女の立場でそれ以上の仲には進めなかったのでしょう。彼女には親も家業も大切と言う長女の責任感があり、誰とでも付き合ってその人と結婚して地元を離れるというわけにはいかなかったのでしょう。
辛かっただろうなと、50年も経ってやっとそのことに気が付く私。若い時はそのことに気が付かず、休みに帰って会っても大学の話を無邪気にして、相手がどう思うかにまで気が回らなかった。ごめんなさい。
それでも付き合ってくれていた彼女の気持ちを思って、ちょっと泣けてきた。最近涙腺が緩んでばかり。
男も女も家を継ぐというのは辛い。分けても辛いのは、女ばかりの長女の場合。私たちが若いころはまだ姓を変えて養子に来てもらうという感覚。
家を継ぐという感覚がなくなった今は、男も女も生きやすくはなったと思う。それは社会の大半の人が勤め人になったことと対をなしているのかな。
名字を継いで親を見送って墓を守って。それがもはや形骸化した「家」の最後の機能。それもまたやがて解体していくのかもしれない。社会の変化に合わせて。
社会の流れに逆らえる人は稀。流れの中でいかに自分らしく生きるか、それがまあ順当かと思われます。結局は個人の幸せではないでしょうか。幸せになるために人は生まれ、幸せになるために泣いたり笑ったりしながら生きていくのではないでしようか。