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引き続き秋冬用マスク

2020-09-30 | 縫物いろいろ

Tシャツから2枚、昔の羽織から2枚。

年末くらいまではこれで大丈夫かな。

不織布のマスク、それしかないときは感じなかったけど、今となっては肌触りが悪く、チクチクする。それは私の感想ですが。

洗いざらしの木綿のニット地、絹の絞り地、どちらも肌に優しい。


今月はとうとう一日も休まずにブログの記事書いた。

この勤勉さをほかに生かせば、家の内外、もう少しすっきりし、私自身、もう少し身ぎれいになるはずだけど、人間は一番楽しいことをやってしまう生き物。

旅行中は予約投稿にしていた。

昨年の今日は消費税の8%最終日。葬儀用の黒いパールのネックレス買ったんだった。催し会場のショーケースの前を迷いながら行ったり来たりしていたら、今日までだからと値引きしてくれた。イヤリングもおまけしてくれた。

一年が過ぎるのが早いこと。

長い間、葬儀に出たこともなかったのに、それからもう二回も参列。一緒に山へ行っていたご夫妻、奥さんがなくなられて、ご主人が元気になってまたご一緒できるといいけれど。

新型コロナ、収まりそうで、長引いている。呉市でもクラスター発生。油断するなと言うことですね。身近で、コロナ禍で欝っぽくなった人、二名。一人は四月ころが一番ひどく、今はほぼ快復したけれど、もう一人は体調悪く、やる気が起きないとかで、大変そう。

私はアバウトな性格なので、かかる時にはかかるけど、まあ大丈夫だろうと、今は高をくくっている。近所の買い物だけで、そして車で遠くへ行くだけで、デパートとか繁華街はなるだけ行かない。

気の滅入りそうな時に落ち着く手段として、何か書くことはよかったと思う。

まだまだ終息の気配はありませんが、思いつめずに楽に、時には自堕落を自分に許し、乗り切って行きたいと思います。いつも自堕落、と言われそうですが。


コロナ禍で、どうでもいい付き合いはどうしても後回しになるので、人と人の関係が希薄になる。それはある程度仕方ないけど寂しいなと思う。

これも考えようで、その程度の付き合いだった、その程度にしか繋がってなかったのなら、そうなる運命だったと潔くあきらめましょう。

私たちの年だと、死別、離別、一人暮らしの人も10人に2人くらいはいる印象。

人は(夫は)いつも自分の思うように思ったり、動いたりはしてくれないけれど、いないよりはうんとまし。身近な人の関係を大切に、晴れて人に会えたり、遊べたりできる日を待ちたいものです。


今日はお天気不安定、明日こそいいお天気を期待したいものです。

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小さい秋見つけた

2020-09-29 | 日記

涼しくなったので、一日一万歩復活。

がんばるサルスベリ。

秋色が萌す。

新しいバス停。人家なし。誰が乗る?

便数少なめ。

いずれは片側二車線に?

大きなカーブは旧国鉄時代のプラットホームの名残。

ノブドウたくさん。

アシは水路の最後の名残。

ササもある。

年末には少しもらって鏡餅を飾りましょう。

忘れないように写真、上げておきます。

こんな感じに。

この本から拝借。

鏡餅は、ウサギに見立てて目は小豆、耳はササの葉、お餅は柔らかいうちに切って置く。

クマザサは奥山にしかないので、近所のこのササで我慢する。

昆布たくさん。スギの葉もないですねぇ。いや、島へ行けばある場所知っているって、材料揃えるだけで、年末に時間かかりそう。

でも楽しそう~

この溝はたぶん国有地。元は運河。

次第に狭められ、排水されて、20年くらい前は樋門の跡もあったけど、道路工事で撤去されたのでしようか。

目の前にムクノキ?

花がたくさんついている。

なぜ。

道路下。

クサギ?

鉄道線路跡。

日清戦争直前、広島駅から港まで、軍事物資を運ぶため、18日間の突貫工事でできた鉄道の線路跡。

向こうの方は以前は散歩コースだったけど、ゲートボール場に。

草抜きが大変そうです。草はすぐ生える。放置すれば雑木も生える。

二百年くらいしたら極相林になり、環境は安定するそうですが、それまで生きていない私。などと思いながら引き返す。

身近な、少し荒れ気味だけど、その分植物が勝手気ままに生えて元気のいい自然でした。

 

 

 

 

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型紙なし、手縫いの簡単マスク

2020-09-29 | 縫物いろいろ

用意するもの、布、ゴム。

着なくなったTシャツで作ります。

ゴムは姑様のところにありました。数十年前のもの?

縫い代込み、25㎝四方で作ります。

半分に折り、下を輪にして両脇を1㎝残して縫います。(待ち針のところまで)

開きはゴムを通す部分になります。

上の真ん中をつまんで逆三角形に広げ、両端をそれぞれ1㎝、真ん中を6㎝残して縫います。

四角に広げてゴムを通します。

結び目は外にしておきます。

ひっくり返して開きを縫います。

出来上がり。大きめのマスクになりました。

バイアス地なので顔によくなじみます。

これから寒くなるので、暖かい生地で作りたいと思います。


今日は夏の寝具と服を片付け、秋物を出した。ただし服は自分のだけ。

夫の服には手を出さない。

それにしても要らないものの多いこと。端切れ、バッグ。出してまたしまう。何しているのやら。

服は最近ほとんど買わない。

今夏は縫った服8枚。

内訳は生地買って縫ったワンピース3枚、浴衣地から4枚。ワンピース残り布2枚分で縫ったワイドパンツ1枚。浴衣はフリマと姑様の持越し品の反物で。

買ったのは薄地のブラウス。冷房よけと日よけに。スニーカー仕様のサンダル1足。

と言うことで、出かける場所がなくなって、衣服費は劇的にかからなくなったのでした。

って、ばあちゃん、何の自慢しているんだか。

秋も登山服と持っている服で何とかしのぐつもり。いざとなったら着物着る。目立つけど、すらりと背の高い美人なら着物姿も見栄えするけど、他に着る物ないので。家にいるときはいつも登山服。軽くて動きやすく、洗濯してすぐ乾く。

いよいよ10月。今年の秋は自粛しつつ、季節を楽しみたいものです。

 

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「ひとり暮らし安心術」石川由紀

2020-09-28 | 読書

歩いて6分、走って4分の(走らないけど)地元公民館で借りてきた。

タイトルのひとり暮らしは、都会へ初めて出た女の子へのアドバイスではなく、独り身で老い、やがて死んでいく世代に向けて、老後と死後のノウハウいろいろ。

私は今のところ夫がいるし、成人した子供もいますが、それだからこそなお、周りの負担を少なくする方法を知って大変参考になりました。

著者は1944年生まれ、一人で生きていく人たちの権利を守り、検証する会を立ち上げ、様々な相談に乗ってきた。その活動から考え実践してきたことが、この本には詳しい。

まず、人は次第にいろいろなことができなくなる。子供が成長していく逆の過程。それを素直に受け入れ、人に助けを求められる人間になろうと呼び掛ける。

そこのところで目からウロコ。

人に、子供に迷惑かけたくないと思うのは元気な時の強がり。誰しも弱って死んでいく。その事実の前に謙虚になり、上手に年取り、死んでいくことが大切。また制度はよく調べて自分からアプローチする。一人で難しい時は、友人などの助けを借りる。全体を貫くのはそういう姿勢です。


具体的な事例を挙げてみます。

生活保護の申請は誰かに同行を頼む。一人だと役所の言い分に呑まれて申請すらできないことがある。書類もらえなくても大丈夫、自分から意思表示した紙を置いてくる。コピーもとって持っておくといいのかな。

親類縁者には役所から問い合わせがあっても「助けられない」と言ってもらうよう頼んでおく。

生活保護をなかなか通してもらえず、「おにぎり食べたい」と言う遺書残して亡くなった人がいましたよね。

そこまで追いつめられると絶対誰かの助けが必要。普段から人間関係を大切に。

家事代行サービスを使うのもいいそうです。掃除、買い物、家事支援。今は業者もいろいろ。そして介護認定受けられたら、ケアマネさんと相談して必要な支援を申請。

入院も隣に声掛けして。黙っていていいのは家族のある人だけ、独り者は周りが心配するので知らせておく。

昔は入院すると、家族は洗濯が大変でしたが、今では衣類も全部借りられるので、洗濯ものに関しては楽になりました。姑様の何回かの入院も、それでしのぎました。使い捨て歯ブラシ、ティッシュ、タオルなども借りられました。

遠くの親戚より近くの他人と言います。親身に動いてくれる友達が必要とこの本にはあります。そのためにはいつもアンテナ張り巡らせて助けてくれる人を持つこと。そのためには自分も労力を惜しまない。私はそう読みました。

そういう面では、家族のいる私は謙虚さが足りないかもしれませんね。しかし、同世代同士でお互い気に掛けつつ、地域で生きていくのは家族の有無には関係ない。過度に立ち入らずに助け合う。それが大切と思います。

やがて老い死んでいく運命は誰にも平等。延命治療、遺言書などにも言及しています。葬式の心配はしなくてもいいそうです。全く身寄りがなくても、孤独死でも、自治体がきちんと葬式してくれて、遺族も探し出していろいろな手続きもしてくれるそうです。だからと言って自分ができることもしないのはよくないけど、逆に言えば華美な葬式や、死後のあれこれまで悩むのは無駄と言うもの。

ひとり暮らしなら、何もしないか、誰かに一括して任せる。その約束をしておく。それでいいそうです。

数年前、近くのアパートで孤独死がありました。近所付き合いをしない人でした。包括支援センターともつながっていないようでした。でも市がきちんと葬式して、ご遺骨は遠縁に受け取てもらえなかったので、無縁仏を預かるお寺さんに落ち着いたそうです。いっそすっきりして清々しいなと思いました。

読んだついでにきょうは夫とお墓の相談しました。

我が家は分家のそのまた分家で、山の一部を相続し、その一角にお墓を建てています。墓石には舅様の名前を刻んでいます。それでは他の人が入れないと業者さんに反対されたそうですが、姑様にはこだわりがあったのでしょう。自分はそこに入ると言っていたので、その通りにしてあげて、私は人の名前の墓になんかいりたくない、別に作ってもらうと言いましたが、樹木葬でもいいかなと。墓地は広い。

何がいいかな。松、モミジのような庭木ではなく、優しい感じの常緑の・・・いや落葉樹でも。果樹なら実ってみんなに喜ばれるかも。さて何がいい・・・って考えるのも楽しい。しばらく時間がありそうなので、ゆっくり考えましょう。


春ころからヤフオクに出した本がよく売れたそうです。

やがてみんな外で遊ぶようになるので、出すなら今のうちと夫に言われましたが、わざわざ時間作って本を下へ運ぶのも面倒なので、ついでに手に持てるだけ。

今回はこちら。

クリックで拡大。

次の持ち主にしっかり読んでもらえるといいですが。。。。

三島の自決から半世紀。。。直後に出た評論いろいろ。。。売れるでしょうか。

父親の「倅・平岡公威」によると体が小さくて弱く、徴兵されたけど、即刻除隊となったそうです。本人はそのことに触れてないけど、それが負い目となって天皇に関する観念を膨らませたのでしょうか。

「盾の会」の活動は、私は当時は理解できず反発もしていたけれど、死に至る一連の流れは、三島流の始末のつけ方。戦争で死ねなかった、戦争に参加さえさせてもらえなかった男としての、人間としての負い目かなと今になれば思うのです。

おやまあ、私の下手な解説など誰も気にも留めないでしょうが、本は次の人に渡ってほしいものです。

今ちょっとアマゾン見たら、親鸞は1円、源氏物語は9,000円代~26,000円くらいまで。この差は何?

ヤフオクで見たら源氏物語200円だった_| ̄|○( ノД`)シクシク…


今日ちょっと思い出したけど、前に眩暈がひどかった時、眩暈止めの薬、出してもらった気もするけど、結局、安静が一番。寝ていて治りました。

今はあの時よりずっと年取っているので、無理しないことですね。

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岩国の岩国山に登る

2020-09-27 | 山歩き

さて一週間前に氷ノ山に登りましたが、本日は岩国の岩国山に行きます。

岩国は城のある城山が有名ですが、錦川を挟んで向かい側の山は地元以外ではあまり知られていないようです。

本日はその山を歩きました。

8:10頃、自宅発。8:45錦帯橋下の観光駐車場着。¥300

橋は渡らず、バスセンター前の道を右へ。数分で神社に。神社の中通って裏の駐車場の先が登山口。

あの一番高いところまで、登山口から一時間の予定の山歩きです。

初め石段。

案内板。小さくて見逃した。帰りに写す。

初めは浄水場の上の縁を歩きます。

これはフェンスにカメラ差し込んで写したので高度感いっぱい。

浄水場は立ち入り禁止。

竹藪から・・・

クヌギなどの尾根の道へ。

取りつきだけ急で、あとはフカフカの尾根道歩き~

反射板の横から、岩国市街が見えます。

コウヤボウキ

コシダの道

小さな祠

山頂は展望なし。58分くらいで登ってきました。

標高は277.8m。

最近スマホになりました。あれっ?あれぇーー??

写真撮る人を私が撮る。

秋の花。ママコナ。

少し先へ行くと送電鉄塔のところへ出ます。

岩国市内の展望よし。川は錦川。

持ってきたファイルを見ます。ふむふむ。赤いリュックは小さすぎると言うので私がもらいました。

ちょっと山の手。

引き返します。さっきの反射板の横を通って・・・

11時過ぎには下山。

クズにノブドウ。

ツユクサ、ママコノシリヌグイ、ヌルボ、名前を知らない蔓性の白い花。

イヌタデに逸出したルコウソウ。

ムカゴ。

いただきます。新鮮な山芋の味。

ハスノハカズラ。海に近い山の縁に分布。ほかにノブドウ、カエデドコロ・・・いずれもマント植物。

ススキも穂を出し、秋の花粉症っぽい私。イネ科に弱い。


さて、問題はどこでお弁当食べるかと言うこと。

錦川が岩国城下で大きく蛇行し、というか川が蛇行して見晴らしいい場所にお城を作ったわけですが、内側は広い河川敷。河川敷が公園なのでそこへ行きます。

錦帯橋は有料で登山靴では歩きにくいので、一つ上の橋を渡る。

秋晴れのいいお天気です。

公園で自作のお弁当食べて、車で13時ころ帰宅。

隣の県とはいえ、とっても近い岩国でした。

涼しくなったので、来月も山へ行きたいものです。

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9/21 天橋立見て帰宅

2020-09-26 | 旅行

伊根の道の駅出るころは、駐車場待ちの長い列ができていました。やはり宿の方のアドバイス通り、早く来てよかったようです。同じ道を天橋立まで引き返します。

大きな神社横に車を置き、ケーブルカーに乗ります。

下が見える窓際の席~♪

ぐんぐん上がって・・・

上は展望台にレストラン。

昨夜泊まった宿が見えます。

あの台の上に上がって

両脚の間から写真撮るとこうなります。

している人も入れば、しない人も。

私、する人。夫、しない人。

再びしたへ降ります。食事処はどこも賑わってるので、とりあえず車で出発。

観光バスも停まれるような大きな店で、食事することにします。夫は蕎麦が大好き、蕎麦もあるので行く気になったのです。

前もってレジで注文し、支払いますが、こちらも列ができています。

私のすぐ前は14人の家族。車いすの女の子もいます。話ができないけど、私に握手求めてきたので、握り返します。高校一年生とのこと。オシメ当てているようでした。長い自粛に疲れて、皆さんで出かけて来られたのでしょう。

どちらから。大阪から。そうですか、私は広島。

女の子が何度も、誰か違う人の名前を呼んで握手してきます。

誰に見えたのかな。若くてきれいな人と見間違えられてたら嬉しい~

レジで支払う時に、本日はメニューを10種類に絞っていることがわかり、夫がっくり。

一番人気の(作るのが簡単な)海鮮丼にします。

これです。海鮮はおいしくいただきましたが、うどんは作って時間が経っていて澱粉がβ化しています。うどんには少しうるさい私。

讃岐うどんの店なら、客に出さずに捨てるレベル。

しかし、連休に、座って食事にありつけるだけでもありがたく思わねば。

で、ありがたくいただきました。

外の席です。天橋立が見えます。

肩の向こうにあなた海が見える~

食事終わったのが13時半。

そこから広島まで、ナビによると6時間半の長旅ですが、何とか道も間違えず、夜の7時過ぎには広島道西風ICを下りました。

寿司が食べたいと夫が言いだしたけど、こちらも行列だったので、夕食にうどん食べて帰宅。やれやれ。

お天気に恵まれ、念願の氷ノ山、伊根へも行けていい旅行になりました。

午後からの運転は、夫が「眠い、眠い」と言うので交替しますが、もうあまり長いドライブは二人ともきついので、これからは少しずつ、近場にシフトする予感。


おまけ。

22日、連休最終日はお嫁ちゃんが孫連れてきた。友達家族で極楽寺山でキャンプして、寒かったそうで。標高は600近く。そりゃ寒いわ。

女の子、男の子、お母さんたち、お父さんたちとテントが分かれ、女の子は結婚占いで盛り上がったと10歳の孫が申しておりました。

名前を使って片手で占うそうです。やってもらいました。

祖父母は「す」で終わるので、すぐ別れるそうです。

両親は「あ」で終わるので、愛し合っているとか。

そして「私は二十歳までに運命の人に出会うんだって」と四年生が。

「じゃ、もう出会っているかも」と言うと、「えええーーー」と身をよじって恥ずかしがります。四年生が。

そんなことより、しっかり勉強してスペックの高い男子のいる場所へ行かないと。とひそかに思う祖母ですが、口には出しません。人の子供なので。その年齢でしか楽しめないことを一つずつ味わいながら、大きくなってほしいもの。

社交的なお母さんのおかげで、楽しい遊びをいろいろできる孫。息子がうらやましがっているそうで。息子の母親は、しばしの遅すぎる反省。

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「国体論 菊と星条旗」 白石聡 

2020-09-26 | 読書

この最近、なるだけ新書か文庫本しか読まない。その心は、寝る前、電車の中、重い本は持ちにくい。

この著者の新作を広告で知り、それではなくて二年前の本を読んだ。当時ベストセラーだったそうで。

この本では扱う時代は明治維新から2018年くらいまでの150年、それを340ページの親書にまとめる荒業。論の展開が畳みかけるようで、落ち着いて読まないと振り落とされそうだけど、途中からそのスピードに慣れるとスリリングな話の連続で面白かった。

著者は社会学者で、本書も歴史書ではないので、いちいち史料を上げなくてもいいのだろうけれど、時には強引かなあと思うところもあり、いやそれは私の頭がついて行けないだけと思いなおして、頑張って読んだ。

本書の一番の特徴は、戦後の日本がアメリカに追随するあまり、支配されていることすら気が付かず、アメリカの都合のいい国になっているという指摘。

確かに。いつのころからか日米同盟と言う言葉が普通に使われるけど、同盟と言うからには条文があるはず。日米同盟条約とか。お互いの権利と義務を明文化して助け合うという類の。

あるのかもしれないけど不勉強にして知らない。あるのはその時代ごとの貿易や駐留米軍に関する取り決めだけ?こんなことでいいのかな?


まずは明治維新。欧米のような、市民が王政を倒すという意味での近代化ができなかった日本は、古代的権威を持つ天皇を国のかなめに持ってきて、近代国家を大急ぎで作る。統一国家になり、国の仕組みを作り、国力を大きくしていった明治期、世界情勢が比較的安定していた大正期、それから戦争へとつきすすんだ昭和期、天皇という生身の人間にして制度の中心を国民がどうとらえ、どう行動したか。面白かった。

二・二六事件の将校たちは、社会の矛盾を天皇はわかってくれる。天皇の周りの人間が悪い。とファンタジーを持ったけれど、情勢はそう甘いものではなかった。あれから戦前の日本の歴史は破滅へと向かっていく。国内外のその悲惨なことは未来永劫、記憶しておくべき。

ポツダム宣言を受け入れるとき、国体の護持に最後まで固執した政府。国体を英語にどう訳すか。天孫降臨、三種の神器、万世一系、天壌無窮などという言葉は一切関係ない。日本人の持つ国体概念を、連合国側にどう説明するか。

もう時間がない。

連合軍は沖縄を占領し、本土に原爆が二発落とされ、連合国軍は九州を伺う情勢。

そこでまだ天皇をいただく国を保持したいと頑張る政府。連合国からの回答は、天皇と日本政府は...shall be subject to...連合国最高司令官...とあった。

早期講和、本土決戦回避をめざす外務省はこの部分を「制限されるだけ。国体護持は可能」と解釈。本土決戦の建前から離れられない陸軍は「隷属する。これでは国体は破壊される」と抵抗する。

回答の末尾、連合国によって日本に平和的な政府ができたときには、統治の最終形態はその政府が決めるとあるのに日本側は望みを託してポツダム宣言を受け入れる。その間のやり取りがスリリングだった。

今の時代から見ると、今の時代に生きる私からにすれば、そこまで国体にこだわるのはなぜ・・・と思ってしまう。天皇制が日本人のアイデンティティにまでなっていたと思うしかない。しかし、それはまあ何と窮屈な、すべての不平不満、社会の矛盾を吸収する、支配する側取っては便利な装置。

で、歴史的事実を私たちは知っている。天皇制は形を変えて残っていったことを。そして、この国の戦後がずっとアメリカの世界戦略に振り回され、その一端を担う国となっていることに。

仕方なかった、それが生き延びる道という考えかたもあるけれど、西側の(この言い方も古いけど)国でも、カナダやドイツなどはもう少しアメリカにたてついている。骨のある政治家がいる。日本は次の首相が誰かもアメリカに事前に知らせている。首相が選挙でえらばれるなんて幻想。それは今回のことを見ても誰でも感じること。

しかしと東西の冷戦もとうに終わり、日本はこうアメリカ一辺倒ではまずいのではないかと思う。いいように使われて、いざとなったたら助けてもらえないとならないように、先を見通せる、理念を言葉で語れる能力ある指導者が出てこないものかと、思う。

今、北朝鮮の脅威が言われるけど、アメリカの力をもってすれば北朝鮮をつぶすことはそう難しくはないと思う。北朝鮮があるのは、アメリカにとっても都合がいいから。そう思うしかない。韓国や日本の危機感をあおり、アメリカの都合で動ける国にすることかな。

その意図を汲み過ぎて「圧力を」とばかり言っていた政権は、拉致問題なんてはなから解決する気がなかったのでは。

今の総理大臣が官房長官時代、沖縄の前知事に「私の言いたいことが分かってもらえましたか」と言う問いかけに「戦後生まれなのでわからない」と答えたそうな。分からない、考えられないは頭がないのと同じこと。分からないなら、その後考えたのでしょうか。今の政治のことはここではあまり話したくないのですが、しっかりしていただきたい。

近くの国々とどう平和的な関係を築いていくか、外交はそれに尽きると思う。日本だからできることもあるはず。アメリカの言いなりでは、この国の将来は危うい。


本書の中で、再び朝鮮半島有事があると、日本の経済も復興すると考える勢力があると書かれてますが、本当ならとんでもないことです。

資本はそこまで強欲なんでしょうか。朝鮮戦争のころと今では違う。どんなに貧しい国になってもみんなで助け合って、戦争だけはしたくない。それが私の願いです。戦争したらもっと貧しくなりませんか。いや、戦争で儲ける人はそう望むのでしょう。

それと別姓婚を、何の実害も受けないのに反対する層がいるのは、男女同権に道を開き、ひいては女性天皇を容認することになるからだそうで。

その結びつきはにわかには実感できませんが、やがて女性天皇に抵抗がなくなるだろうということはわかります。

私個人としては天皇制は制度の内と外にいる人を人間として疎外する、過去の遺物と思います。皇族で結婚問題が膠着している人がいますが、人さまの結婚、関係ない人間がなんであれこれ口出しするのか、全く理解できません。結婚させてあげましょう。

って私も口出ししているけど。好きな人と結婚するのは基本的人権の根幹をなすもの。

前の天皇も天皇辞めたいと言って、法律作ってもらってやめていきました。あの方は被災地などに積極的に出かけて交流し、それが使命と思っていたことでしょう。年取ってできなくなる。その姿を見せたくない。制度の内側の人として、時の政権と距離を取りつつ、国民が喜ぶことをして、結果として制度を続けていきたい、それが国民の為にもなると思っていたのでしょう。

それと天皇がなくなると殯もがりの行事があまりに重く大変だったと、「お言葉」の中にありましたよね。天皇制にまつわる儀式は明治になって復活したり、創設されたのも多い。近代以前はもっと簡素だったはず。権威づけられたそのことが当事者の重荷になっている。

男女別姓でも、女性天皇でも、何が悪いのと私は思いますが、男性が女性の上でないといけないと考える人がまだまだこの国にいることでしょう。でも女性が生きがたいからこそ、結婚が少なく、子供も少ないという側面もあるのでは。

一冊の本からいろいろなこと考えました。

余りパソコンの前に座らない筈が、読んだ本の感想言う人もなくて長話。失礼しました。


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やはり自生ではないようで

2020-09-25 | 日記

最終氷期から温暖化していく過程で、西日本のニッコウキスゲは消滅していったそうですが、わずかに雪深い日本海側の、木が生えない岩場の、土のある場所に残っているのが発見されたそうで。

こちらその論文

https://www.jstage.jst.go.jp/article/bunruichiri/46/2/46_KJ00001079104/_article/-char/ja/

伊吹山にもあるそうですが。そういえば昔伊吹山へ行ったとき、山頂付近で見たかな。いや、見ていない。。。。記憶あいまい。

2006年9月初め 伊吹山山頂付近 イブキトラノオ 

花、花、花・・・人、人、人


京都大学芦生演習林・・・以前社会人対象に現地のフィールドワークがあったのを記憶しているけど、現地集合だったかな。たぶん車でしかたどり着けない。

でも深い森を歩いて珍しい木や山野草、見たいものです。

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京都府伊根町のニッコウキスゲ?

2020-09-25 | 日記

京都府のレッドデータブックを見ると、ニッコウキスゲは絶滅危惧種Cに指定されているようです。

http://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb//bio/db/flo0544.html

南丹市、美山付近が分布の西限。

伊根町で見たこれはニッコウキスゲに見えますが、周りはアジサイなどがある、人の手の加わった場所。

落ち着いて考えれば、野生ではないかも。

山では梅雨明けすぐに咲き、お盆にはほとんど見られない。ましてや9月。

平地なら9月でも咲く?

誰かが植えたのかもしれませんね。鉢植で、私も昔、買ったことがあります。翌年は芽が出なかったけど。

私はニッコウキスゲはせいぜい長野県付近までの高い山にしかないと思い込んでいたので、京都府に分布しているとは驚きでした。一つ勉強になりました。

新しい分布の発見なら嬉しいけど。アジサイと一緒だからやっぱり誰かが植えたのかしらね。

残念。

2011年、日光までニッコウキスゲ見に行った。

https://blog.goo.ne.jp/samubuto/e/727b6c2d4a7e0005efc8e71a651d93d9

ニッコウキスゲ、好きです。真っ黄色なキスゲはもっと好き。

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私のパソコン歴と健康への自戒

2020-09-24 | 事件、事故

今みたいにSNSが充実する前は、個人の情報発信はホームページが主流でした。

タグを駆使して作るのは上級者、プロバイダーのサービス使ったり、専用のソフトで作ったりしていました。

私がホームページ始めたのは2003年6月18日。

1980年代に富士通のパソコンに松というワープロソフト入れて小説書いていたけれど、文芸誌に二作載せてもらっただけで、あとは自然消滅し、そのうちパソコンも捨てた。

1996年から山歩きと植物観察の会に参加。会報任されてから、今度はノートパソコン買って毎月作っていた。

どうも私はどこへ行っても会報やホームページ作る運命にあるらしい。どんな偉い人も運命には逆らい難し。まして凡人においておや。

しばらく離れていた間に、ウィンドウズが便利なことに驚く。経費帳、給与計算など、エクセル使うと集計が楽。それまでは手書きの電卓で。死ぬ思いでした。また小説書いていたころはパソコンはワープロとしてしか利用してなかったけど、ネットにつなぐと検索でいろんな情報が引き出せるのが面白かった。

それから器の絵付けに出会い、先生呼んできて公民館でサークルを立ち上げ、ついでに宣伝にホームぺージも作った。

その頃は手作りのサイトが主流、画像掲示板もつけると、ページのレイアウトから掲示板の管理から時間がいくらあっても足りなかった。

転送がまた大変。パスワード入れて毎回ネットに上げて、レイアウトが気に入らないとまた延々直したり。

でも、ついはまって午前四時ころまですることも。目が悪くなり、動かないのでたちまち太った。これが第一回の不調。2004年頃。

続いて2006年頃。このころは被爆証言を聞いて本を作る活動していた。被爆の話は広島ではあふれているけれど、地元公民館のサークルでワープロ入れるボランティア探していると知り、我が地区ではこれは私の担当、私以外誰がすると参加したら、ワープロ入力だけではなく、インタビューのテープ起こし、その他あれこれ、ついでにホームページも担当になって忙しかった。

被爆者と喧嘩したのもこのころ。被爆者の地名の思い違いをおたずねしたらいきなり怒られたり、すでに県編纂の被爆資料をあたかも自分が見たように話す人がいたり、触れられたくない過去も聞いたりしてしまい、なかなかに大変な作業でした。これは五冊出して解散。ホームページもプロバイダーのサービス停止でブログに移しているけれど、数年、見たことがありません。疲れ果てて、一部、写真が飛んでいるけれど、直す気力がわいてきません。

このころも大変だったけど、まだ若かった。

それから2008年5月の連休前、毎日夜更かししていたら、とっても体がだるくなって、旅行も行きたくなかったけど、九州の途中で、下関の唐戸市場で握りずし食べたら、ものすごく気分悪くなって、博多のホテルでは何も食べられず、おにぎり食べてお茶飲んで窓へ近寄る気力もなくて、どんたくも見られずに、横になっていた。翌朝、有田へ行く夫と別れて新幹線で帰宅。1日寝ていたら何とか治った。

2012年頃、このころも何をしていたのか夜更かしの連続。そのうえ、母が団体旅行で広島へ来て、呉の大和ミュージアムで離団して我が家に来ると言うので迎えに行った。寝不足の中、緊張して運転したせいか、翌朝は起きられないほどの眩暈。

母は心配していたけど、予定通り帰っていった。

これは半年のうちにもう一度あり、次の時が特にひどかった。

ちょっと頭を上げると眩暈がして起きられない。

寝ていても天井の一部が落ちてくるように見える。実際には落ちてくるはずないので、途中で止まる。まるでモグラ叩きのモグラみたいに天井が、あちこちから迫ってくる。それを見ていると平衡感覚が崩れて、自分がぐるぐる回る畳の上にいるような気分の悪さ。

ちょっと頭上げると吐き気がして、すでに絶飲食状態なので吐くものもなく、それでも頭低くしてパソコンに向かって、以前のブログ更新していましたね。なんでと言われても、それが数少ない自己表現だったから。

点滴してもらったのかな。

忘れた。

電解質のソルデムを500くらいしてもらったかもしれないけれど、点滴の悪いところは片手が使えないこと。ゴロゴロと点滴台引いてトイレ行ったりしても邪魔くさいので、結局一回だけでやめて、あとは黒砂糖嘗め嘗め、ウーロン茶を吐き気がしない程度に少しずつ飲んで、命をつなぎました。大げさな。

ちょっと頭を上げるとたちまち眩暈がして、そのことを夫に訴えると「主人に対して頭が高いからそいうことになる。へりくだって頭を下げていたら治る」と、誠にありがたいお診立て。

「何も昨日今日、急に頭が高くなったわけじゃなし、そんなん原因と違う」と妻憤慨。

これはあてにせずに自分で治すしかないと安静にしていたら、3日後には何とか治りました。

その頃の新聞記事に、三半規管の中の何かがはがれて中で動くと、激しい眩暈が起きるそうで、起きるときに頭を右左上下とゆっり回転させて浮遊物を落ち着かせるといいとか書いていたように思います。そういうこともあるんですね。

最後の眩暈から7,8年。幸い再発はしていませんが、同じ姿勢で座ることなく、家の中でもなるだけ体を動かして、早めに寝ることを心がけています。

きょうはもうパソコンの前に合計で3時間くらい座っていたので、もう終了。

本当は先月分の経費を整理する予定でしたが、明日以後に。本当はこちらが優先なのに。うかうかしていると来月が来てしまいます。

お稽古事でも10年間、100万円かけて習うと人に教えられる技術が身につくそうですが、私はこの年で人に教えられるものもなく。機織りや、料理を教える人のブログ拝見するとつくづく羨ましい。今まで何をしてきたのかなあと。

普通に活動できるのは80歳までかな。あの若かった私が80歳になるなんて全然信じられないけど、60、70と来たのでやがて80になるでしょう。

80…どんな景色が広がっていることでしょう。

夕方、次男が来たので「親はいつまでも元気じゃないからね。あと10年かな」と話した。

おやおや書き過ぎました。もう寝ることにします。

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9/21 伊根の漁村を歩く

2020-09-24 | 旅行

天橋立から海岸沿いに北へ。伊根湾に面した伊根地区は古くからの漁港。

海に面した建物は、一階に海水を引き入れて船を保管、二階に人が住む独特の景観。

舟屋と呼ばれ、国指定の重要伝統的建造物群です。

宿を車で出て、Pに車を入れ、9時始発の遊覧船に乗ります。

一人800円。25分で湾内一周。30分ごとの出発。

出港してしばらくすると、向こうに舟屋が見えてきました。

湾に向けて、入母屋の家が並んでいます。

大型化した船は家の前に係留しているようです。

あちら湾の入り口の青島。湾を巡って今度は反対側の舟屋を見ます。

観光客がカッパエビセンを掲げると、カモメが寄ってきます。

こちらも大きな船は家の前に。

湾内は干満の差があまりなくて、船の出し入れには都合がいいそうです。


道の駅「舟屋の里公園」へ行って車を停めます。

湾内一望。

両側に集落があります。

湾内に仕掛けの網があります。すぐ目の前が漁場。きっと豊かな海なのでしょう。

駐車場の先の急な階段を下りて、今度は陸から伊根を見学します。

漁港では漁師さんが、掛け声をそろえて網を引いています。

海に生きる人。たくさん獲れたでしょうか。

手際よく。

右手の集落へ行きます。

公開している舟屋があります。見学料は200円。

刺し子の上着。

ヤフオクだといくら?と考えてしまう私。

昔は木の船で、道路まで引いてフナ虫を取り除いて乾かしていたそうです。

今は・・・合成の樹脂。

網を繕うための糸巻きらしい。

機織りのとは形が違うけど、こちらの方が糸が外れにくそう。

しかし、道具には使われてきた長い歴史があるので、これは漁網専用と言うことでしょうか。

家の先にびくを吊るしています。

確認しているのは観光客。

向こうに青島。

アイナメ、そのほか。よそで獲ってきて保管しているのか、ここに仕掛けているのか、それは聞き漏らしました。

道具と舟、コンパクトに整理しています。


この奥が見学できる舟屋でした。道の駅からは下りて右へ。天橋立に近い方の集落です。

家の前をきれいにするのは京都風。

漁村でもここは京都。眺めをみんなで大切にしています。

山肌にへばりついて蔵二つ。

カフェは開店前。所々で海辺に出られますが、それ以外は私有地。立ち入れません。

舟屋の構造だけ残して、海水が家の下に入らないように造り替えた家もあります。

路地のケイトウ。

大きな舟。

お祭りに使う舟です。これは木造船。

どちらか一か所だけ行くなら、道の駅下りて右、天橋立に近い方へ。

駐車場、観光案内所、カフェなどあり。


先ほどの漁港前を通って左手の集落へ。

こちらは観光客少なめ。民宿は多かったです。

漁協の倉庫のような建物。下見板に木枠の窓。木の扉。

駐車場が少ないので、天橋立は後回し、まずこちらへ来て正解でした。

お地蔵様。風化が進んでメイクしている。香川県の粟島でも化粧したのを見たことがある。あとでリンク付けますのでよかったら。

https://blog.goo.ne.jp/kawashima134/d/20150324

途中にある資料館はカフェにもなっていて、地元女性のグループが管理していました。

以前は、京都の業者の帯を織る作業所だったそうです。地元の人が働いていたとか。

刺し子。風雨に洗われて風格ある味わい。

ヤフオクでいくら?とつい考える私。

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j610296763

伊根の人たちは東日本大震災で被災した漁業者の(どこだっか、未確認)支援もしていたそうで、その展示もありました。道具など、持って行ったのでしょうか。

家の切れ目から時々海が見えます。

民宿入り口の浮き球アート。

こちらは観光客はほとんどいません。

道路をきれいにしているのが京都風。家の周りに要らんもの置いてない。花が枯れて雑草が茂った、割れて色あせたプランターなど。

みんなで街並みを大切にする気持ちが伝わってきます。

もう一つの見学できる舟屋。

こちらは遊覧船の営業もされているようです。

見学無料。お手洗いもお借りできます。

大きなモーター付き。

帰ります。

道端のお地蔵様が京都風。

子供たちの地蔵盆があるのでしょうか。

道端の・・・昼間しおれているのでキスゲの仲間?

冬は寒くなる場所かもしれません。続いて天橋立に戻って見学しますが、長くなるのでとりあえずここまで。

 

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氷ノ山から天橋立まで

2020-09-23 | 旅行

9/21 13時半ころ山を下りて、百キロ先の天橋立を目指します。

鳥取、兵庫を抜けて京都府まで。長いドライブです。

R482の林道を兵庫県に入ったところで、夫がカメラをポケットから落としたと言い始めます。ポケットにない、リュックにないと言うので、車に乗ったところまで引き返します。

なぜかカメラは助手席のシートの上に。気が付きませんでした。

よかった、よかった。で、約30分のロス。

林道は一本道で迷いようがないけど、狭くてカーブが多く、横に乗っていて緊張しました。

やがて最奥の集落が。畑仕事をする人、民家、小学校。また山道、今度は少し街が大きくなって郵便局や商店など。この付近は私が運転。ナビに言われるままに間違えずに、やがて最初のコンビニが。おにぎりとお茶で遅い昼食。おいしかった。。。。って小学生の作文みたいに。

駐車場にバイク旅の人たちも。みんな一斉に旅行はじめた印象。来月、東京の人達も参入して、もっと賑やかになることでしょう。

17時過ぎ宿に到着。

三階のベランダの向こうに天橋立が見えます。

農作業用帽子は夏の間愛用。マスクせずに顔隠して、髪型も隠せて重宝しました。もちろん旅行にも持参。って帽子一つの自慢話、失礼しました。

ベランダに出てみます。向こう天橋立。遊覧船が見えます。

隣は大きなスーパー。

飲み物は持ち込み禁止と館内あちこちに掲示してありますが、持ち込む人もいることでしょう。旅館にとっては恨めしいスーパーですが、便利な立地で泊まる人もいるはずなので何とも。

宿は天橋立が見える公園に上がるケーブルカー乗り場至近。便利な場所にあります。お勧めです。

遊覧船乗り場で。乗り方いろいろ。

初めはこちらを予約していたけれど、和モダンにリノベーション・・・だそうで、合わない気がしてキャンセル。でもこちらも満室のようでした。道路から室内がよく見えます。

天橋立は両側が海の松林。全部歩くと一時間。少しだけ歩きます。

砂州がつながって今の形になったのは明治期と、ごく最近だそうで。びっくりです。

何万年も前からあるのかと思った。

もうすぐ日暮れ。外海側は砂浜、内側は崖のようになっていました。

特別名勝。

掛け軸、ポット、テレビ、電話。

達筆。

食事は大広間で。お魚いろいろ。

カキのグラタンなど。京都風でおいしかった。

八時半から、天橋立の向こうに花火が上がる。

ベランダから見る。しみじみと秋の花火。コロナが終わって、またみんなで元の生活ができますように。

朝。

朝ごはん。

チェックアウトした後で、夫がお腹の調子が悪いと言い出して待っています。

伊根は駐車場が狭いので先に行った方がいいと教えられたので、気が気でありません。

複数で旅行すると何かと時間のロスがありますが、それはお互いさま。気長に待ちます。

伊根へは車で20分ほど。

前にも書いたけど、ニースからモナコへ行くみたいです。

地中海には島(半島?)はないけど。

途中、変な道に迷い込んだけど、何とか9時の遊覧船に間に合いました。

今回の旅行の目標。

喧嘩しない。

ケガしない。

道に迷わない。

初めの二つは無事クリア、最後もナビが古いので地図見て(これがまた古い)、何とか大きく間違えずに済みました。

山間の中国道往復で渋滞にも合わず、これが一番ラッキーでした。

長くなるので伊根はまた次回に。

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半沢直樹?

2020-09-23 | 日記
長男から絵が来た🤔
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氷ノ山(ひょうのせん)に登る

2020-09-22 | 山歩き

氷ノ山は鳥取、兵庫県境の1,510mの山で、中国地方では大山に次いで高い山。

15年くらい前、今年7月の二度、麓まで行きながら雨で断念、三度目でやっと登れました。

その分年を取っている。今回が最後のチャンスだったのかも。そう考えたら幸運でした。


鳥取側から昔の国越えの峠、氷の越までは急坂の連続。

芦生杉の原生林?

主に京都北部、雪の深い山に見られるそうです。

10年以上前に登った島根県の安蔵寺山には大木がありました。

https://blog.goo.ne.jp/samubuto/s/%E5%AE%89%E8%94%B5%E5%AF%BA%E5%B1%B1

枝が垂れ下がるのが特徴。

途中で北側の山が見えます。

山が深い。

54分で峠まで。避難小屋があり、兵庫県側の登山道と合流して右の山頂へルートが続いています。休む人多数。連休で子供も多い。

右側は兵庫県に下りる道。多分この付近が県境。

山頂の避難小屋が見えます。

あそこまで頑張ります。

稜線の道はなだらかになりました。

植生はブナとネマガリダケ。

明るい日差しが注ぎます。

10:21 山頂が近くに。一度下ってまた登ります。

振り向くと大展望が。兵庫県側のスキー場。

7月、あの麓の高山植物園などを見学しました。

山頂手前、こしき岩。あの左側を回り込みます。

こしき岩過ぎて登山道が右へ折れると山頂はもうすぐ。

がんばれ私。

着きました。時に9/21、10:59。登り始めから2時間31分かかりました。

連休で山頂は賑わっています。

南方面。

鳥取側

北方面。

手前鉢伏山、向こうの一番高いのがに7月に登った扇ノ山。

https://blog.goo.ne.jp/kawashima134/e/2d4642806066cb260e705259f4922e00

あの山もなかなかよかったです。

って、いつまでこんなことしているんだあ。そろそろ卒業の時期?

11:28 下山開始。ガマズミがもう秋。

下山途中、駆け降りる小学生に次々追い越される。年なので無理しない。人の通行の邪魔もしない。犬も頑張って登っていた。

12:38 氷ノ越まで下りてきました。

朝、広島県の三次から四時間かけて来たという年配男性は今から登るとのこと。

大勢の人でした。中高年は夫婦連れ、若い人は友達、家族などなど。

キャンプ場まで1.5キロです。あと一頑張り。

芦生杉。

旧伊勢道の遺構が残る。

歩きやすい。

13:35 やれやれやっと下山しました。

上山2時間21分

下山2時間7分

合計4時間28分。こんな山歩きはもう最後かもしれません。

一週間前、山口県の千石岳を、私は難なく登れたので油断していました。

夫は悔しかったのか、毎日仕事場の階段上がり下り、ウォーキング1万歩でこの日に備え、スイスイ登って余裕の表情。悔しい。

私は二度滑り、一度は木の根に靴をひっかけて転びかけたけど、何とか転ばずに済みました。

転ぶと痛いし、最悪、骨折。

涼しくなったし、少し歩かないといけませんね。反省しました。

この後、氷ノ山の北麓の林道を兵庫県側に下りて天橋立まで約百キロ。

深い山合いから山間の集落へ、集落から小さな町へ。最初のコンビニでおにぎり買って食べる。おいしかった。

天橋立までは交代で運転して3時間くらいかかりました。

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氷ノ山、登山口まで

2020-09-22 | 旅行

自宅発 19日午後0時45分。今から鳥取、兵庫県境の氷ノ山麓の宿まで、6時間かけて向かいます。

今回は三男ご愛用だったぬいぐるみ連れて行く。

めんどくさいので写真はこれだけ。

今からガソリン入れて高速に乗ります。

ルートは西風ICから広島道、中国道、佐用JCTから播但道、間違えて鳥取南まで行って下り、あとは地道で。結局5時間半くらいでつきました。

宿泊施設「氷太くん」は学校登山や野外活動、スポーツ合宿などに使われる施設。

標高は900メートルくらいにあり、涼しかった。

部屋は広く、子供なら10人くらいは収容できそう。

実は15年くらい前にも同じ宿に泊まり、氷ノ山目指すも雨で断念。

今年7月には湯村温泉前泊して登る予定がやはり雨で、急遽、扇ノ山に。

三度目の挑戦です。

高原はすでにススキの穂が出て、山の端に夕日の残照が。

明るいうちに到着出来て結構でした。

朝7時半から朝食です。待つ間、ベランダから遠くを見ます。

棚田がきれいです。

スキー場とスキー宿。

バイキングでないのでゆっくり食べられます。

登山用のお弁当も頼めば作ってもらえるようですが、昼過ぎには下山予定。

おやつ、ジュース、果物など持参。休憩時に小分けに食べる行動食でしのぐ予定です。

宿は若い家族連れと中高年登山者でにぎわっていました。

またバーベキュー大人一人3,500円が県の補助で2,000円引き、昼間はお客さん多いとのことでした。ベランダにはずらりとコンロが並んでいました。

高原でバーベキュー、いいですね~

お世話になりました。フロントは三階、部屋は二階でした。二人で2万円しなかったかな。国のキャンペーン利用。

山の斜面に施設は建っています。

子供たち、ここへ来てワクワクと楽しいことでしょう。贅沢な施設ではありませんが、広い体育館もついて合宿にも最適。

その楽しさを想像して、ばあちゃんもちょっと楽しい。

キャンプ場の登山者用Pは満杯で、道端の空き地に置いていざ出発。

ツリフネソウが登山口に。

セリ科の・・・ミヤマトウキ?

白いボックス内のポストに登山届入れます。

子供たちも続々とやってきます。

8時38分、いざ出発。まずは氷ノ越までの一時間を頑張ります。

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