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被爆証言集、更新引き続き

2021-06-29 | 戦争反対

2021年4月 元安橋たもとより


本文はブログに全部上げているのですが、表紙だけはプロバイダーのホームページサービスにそのままリンク付けていたので、サービス終了と共にリンクは切れるし、レイアウトはぐちゃぐちゃだし、さながら廃墟の如し。ガックリ。

ホームページビルダーというソフトを導入して(確か9,800円だった)作っていたけど、本当に面倒だった。ファイルをネットに上げるのに設定いろいろ。上がっていないこともしばし。容量が少なくてフリーズしたり。

それに比べたらブログはレイアウトの設定も簡単、写真もたくさん使えるし、極楽みたいなものですが、その楽なのさえなかなかはかどらない。

とりあえずは今年の8月6日を目標に頑張ります。


パソコン立ち上げると暗礁に乗り上げている結婚問題に関する記事がよく目に入る。

きょうは、親族の住むマンションの推定査定価格まで。ああいう記事見ると本当に気分悪い。書かれる方は書かれっぱなし、相手が相手だけに何一つ反論できない。大衆の劣情におもねるマスコミの人権意識のなさに、この温厚な(←どこが!!)私も、きょうは本当に腹立ってきた。

これは結婚の問題ではなくて、今後の皇位継承の在り方について、深いところでの意見の対立から来るネガティブキャンペーンだと私は思う。

この際、天皇制の是非はとりあえず横に置いといて、制度を存続することを前提とするなら、これから天皇になる人がほとんどいなくなることに、当の天皇家の人々が危機感を抱いているのではないかと私は思っている。

国民統合のために天皇制は必要と考えるならば、(私はなくてもいいと思う。何よりも嫁いだ女性への、男子を産むべきという抑圧がとてもひどい人権侵害と思うから)女性宮家をとりあえず作り、皇位を継承する人を増やしていかないと行き詰まるのは明らか。

でも女性の血筋が天皇になったり、ましてや女性が天皇になるのが受け入れられない人がいるんですよね。たぶん男尊女卑の考えから抜けられない人が、女性天皇が生まれると女がのさばるとでも思っているのでしょう。

昔は側室がたくさんいたし、明治以後は天皇は軍の最高司令官、大元帥でもあったので男性の方がよかったのかもしれないけれど、今は側室は世間に受け入れられないし、軍もないので女性でも全然いいのではないでしょうか。天皇になるのは男女問わず大変なことだけど。

天皇家からは何も発言がありませんが、女性宮家はたぶん天皇家の人たちの望むことでもあるのかなあと、一庶民が拝察します。

相続や、血統やそんなものに万世を貫く原理などはありません。前の時代の都合のいいところを、力を持ったものが都合よく利用しているだけ。

さる旧宮家の人、明治天皇のひ孫ということが売りでマスコミにももてはやされているけれど、私は当然、男系かなと思っていました。

そうではなくて明治天皇の皇女(娘さん)が、江戸時代かもっと前に皇室から出た宮家に嫁いだ、明治天皇からは母方の系統だそうで。知らんかった。私は男系だろうが女系だろうが、どっちでもいいけれど、ひ孫、ひ孫と触れ歩いて、あたかも男系でつながっていると人に誤解してもらいたいような言動の数々。

権威の中心にいる人は案外鷹揚に構えているんですよね。周辺にいる人が、その権威を身にまとって尊敬してもらいたがる。

なんかねえ、身近にもいませんか。自分の成績は地味だけど、進学校出たのを誇りにしている人。東大や京大行った人と同じ教室にいたことを、いまだに引きずっている人がたまにいますよね。そこしか誇ることないんかと突っ込みたい。

先日その人が、今回の結婚相手のおかげで女性宮家がなくなったと喜んでるそうで。ご自分だって女系なのに。それだからこそ女系が許せないのかも。心が狭いですね。元宮家の人として、本当に天皇家のことを思うなら、皇統が続く方法をあなたも考えたらいかがでしょう。

テレビ番組で「皇族に戻るよう要請されたらどうしますか」と聞かれ、満面の笑みで「お断りしますって」。あたかも自分にはその資格があるように扱われたのが嬉しくてたまらない様子。

男系を言うならばあの人にそんな要請があるはずもなく。そこまで遡るなら、資格のある人は何万人といるかもしれませんね。

人は分かりやすい言説になびきやすいもの。耳当たりのいい話を聞くときには、なぜこの人はこんなと言うのかな、許されている背景は何なのかと考えることも大切。


だいたい、別れて何年も経ってあの時のお金返せって、それは無理だと思う。

別れて何年もして、自分よりいい男と結婚するって聞いて腹立って、あの時のヴィトン返せって言うのとおんなじ。んなもの、返さんでいい。蒸し返す男が悪い。わざわざマスコミに言いに行かずに、直接連絡とればよかったのに。まあ、私はどちらでもいいけどね。

大体、人さまの結婚、いいとか悪いとか考えないといけませんか。口に出さないといけませんか。お相手の方が母子家庭だとか、貧しいとか、それを口に出すのははしたないというものです。

あなた様のお考えとは違うこともあろうかと思いますが、私があなたの考えを変えられないように、あなたも私の考えは変えられないのですから、コメントいただいても反映しないこともあります。あしからずご了承ください。

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被爆証言のブログ、鋭意更新中

2021-06-28 | 戦争反対

五年も放置していたなんて、我ながら呆れている。

元々はプロバイダーのホームぺージサービスで作成していて、表紙はリンクを修正しないままになっていた。

きょうは第一集だけ、何とかリンクがまわるようにした。

作業しながら、ひょんなことから被爆証言を聞くことになった日々を思い出していた。元々はワープロ入力くらいならと参加したのですが。


印象に残っている話いろいろ。

兵器廠(現広島大学医学部、歯学部、県警察学校の敷地)に学徒動員されていた方のお話。

ノー・モア・ヒロシマ

・・・爆風で一瞬で天井が落ち、振り向いたら今まで一緒に働いていた女の子のお腹の上に大きな梁が落ちていて、もう死んでいた。

私が思うに、想像しすぎかもしれませんが、淡い恋心を抱いていたことでしょう。お話の様子でそう思いました。どんな時代でも人は人を好きになり、その力で生きていけるのではないでしょうか。

・・・逃げる途中で、同級生だった女の子が倒れていました。「**くん、助けて・・・お水頂戴・・・」って言われても、私にはどうすることもできずに、逃げました。私はそういう人間なんです。

と、ここでいきなり男泣きに泣かれるのでびっくりして、話を聞く私もついもらい泣きしてしまいました。戦後何十年経っても、その時のことが忘れられないのでしょう。

小学校の先生が大やけどで家で寝ているのを見まいに行くくだり。

・・・先生はジャガイモのすりつぶしたのを体中に塗ってもう虫の息だった。それでも教え子の誰彼のことを心配していた。

他にも、似島で死体を谷に放り投げた話。

死体があまりに多く積み重なって、それを踏まないともう向こうへ行けないのです。怖いとも思わず黙々と作業しました。

またもう一人の証言は、姉が似島へ運ばれたと聞いて探しに行きました。

何日か前に亡くなり、名簿を作って番号を打ち死体は谷に捨てたと。それからもたくさんの人が死に、積み重なった下の姉の遺体の探しようがありませんでした。

比治山神社の塀の石柱にくっつけてバラックを建てて、住んでいた人の話。

お手洗いは?とお聞きしたらその辺りでしてました。

出入口は?別にそのまま。見られて恥ずかしいとも思わないし。寒いなと思ったらもう冬になりかかっていたので、手ごろな家を買ってそこへ行きました。

また別な方、焼け残った水道管の蛇口ひねったら水が出たので住めると思って、親父はバラックを建てました。三日後くらいでしたか。まだ地面が熱かった・・・


あの頃はまだ50代、あれから子供が結婚し孫もできて、今、当時お聞きしたことを思い出すと、いっそうその話が胸に迫ってくる。

リンクの修正、少しずつ頑張ります。

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アウシュビッツ日本人ガイドのこと

2020-09-19 | 戦争反対

今朝の朝日新聞に、アウシュビッツ(オシフェンチム)公式ガイド、中谷剛氏の紹介記事がありました。

読んで、3年前に見学した時の気持ちを思い出した。

https://blog.goo.ne.jp/kawashima134/e/cc465d911feedb324c8e712ee304a615

思い出すと、今も心臓が締め付けられる感じ。感じではなくて、実際、心臓がぎゅーと縮んで息苦しい。

見学した夜は、いろいろな展示の残像が頭の上でぐるぐる回って、ほとんど眠れなかった。

アウシュビッツ収容所入口

アウシュビッツが手狭になり、ビルケナウに第二収容所が。


楽しい施設ではありませんが、見てよかったと思う。

日本語ガイドの方に案内されて大変よく分かった。日本からのツアーでも中谷氏に当たらない場合もあるとのことなので。

集団で人が人を差別排除してどんなことが起きるのか、人はどんなことをしてしまうのか。世界中で忘れないようにしたいものです。

とは言え、日本人ははるばるポーランドまで行くのに、南京やハルビンの虐殺記念館や731部隊の記念館にはまず行かない。ツアーなどもない。

中国旅行のツアーに参加すると、友達と来ているような男性参加者の一部が中国人を(具体的には手近な現地ツアーガイドを)見下す態度をとるのできわめて不快。

日常生活でも、南京大虐殺なんてなかったと必死で言うおばさんとかいて、日本人は被害ばかり言うけど、本当に深く考えているのかなと思う。何も考えない人間の素朴な差別感情を草の根ヘイトとでも名付けましょうか。

遠くヨーロッパの地で起きたことに憤慨するのは簡単。しかし、身近なことに頬かむりしてはいけない。と気づかされたポーランドの旅でもありました。

感情的な言葉は排して、淡々と話されるその説明は深く胸にしみるものでした。死者をして語らしめよ。そう思いきっているような。

今日の記事では向こうでガイドになろうと思ったとありましたが、著作の中ではたまたまポーランドを訪ねて衝撃を受け、収容所にかかわる仕事がしたいと再びポーランドへ行ったとあった気がします。

いずれにせよ、中谷氏の末永い活動に期待します。

個人でも、メールで申し込んで案内を頼めるようです。

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快、不快はひとそれぞれ

2020-02-29 | 戦争反対

ああ、これですね。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200227-00472300-rccv-l34

先月発足した会の代表は、地元で教科書の活動もしている人です。

多くの人が不快に思う展示・・・って、ほとんどの人は無関心、関心あってもまあいいんじゃないのというスタンスと私は思います。

今の時代になってもまだ強力な、言葉にできないタブーがある。こういう言説が浮かび上がってくるたびに、昭和生まれの私は禍々しく思い出すことがあるのです。

子供の頃でしたが、気に入らない小説を出した出版社の社長宅に刃物を持って押し掛け、お手伝いさんを殺し、家族が負傷した事件がありました。その小説は絶版、作家も放浪生活に入ります。小さな出版社が特集の中で掲載したのをずっとのちになって読みましたが。

同じころ、社会党の委員長が演壇の上で刺殺される事件もありました。それを扱った小説も長らく絶版で、長い間たって、時代がすっかり変わってから全集に入れられたと記憶しています。

制度とは厄介なものです。いかようにも利用できる。私が思うのは、制度の中と外の人間を同時に疎外する制度は、今の時代には合わないということです。

中の人は、自分たちの存在意義を国民に寄り添うことで見出そうとしています。そうしなければ制度自体の存在意義がないと。自分たちが寄り添うことが国民のためだと。

外の人間はそれぞれでしょうが、私は、一つの血族をありがたがる限り、生まれによって人にレッテルを貼る差別やその他の差別もなくならないと思っています。

差別の行き着く果てがユダヤ人の大量虐殺でしょうか。2017年、ポーランドへ行き収容所跡見学。人はこんな恐ろしいこともできるのかと、慄然としました。

人は人を差別しないと生きていけないのでしょうか。人の知恵はいまだそのことを乗り越えていないとしたら残念です。

私のこの感覚は、たぶん生まれ育った環境にあります。

純粋農村地帯に育った私は、小学校高学年になり、図工や音楽の市全体の催し物に行くと、街の学校の子に差別の目を向けられました。

初めは何言われているのか理解できなかった。それから何か自分が劣っているように思えて嫌だった。と、今思えばそういうことです。

中学校へ行くと二つの小学校から来るのですが、街の子でも勉強できない子はいるし、お行儀悪い子もいるし、嫌な思いをすることはなくなりましたが。

それともう一つは、戦争に行きたい、行って国のために戦いたいと日記を書き残していた叔父が21歳で南方で戦病死(餓死)したことを知っているからです。

http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-date-201904.html

こちらの展示も考える会と同じ人の企画。

ものすごく不愉快でした。教育勅語が日本人の道徳感を育てた。とか、朝鮮は遅れた国だったので、しなくてもよかったのだけど近代化を手伝ってやったとか。そういうくだりです。

父母に孝行は古くからの徳目、教育勅語ではその延長上に天皇を持ってきて、いざとなったら国のために身をなげうって奉公すると話を広げていきますが、それは戦争に抵抗ない人間を作るため。その否定の上に戦後の日本は作られたのに、あまりにも時代錯誤です。

一民間人、一民間団体が余計なお世話、えらそげに言わんでほしいと私は不快感いっぱいでありました。

朝鮮人が日本人より劣っていると差別丸出しの展示もあったりで、こんなものを市の施設で展示できたものと、そちらに私は呆れました。

自分たちの考えに合わないものは圧力かけてやめさせようとする。一方で人に不快感与える展示は費用かからず安くできたと喜んで、ヘイトスピーチを垂れ流しにする。

矛盾していますよね。独善的だと思います。

人は人種、生まれ、そのほかで差別されない。それがまわりまわってみんなの幸せになると私は信じています。

どこの国の人も差別しない。そして、私も日本人だからということでどこの国の人からも差別されたくない。話はいたってシンプルです。

外部委員会つくるなんてもってのほか。事前検閲になりませんか。やめてもらいたいものです。それなら、昨年の展示も事前にチェック受けるべき。そうでないと片手落ち。

こういう場合は、たとえ少数でも声上げた方が勝ち。って、ことがことだけに、反対の声が上げにくいとしたら、それこそがこの制度の持つ闇の部分。

昨年、この展示の感想をこのブログに上げたら、何人かの全然お付き合いのない方からコメントいただきました。

コメントは認証制で、あなた様の貴重なご意見を反映しないこともあります。前もってご了承ください。同じ意見の人と話し合った方がいいと思いますので、どうぞそちらの方へ。

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ベトナムにおける「韓国軍従軍慰安婦」は山口敬之の捏造

2020-01-01 | 戦争反対

正月早々、こんなの見つけました。

https://nou-yunyun.hatenablog.com/entry/2019/12/23/171713

山口敬之はこれに反論できるのでしょうか。

ベトナムでは誰でも出入りできる民間の施設がたくさんあったので、わざわざ軍が作る必要もなく、またその証拠もないそうで。

先の判決の事件もそうだけど、これは国際関係に影響する大変なこと。

従軍慰安婦に関する政権の意図を汲んで、おもねたのでしょうか。

ジャーナリストとして終わっているとまで言われている山口敬之、ぜひそうでない証拠を新たに出して反論してほしいもの。名誉棄損として、訴訟に持ち込んでほしいものです。

コメントは認証制なので、あなた様の貴重なコメントを反映しないこともあります。予めご了承ください。

あーあ、情けない。

 

 

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映画「24時間の情事」を見る

2019-10-06 | 戦争反対

只今八丁座で上映中。

アマゾンより。

1958年日仏合作映画。原題は「ヒロシマ・モナムール」。

主演したエマニエル・リヴァは当時の広島の街を写真に写していて、10年以上前、その写真集発刊を記念してご本人が来広。その時は映画館であいさつもされた。私がこの映画を見たのはその時に次いで、今回が二度目。

私(リヴァさん)にとって広島は特別な都市で、今も強く印象に残っている。約50年ぶりにまた広島へ来て、周りの山の形だけは変わらないけれど、見事に復興した街の姿に感慨深い。と言うようなことをフランス語で話されたと思う。(通訳付き)

堂々とした、立派に年を取られた女優さんという印象。

本日は夫を誘うと行くというので二人で鑑賞。

ナチスの兵士と恋愛したフランスの少女、家族を原爆で失った広島の若い建築家、二人が出会い、戦争の記憶と向き合い苦しみの中から、生きなおそうともがく様子が、当時の広島を舞台にして繰り広げられる。

私が広島へ来たのはこの映画の9年後だけど、日赤病院、福屋、など町並みが懐かしかった。

今、平和公園内資料館の西隣は国際会議場になっているけれど、その前は広島市公会堂で、学校の入学式もここであった。当時はその上にホテルがあり、広島では数少ない、たぶんただ一つの西洋式ホテルだった。古い地元の雑誌に広告があって、一泊4千円、夕食2千円とかのぶっちぎりの高級ホテルだったらしい。

娯楽映画ではないし、こちらが気合い入れて見ないと、なかなか意味の分からない場面もあり、昨今の分かりやすくて楽しい作品の対極にある映画。

前回同様、静かに感動した。

隣の夫は一部退屈そうにしていて、昔はあんな映画が多くて、訳わからんでも我慢して見ていたという感想。

ヌーベル・バーグとか日本では鈴木清順などが最後だったかもしれない。

岡田英治の演技もよかった。テレビ草創期、刑事ものにもよく出ていた。

人生は有限、映画は永遠。最近合作映画と言うのもとんと見かけませんが、各国内向きになっているのでしょうか。

帰りは金座街でご飯食べて、歩いて一部電車で帰宅。

夜の繁華街歩くなんて久しぶり。店がだいぶ入れ替わっていた。いつの間にか広島のお上りさん。

 

 

 

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対馬丸生存者の講演を聞いた

2019-08-19 | 戦争反対

昨日の地元新聞に、対馬丸生存者の講演会の記事あり。こちらは資料展示の記事。

https://www.chugoku-np.co.jp/news/article/article.php?comment_id=561777&comment_sub_id=0&category_id=24

それで本日、午前中、孫が来ていたけど、午後は帰ったので、出かけました。

かりゆしの開襟シャツを着て、演者の上原清氏は85歳、小学四年生当時の体験をな生々しく語ってくださいました。

生存者はごくわずか、暑くて甲板にいたこと、木の筏ではなく、偶然、竹の筏に乗っていたことなどの幸運が重なり、6日の漂流の後、奄美大島の岩場に流れ着いたことなど、子供がよくそこまで耐えられたものと、本当に驚きました。

琉球大学卒業後は教職につき、今は語り部活動をしているそうで、本日も手弁当で沖縄から来られたとか。

著作もあるそうです。

対馬丸に乗る子供たちは、旅行などする時代ではなかったので、とても楽しそうに集まって来たそうで、どんなときにも子供は楽しさを見つける天才、そのことがいっそう悲劇を際立たせます。また一緒に運動靴を買って船に乗り込んだ幼馴染の女の子は、助からなかったそうですが、淡い恋心のようなものがあったのでしょうか。だからこそ、いっそう胸に迫ります。

護衛艦二隻は遭難者を救助することなく、残った船を守りながら長崎へ向かったそうで、なぜ、と疑問を持たずにはいられません。

アメリカへの恨みはないかと問われ、明言は避けておられました。基地がたくさんあり、アメリカの話を持ち出すと、今の政治への踏み込んだ話もしないといけない。体験談だけにとどめておきたいと言うお気持ちを感じました。

これは広島の被爆体験談も同じ。戦争は災害ではないけれど、非核反戦への道筋をどう考えるかは極めて政治的な課題。その場で結論の出るはずもなく、それぞれの立場で考えることかなとも思う。逆にそれが、体験談の限界だとしても。

死者のために、生き残った人が語らねば。その強い気持ちを感じた講演会でした。

展示は25日まで。立町電停すぐ、広島経済大学立町キャンパスです。

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