自粛期間になったころ、本通りのアカデミィの100円コーナーで購入。短編集というよりは掌編ばかりが23編収められている。
初めの「みちづれ」は、青函連絡船から若い日に身投げした姉の命日に、船に乗り海峡の半ばで花を海へ投げ入れる彼。船室でひっそりとした風情の老婦人を見かける。彼女は小さな筒状の包みを脇の下に持ち、船室から出て長く帰ってこない。
彼が甲板に上がる時すれ違ったその人は自分の母親に風情が似ていると気が付く。母親は生まれつきの病気を苦にした娘が自殺するという悲哀を胸に抱えて生きていた人である。
彼と老婦人の悲しみが同調したところで短い作品は終わる。
作者の「白夜を旅する人」には実体験に材を採ったと思われる一族の悲劇を、その底まで下りて行って掬い取るように淡々と描いた長編である。それは他の作品にも何度も背景として出てくるので、知っている人も多い話だと思う。
余談だけど、小川洋子「妊娠カレンダー」の芥川賞の選評で、他の審査員が絶賛する中でただ一人、「奇形児を産ませようとする話に、私は抵抗感を覚えずにはいられない」と作品の良しあし以前の感情を吐露されていた記憶がある。著者の来歴を思う時、それは正当な意見で、何を描いてもいいのが小説だけど、人を傷つけるのはよくないと私も思った。
それに輸入グレープフルーツの中の農薬だか防腐剤に催奇形性があるとしても、何個食べればいいのよと思った。それ、今は改善されたのかな。
話がそれました。
この作品群は、日常からちょっと離れた人間関係に遭遇した時、人が戸惑い、その言動の中についその人の本質が現れる。その場面をとても上手に、達意の文章で、切り取っている。
「ねぶくろ」は75歳のおむら婆さんの、正月どこへも行き場のない話。同居の嫁からは実家へ帰るようにと追い出され、実家は甥の代になって居場所がない。幼馴染の家に泊まることにしていたが、その家も息子が結婚して孫まで生まれ、布団の代わりに寝袋を出される。初の寝袋体験、さなぎのような姿になっても遠慮のないのが一番と除夜の鐘を待つ。
切ないですねぇ。面倒見てもらおうと、うかうか同居するなということですね。どうしても若い人の暮らしの都合に振り回されがち。私も絶対に息子一家とは同居しない。深い教訓を得ました。たまに触れ合うだけで充分。自分のお金は介護その他で使い切る。残れば遺す。
最後は、発表当時に読んだ記憶がある「じねんじょ」。これは生き別れの父娘が初めて会う場面である。店で待ち合わせた実父は実直そうな年寄りだった。まず何を頼むか相談する。「父ちゃんは?」と自然に口を突いて出る。
開口一番、父親は「怨みでもあらば、なんでも喋れや。」と言い、娘はかぶりを振って無言で父親と同じクリーム・ソーダを飲む。
いいなあ、この場面。離れていても肉親は肉親。一瞬にして親子の空間。いたわりいたわられ、許し許される得難い関係。
父親は土産に自然薯を持って来る。畑で掘ってきたという。先まで折らずに、丁寧に掘りだしたという。あっさり別れた後ですぐに、自然薯は下を向けて持たないと栄養が抜けると言いに戻ってくる。
若い時にももちろん素晴らしい短編と思ったけれど、今読むと一層、肉親のありがたさにウルっとする。それだけ私もいろいろな体験をしたということでしょうか。
そして最後にこの作品が来て、生きる勇気をもらえ気がして、全体がうまくまとまっていると思った。
下に書いた山田氏の作品もいいけれど、人の悲しみ、その中での生きる希望を書くのはこの作家の右に出る人はいないように思った。たまにはこんな作品読んでしみじみするのもいいと思った。なにしろ100円です。110円だったかな。110円で覗き見る人の世界のあれこれ。