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日々のあれこれ
 

台所道具は少なく

2018-10-21 | エッセィ

私は根がめんどくさがりなので、台所仕事は必要最小限だけ、調理器具があれこれあるのを好まない。

というか、狭い台所なので、道具は最小限。流しの上にものが出ているのもストレス、その都度、全部片づけるようにしている。

台所の三種の神器、三角コーナーと水切り籠、洗い桶けは20年くらい使ってない。どれもすぐ汚れる。汚れると洗うのがものすごくストレス。めんどくさがりには酷な作業。

食器と鍋の汚れはキッチンペーパーなどでよく拭き、タワー状に重ねて水を張っておく。他の片づけした後、洗ってタオルの上に伏せて、水があらかた切れたら、拭いて片づける。タオルは洗って干しておく。洗い桶は…使わなくなって初めて、使わなくてもいいんだと気が付いた。

野菜と果物のくずは新聞紙で分厚く包んで捨てる。匂いや水分の出るものは新聞紙で包み、ジュースなどの空きパックに詰め込んでガムテープで止めてゴミに出す。

家を建てた時についていた水切り棚はだいぶ前に外した。スポンジとスチールたわしも専用の容器は使わず、ぎゅっと絞って外に吊るして干してる。

ものが少ないと作業も簡単、空いた時間で何しているかと言えば…大したことしてないのでえらそげには言えませんが。


で、姑様の台所。

見るだけでものすごくストレス。汚いしものが多いし、私の苦手な水切り籠と三角コーナーはあるし。三角コーナーには丁寧に細かな穴の開いた専用の袋をかぶせているし(これは夫の考え)。

流し下は開けない。開けると怖い。鍋多数、古い調味料などなど。

ほんとは徹底的に掃除して捨てたいのです。でもまだ本人の台所だし、私の考えで片づけると夫の機嫌が悪いし、たまに来る義妹は、家の中は変えないで欲しいと言うし、どう考えても私のテリトリーではありません。

でも汚くて散らかった場所見るとテンション下がります。片づけてはいけないのでストレスたまります。

それは姑様のところへ行くときのストレスにもなってます。あーーーあーーー片づけたい。片づけさせせてーーーと老嫁絶叫。

いえいえ、人の振り見て我が振り直せ。自分のことをとりあえずはきちんと。片づけると元気出て来るし、今日も頑張りましょう。

 

 

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夏が逝く

2018-08-26 | エッセィ

八月も終わりが見えてきた。

日も短くなり、日脚は長くなって、そこここに少しずつ秋の気配が忍び込む。

今年の夏は格別暑く、気温ではまだまだ盛夏。子供のころのように、夏から秋へ毎日少しずつ移ろう、あの淡い感じがなくなって久しい。

夏、子供の頃の夏はなんであんなに楽しかったのだろうと、今も体の奥にその記憶があり、ふとした弾みに思い出すと、その頃の気分にいっしゅんにしてワープする。

めったに行かない、行けない海辺の親戚。

祖母の妹の嫁ぎ先ではなかったかと思う。私が小学校一年の夏にはもうその人はなくなっていたようだったが、祖母に連れられて、泊りがけでその親せきを訪ねた。泊りがけで行ったのはその一度だけ、六年生の時、急に連れて行ってくれることになったらしいけど、私は友達の家に遊びに行っていて、弟が行ったのだったか。。。。残念で、いつかまた行きたいと思いつつ、もう二度行くことはなかった。

その一回だけも、もう60年以上も前、細かなことはほとんど忘れたが、いくつかの場面は鮮明に今も覚えている。

親戚は小さな半島の中ほどで、石材業を営んでいた。電車を降りて30分くらいも歩いた気がする。道は海岸沿いの車道ではなく、中腹の砂利道で、松の木の間から足元に海が見えた。

親戚は大きな家だったかもしれない。私が祖母と寝た部屋は離れのようなところで、海に近く、一晩中海の音がしていた。

翌朝は近所の子供と一緒に浜辺で遊ぶ。珍しい草、砂浜の生きたヤドカリ、海に泳いでいる小さなフグは手のひらですくうとお腹を膨らませて逆さになるけど、砂で小さな池を作ってそこに放す。何匹も小さなフグを獲る。

その夜は港祭りだった。大人に連れられて、半島の先の方の港まで行く。漁船が大漁旗で飾り立てて集まり、花火もあったかもしれない。その夜は、私の叔母たちも来ていて、田の畔のようなところにしゃがんで、港を見下ろしていた。

今はもう亡くなった叔母が、結婚したばかりでまだ子供がいなかった、サソリがいたと騒いでいたけれど、サソリって四国のそんな海岸にいるはずがないので、なにかと勘違いしたのだと思う。

おしゃれで、活発で、かわいがってくれた叔母だったけど、70過ぎてすぐ、乳がんであっけなく亡くなった。宗教で治すつもりで、病院に掛かりそびれたのが私は未だに残念である。心の救いは何に求めても当人の自由、がしかし、がんの治療を民間療法やまして神仏に頼むのはどうかしている。

おやおや、懐かしい話をするつもりだったのに余計なこと思い出した。

ヤドカリをたくさん家に持って帰ったけど、当然、すぐ死んだ。死んだのは捨てて、空き箱の底に海と砂浜の絵を描いて巻貝だけを並べていた。

夏休みはまだまだ始まったばかり、塾もプールもピアノもなアーーーんにもない60年前の夏休み。

家族旅行もないけれど、親せきが多くて、いとこが多くて、いろいろな家に泊まりに行くのがとても楽しかった。

山の中、島の社宅、川の傍の家、大人は誰も遊んでくれないので、男の子の遊ぶ横で花を見て、木を見て、空を見て、家や納屋の暗がりを覗いて、親せきに家からまた歩いて別の親戚へ行って、水田と山の濃い緑に染め上げられるような夏休み。

昔がよかったと言うつもりはない。いいことしか憶えていないので。大人たちが一生けん命働いて、暮らしは少しずつ豊かに、社会は少しずつ便利に。

時代は逆を向いては流れない。流れないからこそ、何もない時代、工夫したり、少しのもので満足し、幸せだった時代のことも時々は思い出し、今の暮らしを反省したいと思う。

とりあえずはいらないものをクリックしないことですね。昔の年寄りはそんなことせずに、つつましく暮らしていた。子供だって、たまに出かけるのが何よりも楽しみだった。あの時代のつつましくも幸せな心!

それを忘れないようにしたいと思う。

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成人式のころ

2018-01-14 | エッセィ

娘時代の着物。小紋。遊びで家の中で着たことはあるけど、本当に着たことはない。

今、とっても地味な帯でも無理でしょう。ピンクの花がかわいすぎる。

普段着物なので母が縫ったはず。

母は秋から年末にかけて、毎年着物の仕立てのバイトをしていた。ある年、京都から来た新しい店が年末に工賃の支払いを渋るので強引に貰ったら、年明け倒産したと聞いた。

今回のことも、年末についに資金繰りがつかなかったのでしょうか。

着物着られなかった子たちが、着物姿を楽しみにしていた親御さんたちが本当にお気の毒。

せめてもう少し早く自己破産するのが最後の誠意じゃないでしょうか。当日じゃどうしようもない。かわいそすぎる。

昔はレンタルはうんと少なくて、晴れ着は自前が多かったと思うけど、ヤフオクもないし、金銭的にはとても大変だったと思う。別にドレスコードがあるわけじゃないけど、最近ではなぜか振袖ですよね。

私は京都の親戚の紹介で、西陣で産直値段で買ったのでとても安かった。母が仕立てたのかもしれない。親は成人式用にと思ったのかも。

がしかし、親の期待に反して成人式、出ていません。

ここからは言い訳。半世紀前は1月15日と決まっていたので、土、日でもない限り、実家へ戻って着付けして出席なんて無理。

私の周りのだあれも出ていなかった。話題にもならなかった。

もし頑張って出ていたとしても、中学、高校と友達のほとんどいなかった私、寂しい思いをしていたのではないかと思う。唯一の親友は就職して、職場の友達と出たと後で聞いた。

地元に残るものと、出ていくものと、すること、考えること、少しずつ違ってくるし、他に特に楽しいことがあったわけではないけど、特に行きたいとも思わなかった。

でも出てみたら案外楽しかったかもしれない。いやいや、一応県庁のある地方都市、大きな会場で誰とも待ち合わせの約束ができず、誰からも話しかけられずに浮いてしまっていたと思う。

やっぱり後悔はしていない私がいる。

東大の安田講堂の頃ですよね。もう思い出すにはあまりに遠いけど、暖房はコタツだけの小さな部屋で一人暮らし。いっぱいの自由といっぱいの時間。いろんな人と出会っていろんな経験をしながら、少しずつ大人になって行ったはず。

それが私なりの成人式だったのかもしれない。

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寒い毎日

2018-01-13 | エッセィ

毎日寒い。寒いので遠出はせず、家の中でできることをしている。差しあたっては税の申告の準備。

きようはよくはかどった。あとは少しずつまとめて税理士さんに渡すだけ。来週半ばをめどに頑張ろう。

昨年は大きな経費もなく、今さら大儲けはしなくてもいいから、平穏に日々が過ぎるのだけが願いであります。男が持ちつけないお金持つとろくなことない。私だって今さら欲しいものないし、質素倹約、質実剛健。と負け惜しみ言っておきます。

始めたころは電卓しかなくて、計算にはとても苦労したけど、Excel使うようになってからとっても楽になった。縦横がどうしても合わず、何度も電卓入れて深夜まで。息子にそんな自然数ばかりの計算で飽きない?と聞かれたもの今は昔。

これからもうんと変わるだろうけど、もうついて行けないかも。ついて行かなくてもいいんだけど。


納税準備が終われば何しようかな~のんびりしたいなあ~

最近は野菜がうんと高い。レタスなんてぜいたく品。

昨日、熊本産のトマトをスーパーで見たので買った。大2個入りで税込み147円と嬉しいお値段。温室栽培らしくトマトの味がやや足りないけれど、ないよりはうんとマシ。セロリも値段安定。バジルやらドレッシングやら振りかけてサラダにしてみました。

冷たいサラダに、かすかな春の兆し。春よ来い、早く来い。


 

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海の見える教室

2016-08-16 | エッセィ

 

 

教室

http://cc-library.net/010009775_free-photo/様よりお借りしました。


 

昨日、古いパソコンのフォルダの中から、10年以上前、自分のホームページに掲載したエッセィが出てきました。

それも今から約30年近く前、ある雑誌に寄稿したもので、今から読むと若書きのとても恥ずかしいもの。まだまだ娘気分が抜けてませんね。

恥ずかしいけど、ちょうど真夏だし、着物の虫干しするように、文章もたまには風を通してみましょう。お時間あるなら読んでみてください。


教室からは海が見えた。

四階の教室の北側の窓辺に立つと、まばらにビルが混じる低い家並みの向こうの、思ったよりもずっと近くに海が見えた。
晴れた日は青く、天気の悪い日はどんよりとなずみ、冬、一面に白い波頭の立つこともあった。

窓枠が外れかかってるのを最初に見つけたのはPくん。抜群の学力の持ち主だったが全然偉ぶるところがなく、化学の実験で作ったアンモニアを女の子にかがせ、大掃除の日には床に5センチも水をためたりと、年中いたずらばかりしていた。

気配りと根回しのQん。クラスを超えて人気があり、何をするのも物慣れて自信に溢れていた。
物静かな秀才のRくんは、エッセーを書き付けた紙を持っていて、そのうちの何篇かは休み時間に読ませてもらったこともある。

当時の親友はすらりとした美人で、男の子が自然と周りに集まり、私も何かとおこぼれにあずかったりした。
毎日、毎日、勉強の名目で放課後の教室に残り、結局はお祭り騒ぎで過ごす私たちを、若い担任教師は少々持て余していたかもしれない。

入っていたサークルは何十人かの大世帯で、電気釜を持ち込んでご飯を炊きみんなで食べたりしたが、五月だったので三日目には残ったご飯にカビが生えた。棚の上に放り上げていたお櫃は、それから一か月くらいして、持って来た本人が泣く泣く持ち帰ったと思う。

待ち合わせは繁華街の中心、一番大き書店の社会科学書の棚の前と決めていた。そこならどちらが遅れても時間つぶせるとRが言い出したのだった。

何か月ぶりかで故郷に帰ると、フリランツ、田園、それから名前も忘れたあちこちの店で、時間を忘れて話をした。
大学のこと、最近読んだ本のこと、サルトル、大江健三郎・・・・・小説を書き、寮で文集を作ったというようなことを、Rは決まって熱っぽく語るのだった。

陽が傾くと、街を抜けて海を見に行った。港を囲む突堤の先まで行くと、肩先を吹く風は強かったが、時折手を預ける花崗岩にはまだ日盛りの暑さが残っていた。
何度か行く頃には、海には秋の気配が漂い始め、夏は、そうやってあっという間に過ぎて行くらしかった。

1969年、私のいた大学でも、学生が全学ストライキをしていた。
身の周りにはさまざまな言葉が溢れ、自分の言葉を持たないとどちらへ向いても進むことが出来ない時代だった。ひたすら本を読んだ。自分の指針になるような言葉がただ欲しかった。

その頃、書くことの好きなRはよく手紙をくれた。そして、言葉が人にどれだけ勇気を与え、どれだけ残酷に傷つけるものであるか、その両方を教えてくれたのもRだった。

Rには、故郷に戻って教師をしていた頃、一度だけ会ったことがある。大学を出て最初の冬のことだ。何を話したかはもう忘れたが、別れ際に果物屋に入りレモンを一個買ってくれた。それから私鉄の駅でまた何かを言って別れたと思う。私は23歳になっていた。             

いつの頃からか、なだらかな下り坂となった自分の人生の、先の先まで見通せるような気がしていた。今日は誰と話しただろう。
挨拶と愛想笑いの繰り返しに疲れた日の終わりには、自分の胸のうちを思い切りさらけ出してみたかった。傷つくほどの言葉を聞いてみたかった。自分にふさわしい言葉を手繰り寄せ、生きていくことの意味を、もう一度考えてみたいと思った。。。。


うんうん、このころは育児疲れですね。深夜帰宅の夫にイラついていたのもこのころ。あちらお仕事、でも大人と話をしたかった日々。大人と文学の話がしたかったんだよう~ブログもネットもないし、友達に手紙書いてもみんな忙しくて返事くれないし・・・

このあと、あることで(同窓会ではなく)その頃のみんなと会う機会があった。ちょっと感激して、ちょっとウルッとした。

その時の話、Rくんは20代の終わり、故郷の街の喫茶店でお見合いしていて、たまたま私が同じ店にいたのを見かけ、焦ってお見合いどころではなかったという。私は夫と長男、私の友達でその店へ行っていた。

私は全然気が付かなかった。気が付いててももちろんあいさつしないけど、ユーミンの歌みたい。はい、よそ行き顔で通り過ぎるはず。その時には・・・きっと。


医者になった人、新聞社に勤めていた人も。そしてアメリカに長くいたR・・・みんな40歳近くになっているはずなのにどう見ても男の子としか呼びようがなく、高校を卒業して20年も経つことがどうしても信じられなかった。不思議な経験だった。

おそらくその人らしさというのは、17,8までに完成されるものなのだろう。あとは、誰もがその自分らしさに従って生きていくしかないのだ。・・・中略・・・

その日、会場でみんなと一緒に高校時代の恩師を囲むと、海からの風の吹きぬけるあの高校の教室が、20年という信じられないような時間を超えて一瞬甦るようでもあった。

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