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わが介護の日は遠く

2025-05-01 | 随想

白や薄紫の清楚な花が好きな姑でした。そんな花を見ると姑を思い出す。

画像はフリー素材より。


先日、BS1で、俳優近藤正臣氏の郡上八幡での暮らしをルポした番組があった。

奥様を亡くされて、以後自炊をしながらの一人暮らし。気負うでもなく、めげるでもなく、淡々と流れに身を任せて猫と一緒に暮らしている。

釣り仲間がいるので移住したらしい。

山の中の別荘風の素敵なお宅は、亡き奥様の趣味で整えられたものと思われます。生前と同じ状態にしているそうで、おーいと、たまに名前を呼んだりしている。

奥様は50代で脳梗塞になり、のちに認知症になって、それでもずっと家で介護していたそうですが、近藤氏は無理がたたって腰を悪くし、三度の手術の後、車椅子に乗るようになり(番組の中では回復して普通に生活していた)、やむなく施設に預けてそこで亡くなられたという話だったと思います。

三度の手術ですか・・・極限まで頑張られたんですね。男性は弱音を吐く訓練ができていないので、真面目な方ほどつい頑張ってしまうのかなと思いました。

これはいいことのようですが、体を壊すまでするのは避けた方がいいと私は思います。


姑94歳が2017年の秋、尻もちをついて腰椎の圧迫骨折をし、それがようやく治った2018年初め、今度は大腿骨の頸部を骨折して入院、手術、リハビリの後に春には自宅へ帰ってきました。

この時に要介護度は4、ケアマネさん、その他の人たちが施設入居を勧めてくれたのですが、自分の子供と思って世話をすると言ったのは夫。週の四日はデイサービスなどに通い、一日は昼間はヘルパーさんが来て、実質のお世話は土、日の二日間でした。

もう歩けなくなっていたので、朝は二人で隣の姑の家に行き、朝食を食べてもらい、デイサービスへ行く仕度。夜は私の作った食事を夫が隣の家に運んで、自分も一緒に食べる。洗濯とオシメ替えは夫が担当。会合などがあってオシメ替えができない時は私が変わる。8か月の間に10回くらい。

今こうして書いていて、介護保険と男も介護する社会の流れの中で、「長男の嫁」は昔ほど苦労しないですんだと思います。友達、親族との旅行も一泊なら、食事を作り置きして普通に出かけていた。

2019年のお正月明け、前々から腰痛持ちだった夫が大型ごみを出す準備をするうちに激痛に襲われ、全くお世話ができなくなって、急遽ショートステイに預かってもらい結局その施設でベッドが空いて特養での入所となり、1年ほどお世話になりました。後は脳梗塞で寝たきりになり、2021年秋、病院で最期を迎えます。

夫は以後ずっと腰が不調。腰を庇うあまり背中を傷め、圧迫骨折を一度。さらに不調に。でも仕事は続けています。もう海外旅行行きたいなんて思わない、仕事が楽しみと申しております。

家にいた最後の頃、「オシメ替えが大変」とぼやいていました。初めは本人が腰を上げたりして協力的だったのですが、次第に力がなくなり、体位を変えるのが大変だったようです。姑の当時の体重は41キロくらい。本当なら軽いはずですが、筋力の落ちた人はとてつもなく重いのです。

10キロの米袋4つを一度に持ち上げられないのと同じ。介護したことない幸運な友達が、41キロなら軽いと軽く言ったのには憮然とした私でした。

夫は無理しなければよかったと今になれば思いますが、自分で面倒みるという人を止めることができなかったのです。しかも「親はあんたがみてね。長男の嫁では当たり前すぎて誰も目に入らない。長男がしてこそ世間は感動し、お母さんも喜ぶ」と、姑の介護が始まる前から、ハキハキと自分の意見を言っていた私。

もちろん夫が仕事で行けない病院のお供などは私の担当。検査が思わず長引いて、院内のコンビニでオシメを買ってトイレで替えたことも。


 

昨年の秋、義妹が我が家に来て「(二年前に亡くなった義理)親の面倒見たのに主人が礼を言わない」と怖い顔して私に愚痴ったことがあったので、そういえば夫も夫の弟妹もこと改まって私にお礼などなかったと、忘れていたことを思い出し、以後義妹が来ると聞いただけで、気分は下がり、血圧が上がるのです。

義妹は義理親二人の介護を同時にする時期もあり、私よりずっと大変だったのですが、それは悪いことでも恥ずかしいことでもないので誇りに思って、自分に自信を持てばいいのにと思います。でも自分の妹ではないので、深入りはしない。

私は大したことしてないので偉そうには言えませんが、世の男性たちは妻のした介護は「自分がさせた→自分がした」と変換しがち。妻は初めからいないような透明な存在。

親が死んだときに妻に手をついて「有難う、世話になった」と言える男性は稀。我が夫も言ってません。その時言えなかったのに、後で言えるはずがない。そういうものと割り切り、自分の体が動かなくなるまでの間を楽しめばいいのにと、自分の妹なら言うけど、義妹なので深入りはしない。義妹はよく頑張ったと思う。そのことを自分の支えにして生きてほしいものであります。

私はもう何でも思ったことは言うことにしているので、「あんたの妹の愚痴は聞かない」と夫に宣言しています。すっきりしました。

産んだ子供は自分が育てる。でも介護は人それぞれ。幸運にも介護せずに済んだ人も介護される身にはなるかもしれない。介護の大変さを想像し、周りにそんな人がいたら積極的に声をかけてもらいたいと思います。一言に心が救われることがよくあったので。

息子が介護すると言ってくれたらどうするかな。気持ちは受け取るけど・・・苦労はさせたくないし、夫みたいに体を傷めてほしくない。まあ、その時に考えます。

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のぞみの自由席問題

2025-04-21 | 随想
先日、東京へはのぞみ号自由席を利用した。

私は指定席にが苦手。乗り遅れる心配で早くに目が醒めて、つい早くに駅へ行き、次々と列車を見過ごしながら指定の列車が来るまでを待つのがもどかしい。
 
それで、いつも自由席を利用。九州から来るさくらに乗ることもある。さくらは新大阪止まりなので、新神戸で少し待ってのぞみに乗り換えると、新大阪から先の自由席は余裕で座れる。
 
と、今までは快適に旅行していたのですが、最近のぞみの自由席がそれまでの3両から2両に減り、そのせいか東京の行き帰り、自由席は今までよりは混んでいた。
 
混んでいても私一人なので、席を探せば何とか空いている。隣の人に断って座らせてもらう。やれやれ。若い時は立つのもそう苦痛ではなかったけど、今はちょっと辛い。
 
2両になってから、自由席の雰囲気が殺伐として余裕がなくなった気がする。空いてるか聞いても返事がなくて明らかに不愉快な表情。それでもまあ座る。私も乗車券持っているので。
 
帰りは京都に途中下車、京都からホームに停まっていたのぞみに跳び乗って、空席を探す。先頭車両まで行ってもぎっしりいっぱいのお客さん。諦めてデッキに立っていたら、某外国からの親子三人の一家、一番前まで行って離れてはいるけど、三人分の席を確保していた。
 
そうなんだあ、遠慮することないんだと、私も車内を歩いて行くと三席並んだ真ん中にカバン置いている場所を見つけた。
 
「そこ空いていますか」と聞くと窓際の女性が黙ってかばんを足元に置いたので、「すみません」と断って座らせてもらう。夫婦の二人連れで、真ん中を荷物置き場にしているようだった。
 
こんな場合、悪いことしたかなと恐縮したり、相手に腹立てたりは一切不用、淡々と座ってればいい。それを私は某外国人一家の態度から学んだ。
 
東京へ行くには飛行機という方法もあるんですが、コロナ前に乗ったきり、あの時は夫がチケット手配したし。うーーむ、只今思案中。
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ブログの終了

2025-04-14 | 随想

gooブログ、終了だそうで。残念です。

21年前からの提供だそうで、私が自分のホームページと並行して始めたのは2006年くらいから。

20年近くの間に、たくさんの方たちと交流し、実際にお会いした方も二人、楽しいネット生活でした。

皆さんどうされるのでしょうか。もうやめる人、どこか別のところで書く人とそれぞれでしょうが、知り合った方たちとのお別れは辛い。今のうちによそでも書いて、心機一転、新しい出会いを待ちますか。

というわけで、被爆証言のブログ、またまた引越ししなければ。

もう続けなくてもいいのかもしれませんが、辛い記憶を話してくださった方たちの生きていた証として、私が管理できる間は残したいと思います。

20年前には被爆当時10代後半の人たち、話を聞いた当時で70代。その後あちらへ行かれた人が殆どでしょう。

当時は平気で文章に起こしていたのに、今はその経験が肌身に染みて感じられます。ちょうど今の私の孫と同じ年齢で被爆した人たち。未来のあったはずの子供たちが大勢亡くなったのを思うと堪りません。

肉親との別れの辛さも、当時よりは深く感じます。それだけ私が年を取り、経験を重ねたからでしょうか。この先ずっと、日本が戦争をしませんように、巻き込まれませんように。それだけを願っています。

写真は昔ティッシュで作った松茸。本物が買えないので。ガス火であぶりますが近いと炎が出て燃えてしまうし、難しいのです。

よい子はおうちの人と一緒にしましょうね。

この後、ティッシュ茸は実家へ送り、母が一瞬錯覚。そう、夫実家には昔松茸の採れた山があるのですが、今は竹藪に。

今年もタケノコ採りに行きますが、竹やぶの手入れをしないせいか年々生えません。残念です。今年に期待。

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ブログ、鋭意修復中

2025-04-11 | 随想

被爆証言集をネットに上げたブログ、一応日本語版のところは全部見直した。

4集が、特に写真、図表が落ちている。ホームぺージからコピペで編集。ホームページの消滅とともに文字のファイルは残ったのに、画像関係が消えたらしい。

コンピューターよく分からない悲しさ、こんなことなら初めからきちんとファイルを取っておくべきでしたね。ファイルは持っていたはずなのに、それも紛失。当時のパソコンも壊れて、記事の復元は時間かかりそう。


本日は消えた写真をもう一度撮り直しに行く。と言っても一部だけ。

これです。戦後、公的な機関が建てたのではなく、ここに属していた旧兵士の有志で建立したらしい。

広島市、県、あるいは広島の人達は原爆の記憶を継承するのには労力を惜しみませんが、それ以外の歴史はあたかもなかったかのようなふるまい。

もちろん、軍国主義を称揚してもらいたくないけど、近代の広島の、軍都としての歴史もきちんと残しておかないと片手落ちではないでしょうか。

原爆は自然災害ではない。物事には原因があり、結果がある。歴史の大きな流れの中で原爆被災をとらえ直す。そのような広い視点がこれからの日本人には必要ではないでしょうか。

「暁の宇品」の著者堀川恵子氏も軍関係の資料が本当に少ない、そのための記念館も作るべきとの講演会での発言でした。

被爆証言集の中のある人の話、船舶司令部では敗戦から占領軍が来るまでの期間、毎日、書類を燃やしていたとのことでした。日本各地、同じことをしていた話がありますね。もちろん、燃やしたという記録は残さない筈。

歴史の転換点ではこういうことは起こりがち。後世の人間はそれを残念に思います。

午前中なので逆光ですが、この場所に明治天皇が来たその記念碑。これは戦前のもののようです。

日清戦争当時、広島に大本営が置かれ、天皇も東京から移ってきます。この時は帝国議会の建物も急いで広島城近く建設され、政府の中枢機能も移動。広島はあたかも臨時の首都のような様相だったとのこと。

日本の近代の歴史の中で戒厳令が何度か出されています。いちばん有名なのは、二・二六事件の時ですが、日清戦争の時も港の周辺に限って発令された記録があります。日本が初めて外国と戦う(元寇は別として)。国を挙げての総力戦でした。

戦前、戒厳令を出せるのは天皇だけ。天皇大権の一つでありました。

 


ちなみに我が家には姑大権というのがあります。姑の犯すべからざる権力、権威で、過去に一度だけ発令。

バナナが傷むのを防ぐため、専用の道具もありますが、我が家では針金ハンガーを立つように曲げて、フックの部分にバナナを吊るしていました。

「お義母さん、ハンガーのバナナ貰っていいですか」と嫁ちゃん。

「いいよ。けど、ハンガーじゃなくてバナナスタンド」と訂正。

いゃあ、どう見てもハンガー、それを曲げたびんぼくさい道具。正式の名前には無理がある。それでも言い張るささやかな抵抗。それがわが姑大権であります。


話がそれました。

上の二つの記念碑の立つ場所は今は公園になっていますが、コンクリートの縁は建物の跡?

低い塀と石段は昭和十年代、物資が不足し始めたころの砂利をたくさん混ぜたコンクリ製、それは当時のものと思います。

皇紀二千六百年の年に建てられた記念碑。

田尻昌次の名前があります。陸軍運輸部司令官で、「日本には船がないので海外に戦線を拡げるのは無理」と東京の各省庁、軍に建白書を出し、軍務を解かれます。

しかし、歴史は田尻中将の心配したとおりになっていきます。

この船舶司令部、陸軍運輸部にいた有名な人としては先代の江戸家猫八。NHKの「お笑い三人組」の頃は原爆症で体調が悪く、画面に映らない時はセットにもたれていたと聞きましたが。たぶん徹子の部屋で。

丸山眞男もいたそうですが、原爆に関しては一言も触れていないとのこと。よく調べたらあるのかとも思いますが、言わない立場を貫くことが何かの主張になっていたのでしょうか。

しかし、原爆投下時、広島にいた人としての立場から、何か発信してもらいたかったと、私としては思います。

クルーズ船が来ています。これは小さい方ですが、いつ見てもマンションみたい。

近年、大きいのは宮島に近い廿日市に停泊することか多いそうです。

20年前の私は市内を飛び回って写真いろいろ撮っていたけど、20年の間にもすっかり変わったところもあります。日赤病院の被爆のモニュメントは電車通りから別の場所に移転したし。気候のいいうちに写真撮り直したいのですが、これはもう寿命との競争かも。

この後、被爆証言集のブログ、頑張ります。


来週は東京へ。移動はこの案内図が頼り。2023年、久しぶりに東京へ行き、ホテルの部屋にあったのを貰って来た。裏は英語版です。これ失くしたらどこへも行けないので、大切にしています。

先日の日本画展、絵葉書セットを無料で配布中。

手前上、奧村度土牛、下は平山郁夫、

二列目、上村淳之、上村松篁、奥田玄宗

三列目、杉山寧、山口蓬春

四列目、上村松園、横山大観

最後が前田青邨です。

斜めにしたのは光の反射を防ぐため。

日本画は季節を絵の中に盛り込むのも特徴かと思います。日本のたおやかな春の雰囲気を見て、こちらも気持ちが緩んで行く。

万事世知辛い世の中で、企業の社会に還元する文化活動に感謝。

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ブログのメンテナンスで胸が痛い

2025-04-06 | 随想

私はgooブログを4つ書いているのですが、長い間放置していた被爆証言集のブログ、その時の友達に17年ぶりに東京で会うので、読みやすいように体裁を整えています。

本日は2集を見直し、ファイルのなくなった、本文と直接関係ないカットは落とした。図表は元のデータを失くしているので、本のページを写真に撮って挿入する予定。

証言そのものは今は読みなおすことはないけれど、編集しながら、お話を聞いた時のことをまざまざと思い出していた。

元々は地元公民館の広報誌に、会が「ワープロ入力する人を募集している」とあったので、そのくらいならお手伝いできると思って軽い気持ちで参加。

行って見ると数人の会員、主に活動するのは3人くらい、気が付くとこの私も証言を聞き、テープ起こしをして原稿にまとめるということをやっていました。

ちょうど20年くらい前ですね。それまで断片的に被爆の話は耳にしましたが、長い時間をかけてじっくり話を聞くことはなかったので、その内容には結構衝撃を受けました。知っているつもりでしたが、実態はもっともっとひどいものでした。

「お水頂戴」という同級生の女の子を見捨てて逃げた・・・「私はそういう男なんです」と初老の男性が男泣きされるので、聞く私たちもついもらい泣きをしたことも。

極限の状況では人はどのように考え、動くのか。その事では多くのことを知りました。自分たちが本を作って世間に知らせるというのはおこがましい。私たちが被爆証言を聞くend userの側面もあったのだと今は思います。

自分の人生観が少し変わるくらいの体験でした。悲惨の極みで、人間の逞しさ、美しさが花開くのを知ったような気がしました。半面、その体験から何を考え、今のそしてこれからの日本の在り方をどうするかという聞かないという会の方針に、私自身はやや物足りなさも感じました。

原爆の被害が大きな自然災害のように語られ、それでお終いではいけないと思います。そこからは、人には思いやりを持ち、友達を仲間外れにしないという当たり障りのない結論が導き出されがち。

個人としてできることはとても限られていますが、どうしたら戦争をしないで済むか、学び、考える。それしかないように思います。


平和だからこそお菓子も買える。

明日の茶話会用。おかき、イチゴ大福、プリン。

自宅用。

頂きます。

舟入のダイキ隣、シャトレ―ゼで買う。私はもう車に乗らないので、夫に連れて行ってもらう。

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器用ではないけれど・・・

2025-04-06 | 随想

四月になれば暇になるはずが、引き続き忙しい。

自分の用事もあるけれど、人の世話も能力もないのについやってしまう結果、毎日あっという間に過ぎる。

この年なら、もう少しゆっくりしたいのですが、全然時間がありません。

自慢かな・・・愚痴かな・・・まあどっちでもいいけど、昨日はほぼ一日中、別のブログの作り替えをしていた。

以前、ある活動をしていて、期間中に本を5冊出した。同じ内容をネットでも公開することになり、それは手を挙げた私が担当。自分が契約しているプロバイダーのホームページサービスを使っていた。もう20年近く前の話です。同時にブログにも上げていたら、ホームページの方はサービス終了。

それで今や本以外で読んでもらえるのはブログだけになった。これが誠に読みにくい。ひとえに私の不手際のため。素直に順番通りにすればいいものを記事の中で他の記事にリンク付けたりして複雑怪奇。

ブログの記事もホームページのコピペで書いていたら、サービス終了で画像のみ消えてしまった。元の記事と画像のファイルも・・・パソコンも突然壊れたりして何度か替え、CD=Rに残したはずのも・・・紛失。

私のいい加減な性格がこんな場合はうんと悪い方に出てしまう。もう直らないのかもしれん。

今月半ば、東京でその時の仲間に会うことになっている。みんなで頑張ったのに、私の不手際でブログが読みにくいのでは合わす顔がない。それでせっせと修復しています。

昨日は一冊だけ済ませた。あと4冊。期限はあと9日。できるかなあ~


初めはタイトルに続いて、

器用貧乏村宝、隣のほっこに使われる」という讃岐の諺を言うつもりでした。器用な人はついできない人の用事を引き受けて重宝されるという意味でしょうか。

でも器用ではなく、宝でもない私です。でもどちらかの岐路に立ったら、するほうを選ぶことが多いかな。その方が楽しいので。

この「ほっこ」というのは、讃岐の方言で馬鹿の意味で、古語の「おこ」から来ていると何かで読んだ記憶が。もしかしたらテレビ番組「探偵ナイトスクープ」から生まれた民間言語学の名著「日本全国あほバカ分布考」だったかも。

おこは源氏物語にも用例があるそうで。

をこなりの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典

すんごい、源氏物語の雅な言葉を受け継ぐ讃岐人。ほっこはさらにバージョンアップして排泄物を頭につけてク〇ボッコという言い方もします。

激しく人を叱責するときなどに。今は使われてないかも。

「おこ」は消えたけど、「おこがましい」の中に残っているし、尾籠の語源だそうです。いやはや、言葉って面白い。

明日もブログの修復頑張ります。

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(長屋の花見的)鏡餅を作る

2024-12-27 | 随想

近所のスーパー、今年はもち米の1キロを売ってない。5キロから。激高。そんなにいらんし。

で、鏡餅はあるもので作ることにしました。

用意するもの。

器各種。温泉宿から持ち帰った足袋型ソックス、白。

庭の波瀾、葉付きミカンは買った。

器にソックス被せ、残りは内側へ織り込んで出来上がり。

しょぼい画像ですみません。

上着に袖をつけました。

着物も縫いたくなって、長襦袢を出してみる。

小学生の頃の着物を嫁入りの時に母が長襦袢に仕立てたもの。

一度も着ないうちに身幅が足りなくなり、死蔵品に。

昔の子供柄。

人形の着物を縫うつもりで、昨夜、片袖だけ解いてみる。

戦後の物不足の時代・・・???

色はきれいだけど、生地がとても薄い。

しかも袷仕立て。袷の長襦袢、初めて見た。子供の着物を解いてつぎはぎなので、裏をつけたのかもしれない。

今、人形遊びの波が来ているので、時間を見て作りたいと思います。いつになるか分からないけど。


近所の公民館で、お正月に読む本を借りてきた。

白洲次郎、正子、小林秀雄の両方の血を引く人って・・・

私のような庶民とは全然違う感覚で生きていると思うけど、実生活では御縁のない人も本を通じてなら。

大原千鶴さんは料理番組でおなじみ、料理もいいけど、着物見るのも楽しみにしています。


本日、来年展示のキャプションと略歴案、ラインで送る。

皆さん、我が子供の世代。どこの学校出たか書かないといけないので焦った。

学校はまあよろしい。今となれば恥じることも、あえて誇ることもない人生の一つのエピソード。しかし卒業年度がぶっちぎりで昭和。いやいや、こういうオチがあろうとは。

しかし準備は、ほぼラインで済ませるけど、文化祭の前みたいなノリでちょっとだけ楽しくなってきた。


子供の着物で思い出したけど、我が実家の地方は、葬式も子供は晴れ着を着ていた。学校の制服もないし、子供の喪服なんてなかったので派手な着物着せていたのでしょうが、私はこのイレギュラーで着物が着られる葬式が待ち遠しくて、なんでうちは年寄りがいるのに葬式が出ないのかと、恨めしかった。罰当たりの子供です。

クラスの友達が「あすは葬式で休む」という時の晴れがましい顔。羨ましそうな級友たち。

学校休んで、晴れ着着て、親戚が集まって、大型バスを雇って斎場まで行く。マイカーの普及するまだ前の話です。遠足でもないのに、個人でバスを雇って乗るという特別感。

もしかしたら未婚女性は晴れ着着ていたのかもしれない。あそこにいい娘がいる、それを知らせるいいチャンスだったのかなと。想像ですが。

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「光る君へ」に於ける添い寝問題

2024-07-21 | 随想

先日のこの場面、場所の設定はどこ?と少し引っかかっていましたが、

こちらによると

考察『光る君へ』 | クロワッサン オンライン (croissant-online.jp)

物置ではないかとの考察。

なるほど。以前、友人さわと参篭したときの寝所は女性ばかりの大部屋だった。(そんなところへ忍んでいく道綱・・・あとどうするつもりだったのか。いやはや)

逢瀬の場所として、物置なら分からなくもないですが、向こう側が素通しで几帳から光が差し込んでいる。暗くては表情が分からないので、もしかしたら演出上の都合?

物置なので当然二人分の寝具はない。上の写真だと、下に道長の狩衣を敷き、私の記憶だと上にまひろの袿を掛けている。

よほど切羽詰まっていたんでしょう。

「それなら授かったのは2月でございますね」(byいと(まひろの弟の乳母にして今はまひろ家の侍女)

物置のフローリングの上に着ているもので身を包み・・・切迫感もどれほどかと。


でもねぇ、そんなに好き同士なら、今までに、いえ今からでも寄り添って生きることを考えたらどうかなと、今回は思ってしまった。

人の一生は短い。次はいつ会えるか分からないのにこれはもどかしすぎる。愛人でも何でも、立場はどうであれ、心の中では一番の場所にいる。それを目指す。そして政をする人を支える。

今の感覚で妾(しょう)は耐えられないというのも分からなくはないけれど、この時代の結婚制度ならあり得ない話ではないし。

で、物語ではこの時の子供、後の大弐三位ですが、一説には道隆の次男との間に子供をもうけていることになってる?

藤原賢子(大弐三位)の系図 (fc2.com)

一つの説らしいけど、今回のドラマと照らし合わせるとびっくりです。知らないとはいえ、祖母の仇の息子と結婚している?

そのあたりの整合性はどうなるんでしょか。

恋愛は障害が多いほど盛り上がるのは鉄則。それで盛り上がるんでしょうが、ここまで拒絶して本当に好きなのかなと思ってしまった。私なら今の夫と別れて、道長の思い人になるかな。どこかにひっそりと小綺麗な家をあてがわれ、来ない時は自分の趣味を楽しむ暮らし。いいなあ。本妻さんその他に嫉妬はするかもしれないけど、何しろ自分がいちばん思われているんです。

いい着物着て、美味しいもの食べて、たまには気晴らしに嵐山付近へ出かけたり・・・いいなあ。


先週はまひろの子供と定子の子供と、新生児を二人も見た。さすが大河ドラマ。そこらあたりも手抜きはありません。生後一月は経っていないと見えます。その圧倒的な存在感に感動した。赤ちゃん、抱きたくなった。

やはりこれは女性の見る大河ドラマですね。

で、添い寝の件ですが、石山寺のXに「寺で添い寝しないように」との投稿があったそうです。私は未確認ですが。まさか真似する人もいないでしょうが、宗教施設でそれは行けませんね。


昨日は午前中、会場当番。来た人、息子一家4人、地元の友達1人、織の友達と先生二人連れ。みんなに一度に出会えてよかった。地元友達は絽の着物で来てくれた。若い時のに見えたけど、着物なので全然違和感なかった。

着物なんて気にせずに着てしまえばいいんです。

一帝二后、やってしまえばいいという安倍晴明の真似ですが。

その他に工芸出品者の奥様と長話。会の偉い人と長話。これからの作品作成についてのアドバイス。もう一人の人からは組織の仕組みを教えられた。

今は私は一兵卒。その上に会友、会員、評議員、理事とあるらしい。

会員を長く務めると審査会の見学があり、評議員になれば審査に参加とか聞かされた。

しかし、出品し続けるのも大変で、会友に推挙されるとやめる人もいるらしい。

作品は人に見られて作品として生きてくる。後の世に残るものはほぼ皆無。しかし無名の無数の作家によって時代を貫く大きな流れが作られるのでしょう。組織を続けるのはなににせよ大変なことです。

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「光る君へ」におけるスマホの充電器

2024-07-16 | 随想

二週間ぶりの大河ドラマ。

石山寺で再会してお互いの気持ちを確認。

場所は宿坊の一室みたいなところ?

寝てる場所、そう広くなさそうです。

枕元遠くの・・・ん?・・・紐?

装束かなんかの紐なんでしょうが、私は一瞬、二人のスマホの充電器に見えた。充電器も絡み合っている~♡

旅先の宿でスマホ充電するのはよくあること。そして、充電器は差したまま忘れて帰る。これもままあること。

お二人様、盛り上がるのはいいけれど、一夜の仮の宿でくれぐれも忘れ物しないように。と思った私でした。忘れ物から足が付くことも。それでホテルなどは忘れ物の連絡は一切しないそうです。自分から聞くと教えてくれる。


昨日は午後から搬入、展示準備、懇親会がありました。

本日も開会式の後、作品の講評、茶話会。そのあと友達と会う予定でほぼ一日出ずっぱりです。

中国新聞の取材も受けましたが、記事にはならないと思います。記者さんは工芸のほぼ全員と話をしていました。新聞社の主催事業なので力が入っているのかなあと思います。

まだまだ未熟な私。年齢と競争しながら、いつまでできるでしょうか。

昨日午前中、息子来る。昔、兄弟で書いていた漫画のノートが必要だそうで。その他に屋上菜園の草抜きするつもりだったらしいけど、草はそんなに生えてなかった。

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今年の反省を少しずつ、楽しいことは先にしかない

2021-11-09 | 随想

山の中の癒し宿、阿讃琴南、昨年。


今年もあと2月足らずになりました。反省には早いけど、し残したことを思い出して、今年の最後の仕上げ。

今年は長くお付き合いた人と私の方から卒業させてもらったり、また新たな出会いがあったり、人間関係も少しずつ変わっていきました。

60代からも臆せずにいろいろな場面に出て行って、もっと友達作ればよかったなと残念な気持ちですが、過ぎたことは仕方ありません。

体を動かすのは不器

 

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秋祭りのころ

2021-11-03 | 随想

少し前、キンモクセイが香っていました。昔は10月初めに咲いていたように思う。

昔はどこにいても濃厚な匂いが漂い、その頃に秋祭り。

今でも、私の中ではキンモクセイは秋祭りの香り。

お祭りに何食べていたかなあ・・・

お膳はバラ寿司(ちらし寿司)、豆腐の味噌汁、醤油豆(乾燥したソラマメを焙烙で炒ってたれに浸ける)、てっぱい(ダイコン、ニンジン、フナまたはしめ鯖の酢味噌あえ、ネギと唐辛子でトッピング)、揚げ物各種(衣に赤、緑の食用色素を豪華に混ぜる)、魚(我が家では刺身のことが多かった)。

食べ終わると「うどんは別腹」と、大なます皿に湯ダメのうどんを勧められる。そばちょこでなくてうどんちょこは同じ柄の大振り、丸い底のもの。以前は骨董市でたまに見ていたけど、最近はそれもない。

昔の農村、お酒はわざわざ買わずに甘酒を手作り。

お土産は一升瓶に詰めて。紅白のかまぼこは定番。我が家では海苔巻きでなく、赤飯、またはバラ寿司だったかも。

この本からお借りしました。

寿司桶は巨大。ベビーバスくらい。一斗くらい作る。

実際、ベビーバスとしても利用していたかも。洗うから大丈夫。昔はそうでしたよね。

なます皿、私の持っているものはこんな感じです。以前上下町で買った。私はちらし寿司に使う。

うどん入れるのはもっと大きかった。もうどこにもない、あったとしても高価な幻の器。


お祭りの楽しみは、親戚の人が大勢来てごちそうを食べて、大人がくつろいで幸せそうなら子供も幸せ。

お小遣い貰って親戚の子と神社へ行く。露店で買い物。小さなおもちゃ、写し絵、ちょっとした食べ物。いまだフリマが好きなのは雰囲気が似ているから?

当時は平日がお祭りで、小学校は5つの町内が校区。自分の町がお祭りの子は、先生が授業の一時間を早引きさせてくれていた。嬉しそうに帰る友達。次は私の番とワクワク待ち遠しい。

お祭りの一週間前くらいから、獅子舞が門付けして回る。甲高い鐘の音が遠くからでもよく聞こえる。それを聞くと気もそぞろ。

獅子舞は二人で。胴の布は武者絵など、絵羽になっていて豪華。獅子は動きが大きく、迫力満点。

キョウクチと呼ばれる唐子に扮した子供二人が、獅子の前で挑発するように踊る。小学校低学年の男の子が選ばれる。これは大変に名誉なことで、獅子舞の一週間は学校も公休扱い。みんなとても羨ましがっていた。学業よりお祭り優先。

しみじみとゆっくりした時代でしたね。

獅子もキョウクチも、秋の初めからけいこ。夜、農家の納屋にむしろを敷いて。

熱気がありましたね。広島県の農山村部には神楽があるけれど、あんな感じでしょうか。

リンク付けておきます。よかったらご覧ください。

2019.5.26「舞」讃岐の伝統 三木町 二條獅子連 - YouTube

現存獅子組800組!独自の進化を遂げた獅子舞の王国へ | 高松観光 | エクスペリエンス高松 (art-takamatsu.com)

獅子舞研究の達人に聴く!さぬき市の獅子舞のヒ・ミ・ツ: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人 (seesaa.net)

昭和40年代、NHKの番組で北海道の獅子舞が香川県そっくり。入植した人達の集落だったそうで。また東京にも香川の獅子舞の同好会がある模様。

胴の部分の布は油単と言うらしい。二人で入り、広くて長くて動きが複雑、それがよその土地とは違うようです。実母は自分の実家地方の獅子頭がとても大きくて、それが自慢でした。それは実用と言うよりは飾り。今もあるのかなあ。。。。


家にいてじっととしているので、気持ちがどんどん昔にワープする私。

獅子舞は我が実家地方では一時廃れていましたが、この10年くらいで昔を知る人が中心に復活したらしい。

とは言え、鉦を打ち鳴らしての一週間の門付けは、都市化してうるさいとか言われそう。子供の公休扱いも無理でしょう。

しかし形を変えてでも文化として残ってほしいものです。


大獅子、ほんとにあった。

冠櫻神社の大獅子|高松市 (city.takamatsu.kagawa.jp)

もうお、びっくり。

 

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ああ、膝が痛い

2021-10-23 | 随想

先月の7日か14日、底の薄い靴で歩いて、それ以来膝が痛い。

なかなか治らない。

それで秋晴れの本日は、家にいて整理片づけいろいろ。

スカーフ洗う。

左2本は模紗織り、自分で織った。

右は15年前に、伊勢のおかげ横丁の帯締め屋で購入。組み紐の技法で作るマフラー。

いずれも洗剤で洗ってすっきりした。

スカーフぞろぞろ。

カルダンの正方形のスカーフは、勤め始めた年の年末ボーナスで、買った。

給料が2万円ちょっとのころに3千円消費税なし。いかにも高い。

翌年の結婚式の前日買ったスカーフとつないで、海外旅行でよく使った。

山小屋泊まりの北アルプスの登山にも。でも、ヨーロッパも山もこれからは行かない予感。

でも首に巻いてみたら、しっかりした生地でおさまりがいい。かさばらないし。

これからたまには使いましょう。

最近使ったの以外は捨てるつもりで洗濯ネットに入れ、・・・結局しまう場所を変えただけ。

芸州皿屋敷。

本日追加。15年くらい前、転写紙(シール)を貼り、周りに絵の具で木や草を描き足し、窯で焼く。今年初めまで延々19年近く習っていた。


骨折したのかなあ・・・と夫に訴える。全然覚えがないけれど。

痛いのは18年前、息子の自転車に乗って足がつかずに転倒、膝蓋骨を骨折した場所。

先月の高知旅行で難儀して、だいぶ治ったので駅裏の二葉山へ行ってぶり返し、今週は毎日くらい出かけていたので、また悪くなった。

しばらくは遠くへの外出は見合わせましょう。

やれやれ、加齢のスピード、かくのごとく疾く。


最近、コメント規約に同意するチェックが必要になった?

前にはなかった気もするけど。ネットの書き込みは慎重にしたいものです。

暇な人が遊びでするのではなくて、時間あるなしに関係なく、依存症だそうで。

せっかくのツール、人を不幸にしてはいけませんね。言われる方はもちろん、書く方もそう幸せではないと思う。そこで自己表現せずにもっと楽しいことを見つけましょう。

明日は友達が遊びに来る。長話の予定。

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家を継ぐ・・・友達の場合

2021-10-22 | 随想

今年も柿の季節。3年前、描く。


彼女とは一年間、とても仲良しだった。同じクラスで出席番号も近く、家もまあまあ近く、一年生の時は同じサークルだった。

学校ではいつも一緒、放課後も勉強する名目で教室に残っておしゃべり、下校も途中まで一緒、たまにはうどん屋へ寄ったり、ソフトクリーム食べたり、県庁のピロティや屋上の喫茶室で長話したり。

何を話していたかって。

他愛ないことです。女の子、男の子、若い先生のうわさ話、それから中学時代のこと、お互いの家族のこと。よくもあんなに話ができていたと、呆れるばかり。

違っていたのは彼女はすらりと背が高くて辺りを払う美人、私はすらりと背が高くなくて容姿は並み、何で仲良くなったかと言うと、彼女は新しいクラスで友達作り損ねて、フリーだった私に声かけてくれたとのこと。

私は昔も今も一人でも平気なので、そういう発想がなかったけど、確かにクラスに一人は親しい人がいた方が何かと便利。そして結局は楽しい。楽しい一年間だった。


私の通った高校は一学年千人近いマンモス校。第一次ベビーブーム世代。旧制女学校時代からの三階の校舎の上に継ぎ足して急遽四階建てに。高い建物のない時代、その四階の教室から北を見ると、海と本土と行き来する船がたくさん見えていた。

美人の常として、周りに男の子がわらわらと寄ってくる。中にはスペック高い子も。修学旅行ではいっぱい写真撮ってもらった。友達が目当てだけど、私も写り込んでいるという。。。あの時の男の子たち、どうもすみませんでした。

Q君は、最初は彼女の男友達の一人だったかな。いつの間にか私とも話をするようになり、学年の後半では結構気が合ってよく話をした。その頃の彼女はステディな彼氏がいて、一緒によく下校していたから、今思えば私と下校していたのは前半だったかもしれない。

高校生のデート、ささやかなものです。一緒に帰るのがせいぜい。私も雨の日は電車で通学していたので、バス通学のQ君とバス停まで歩いて帰ったこともあるけど、うーーーむ、詳細は失念。

それより、教室で、自分が書いたエッセィなど見せてもらった。小説も、短編だけど書いていたらしい。そんな話をしているととても大人になった気がした。


楽しい時期は長くは続かない。最終学年では進路別にクラス分けがあり、彼女は家業を継ぐ立場だったのでお父さんから県外の進学はまかりならん、婿を取って家を継ぐべしと言明されていて、就職クラスに。

Q君は理系に、数学、物理との相性が極めて悪い私は文系に。最後のころはQ君に数学をたまに教えてもらった。とても頭のいい人だった。何でもスッキリとわかるらしいのがうらやましかった。

友達はとても進学したそうだった。県内の短大でもいいから行きたいと、クラス分けが決まった後で変更したいと先生に言いに行ったけれど、結局は就職クラスになった。

私はQ君とたまに手紙をやり取りしたり、校内で会うとちょっと話したりという緩やかな関係。同級生の中には二人で相談して、東京なら東京、京都なら京都と同じ場所へ進学する人もいたけれど、私はそこまでの仲ではなく、いろいろな事情で今の地に。Q君は東京のさる大学に現役合格して、進学後も、帰省の時は会ったりする関係が続いていた。

地元銀行に就職した友達に、Q君と付き合っていると話のついでに軽い気持ちで言ったら、その後、その友達から会わないかと誘われたとQ君の話。

私はああそう、という感じ。その頃は、進学した私と地元にいる友達、次第に話が合わなくなっていた。Q君は一度会ったと後で話してくれた。やはりああそう、という感じ。


私は高をくくっていた。流れが逆に向くことはないというのが一つ、それと彼女の立場。婿を取って、その人に自分の姓を名乗ってもらって、家業を継いでもらう。初めは親の見習い。相手への要求がめちゃくちゃ高い。

私は男の兄弟がいるし、先祖から受け継いだのは広い農地だけ、親はその頃会社勤めもしていたけれど、大変に身軽。どこへでも嫁に行ける。

若いのでそこまで意識していたわけではないけれど、Q君は友達の相手としては不適格だったのでしよう。結局彼は大手企業の偉い人になって定年まで勤めあげ(これはまた聞きとネット検索)、都会の人になっているらしい。きっと元気で生きているはず。


最近、皇族の結婚から始まって、庶民でも家を継ぐってどういうことかなと考える機会が多くなった。友達は、高校の時から男友達からの手紙は父親が開封して中身を読み、娘が恋愛していないか監視していた。と聞かされた。

それは家業を続けるために。娘の人生よりは続いてきた家が大切。そう考えるお父さんだった。どう考えても人権侵害。でもそういうことがまかり通る時代でもあった。

結局、彼女は勤め先で条件に合う人に出会い、早々と結婚し、子供に恵まれ、仕事も広げ、ご両親も見送って・・・と言う顛末を前の同窓会で再会して聞かされた。

仲良くしてもらって有難うと私はお礼を言ったけれど、次に少人数で会うからと誘った時には彼女はとうとう来なかった。彼女なりに何か鬱屈するものがあったのかもしれない。

きょう電車に乗ってぼんやりそのことを思い出すうち、もし立場が逆だったらどうしたかなあとふと思った。

私が好きな人をあきらめて、家を継いでくれる人と一緒になり、友達が自由に生きているのを見る立場なら。

Q君を呼び出して会った彼女。大学の話を聞かされたと後で私に話してくれた。ありがとう。でも彼女の立場でそれ以上の仲には進めなかったのでしょう。彼女には親も家業も大切と言う長女の責任感があり、誰とでも付き合ってその人と結婚して地元を離れるというわけにはいかなかったのでしょう。

辛かっただろうなと、50年も経ってやっとそのことに気が付く私。若い時はそのことに気が付かず、休みに帰って会っても大学の話を無邪気にして、相手がどう思うかにまで気が回らなかった。ごめんなさい。

それでも付き合ってくれていた彼女の気持ちを思って、ちょっと泣けてきた。最近涙腺が緩んでばかり。


男も女も家を継ぐというのは辛い。分けても辛いのは、女ばかりの長女の場合。私たちが若いころはまだ姓を変えて養子に来てもらうという感覚。

家を継ぐという感覚がなくなった今は、男も女も生きやすくはなったと思う。それは社会の大半の人が勤め人になったことと対をなしているのかな。

名字を継いで親を見送って墓を守って。それがもはや形骸化した「家」の最後の機能。それもまたやがて解体していくのかもしれない。社会の変化に合わせて。

社会の流れに逆らえる人は稀。流れの中でいかに自分らしく生きるか、それがまあ順当かと思われます。結局は個人の幸せではないでしょうか。幸せになるために人は生まれ、幸せになるために泣いたり笑ったりしながら生きていくのではないでしようか。

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皇室関係、もひとつリンク

2021-10-21 | 随想

落ち葉いろいろ。二年前に描く。


「なぜそこまで怒り続けるのか」"眞子さま結婚肯定派"の私がネットに抱いた深い失望 最後まで溝が埋まらない本当の理由 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

皇室が好きか嫌いかどちらでもないか、これは個人の感覚の問題。

しかし私の周りの好きだと表明する人は、考えが古く、物事を杓子定規に考える人が多いように思います。

また日本の近現代史にもほとんど無知、分かりやすい、テレビや週刊誌の見出しなどの言説になびく傾向があるように思います。

上のリンクの中で、結局は自分のアイデンティティを「皇族」という遠い他人に預けられるかどうかの違いとありました。

はたと膝を打つ。全くその通り。好きな人はその価値にあやかりたいと思っているのでしょう。

私ですか?

制度の中の人たちには、好き嫌いの感情は持っていません。だって、直接知らない人だもの。好き嫌いの感情の持ちようがありません。

中の人、特に女性が批判されるのは昔からよくないと思っていました。批判はすべて男性目線。昭和天皇の植えた木を切らせたと言われた人、男の子を産めと追い詰められた人、「いかがわしい人との」結婚に口出しされ批判された人。

この国の人権意識がこの程度かととても残念に思って来ました。

私の嫌いなのは制度を持ち上げて、自分は偉いと錯覚して、敬わない人間を責める人。敬う心を利用して、自分の考えを押し付けたり、商売に利用する人。

私の祖母は息子が戦死したので、「産めよ増やせよ、みんな天皇陛下の子や言うてもオシメの一枚もくれずに、大きくなったら戦争にとって殺した」と心底恨んでいました。

軍部に利用されただけ・・・戦後ずっとその説がまかり通ってきました。これはまた話が広がってしまうけれど、昭和40年代終わり、アメリカ訪問前の記者会見のことを私はよく覚えています。

中国新聞の記者の、(原爆被害者をどう思うかという趣旨の質問だったと思うのですがの)問いに、気の毒だったけれど戦争中のことで仕方なかった。私はそういう方面は研究していないのでわかりませんという答えだったと思います。

政治的発言を避ける、戦争責任に言及しないための慎重な言い回しだったと思いますが、戦後の天皇制の断面が見えた一瞬でした。

制度は形を変えて生き残る。しかし、軍国主義教育で大きくなり、建物疎開中に死んだ10代の子供たちはあの時、もう一度死んだと思いました。もう少し言い方変えると慰められた人もいたでしょうが、あれでは全然救いようがない。

私が感じたのは深い空しさでした。何かを信じ、それに入れ上げるのはやめよう。その思いを深くしました。

あなたが好きなのは止めません。しかし、好意は一方的。制度が残って行くためなら、それに応えてもらえないばかりか初めから無視されることもあります。そのことに早く気が付いてください。一庶民なんて、それだけの存在です。


無条件降伏を内容としたポツダム宣言の受諾がなぜ遅れたか。

それは国体の護持にこだわったからではないですか。天皇制がなくなる・・・それは当時の為政者にとって思っても見ない状況だったのでしょう。

もたもたするうちにヒロシマ、ソ連の参戦、ナガサキがあり、死ななくてもいい人がたくさん死にました。

ポツダム宣言の国体条項の英文をどう解釈するか、外務省と軍部でのやり取り・・・なんかの本で読んだ気もするけど、ばあちゃんの記憶は茫々と。何の本だったかなあ・・・

今朝は、祖母の嘆きの声を思い出して、また涙が出た。男の子三人を産んで育てた私は若い男の子が死ぬ話が本当に嫌い。それが私の天皇制の原体験です。

 

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男系の危機、我が家の場合

2021-10-15 | 随想

人様のお宅の心配している場合ではない。

我が家の男系も先細り。

系図書いてみました。

赤丸が夫です。分家した夫の祖母以外の女性は省略、男性のみです。

夫の系統は大正の初めころ?夫の祖母(一人娘)が養子を取って地主の家を継いだところから始まります。

養子は曽祖父と番頭さんで吟味、九州から若い医師を婿として迎え、長男もできたころに祖母にはうんと年の離れた弟ができます。この人は後妻の子供です。

男子なので家督を継ぎ、祖母一家は敷地内に家を建てて分家します。

祖母には三人の男子があり、次男が夫の父親、我が舅様です。

分家したとはいえ、裕福な暮らしだったらしく、子供には一人づつ、小作人の家から子守りが来ていたとのこと。子守りをしながら行儀作法も習うのでしょうか。祖母は何でもできる人だったので、縫物なども教えていたはず。ぼんやりしていては大家の奥様は務まりません。

太宰の「津軽」の世界ですね。

しかしながら養子に来た夫の祖父はわずか40代でなくなります。働きすぎて腎不全になったと聞きました。田舎のことで医師が少なく、とても忙しくて体を壊したと聞きました。今のように透析もなく、最後は「モヒ(モルヒネ)打ってくれ」と言いながら亡くなったとか。

18歳で医師になり、40代でなくなる。生き急いだ人生でしたね。写真見ると髭を蓄えて老成した風貌。昔の人は早くに大人になっていたのでしょう。

その時我が舅様は高校生で、遺言で「お前は医者になれ」と言われたそうです。その後、某帝大の医学部に進み、学費は夫から言うと曽祖父が出してくれたそうですが、長い休みが終わる時に本家に挨拶に行き、次の休みまでのお金をもらう。遠慮して最低限しか言わないのに、それよりまだ少なくしかもらえなかったと生前話していました。

父親がなくて、たとえ身内でも人に頭を下げて学費をもらうのがどんなに辛いことか、息子たちが勉強しない時には私も腹が立って、この話をしたのですが、親がいて当たり前、親が学費出してくれて当たり前の息子たちには全然伝わりませんでした。

えー男系の話でしたね。

夫の親世代は本家分家併せて4人の男子。全員結婚して、全員男の子に恵まれます。

夫の世代では倍増して8人の男子。

しかし結婚したのは半分の4人。そのうち男子が生まれたのは2人。女の子だけが1人、子供がいないのが1人。未婚が半分の4人。成人する前の死亡は原爆死に水死です。

さらに息子の世代になると、男の子は半減して4人。

そのうち未婚2人、子供なし1人、男の子がいるのは我が長男だけ。その子は7歳。家制度はなくなりましたが、◎◎という姓を継ぐのは(たぶん、結婚相手の姓を名乗らない限り)その子だけになりそうな予感。

しかも7歳の孫、4歳のころ、「**クンは下品なこと言って嫌われているから結婚できない」と申していました。その頃、何にでも「うんち」を付けて大人が嫌がるのを面白がっていたのです。

「大丈夫よ。まだ間があるからそれまでに直せばいいのよ」と言う祖母。

こうして略系図を書いてみると、男系を続けるのが一庶民の家でも難しくなっているのかなと思います。

もちろん嫁いだ女性もたくさん、そちらの子孫もいるので、女系で書いてみれば賑やかなはず。今度機会のある時に。


簡単なファミリーヒストリーみたいになりましたが、私の実家は純粋庶民、結婚してから聞かされる夫の本家筋の昔話には驚くことばかりでした。

年貢を持って来る日には小作人は全員座敷に上げて、酒食のもてなしをする。

用心が悪いので駐在所を屋敷のすぐ外に誘致する。

地主としての経営は有能な番頭に任せ、特定郵便局を始める。

お金出して橋を作る。

陸軍大演習で何とかの宮(竹田宮でないことを願う)の休憩所になった時に、事前に手洗いを新設。

流しの絵描きや琴の教師などが半年くらい滞在する。その間にふすまや掛け軸の絵を描いてもらったり、夫の祖母は娘時代、そうして琴を習ったそうです。

まだまだたくさんありますが、自慢話になりそうなので止めておきます。

私が嫁いだ1970年代は地主制度がなくなってまだ25年くらいしかたっていません。四国の小作人の娘と思われていたのかも。我が家の相手にふさわしくないと思われていたのかも(戦前は自小作で2町歩くらい。純粋の小作人ではありませんが、まあそんなことはどちらでもいいけど)。

いまだ未婚の夫と同世代の人は、親が家柄に釣り合う相手を探すうちに結婚しそびれたとのこと。

釣り合うとは何?

本人同士、この人と思うのが、いちばん釣り合っているのでは。そうしないと家系はどんどん先細り。

皇族の結婚でその原則を改めて思った私でした。

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