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「あの頃のこと」 吉沢久子27歳。戦時下の日記 吉沢久子

2013-08-23 | 読書

吉沢久子さんは、時々新聞に登場する家事評論家で、最近は老いに関する本も出している。ふくよかな方で、とても若く見える。拝見するだけで、私たちのおばあちゃんという安心感。


この本は昭和19年の11月、初めて東京に空襲警報が出された日から始まって、敗戦後8月21日までの東京の市民生活の記録である。

当時彼女は速記者で、評論家古谷綱武の秘書を務め、古谷の出征と家族の疎開で空き家になった家の管理をしながら、鉄道関係の教科書会社に勤める身でもあった。勤めのないものは徴用されるので、つてを頼っての就職である。

毎日毎日の暮らしの記録、これが大変面白かった。空襲警報ははじめのうちは避難していたけれど、あまりに度々なので慣れてしまっていちいち防空壕に避難しなくなったこと。これは逃げたって爆撃されるときにはされる。うんと不運の分かれ目なんて、自分でどうしょうもない。いうなれば、しょっちゅう雷が落ちるような感覚なのかもしれない。

食べものは配給、これがものすごく少なくなってくる。家には新聞社の寮を焼け出された弟綱正(この人は私の若い頃ニュース番組に出ていた)と同僚が転がり込んできて、三人の共同生活が始まる。乏しい食料で工夫して調理するのは吉沢さんの役割。食料は店で買うよりも、配給、知り合いが持ってくる、会社の誰かがどこかから手に入ったと持ってきたものを買うなどが多い。庭の野草や木の芽のようなのも活用し、誰かが来たら食べさせてあげる。また隣へ料理のお手伝いに行って御馳走を呼ばれるなど、市民が助け合ってサバイバル生活をしていたのがよく分かった。

会社も殆ど仕事がなく、電車も停まるので通勤も不便で、末期には空襲を受けたところを整理して会社として開墾を始めるが、野菜を作る前に戦争に負けてしまった。

当時は生産も流通もめちゃくちゃで、田舎に親戚のない都会の人は食べものの確保に、本当に大変だったことだろう。

望みはゆっくり寝ること、家が焼かれませんようにとそれだけ。20年の初夏のころになると、戦争に敗けるのではないかと何となく不穏な感じがするのは、綱武氏から話を聞いていたからだろう。

戦中派も本当に少なくなった今、声高にではなく、戦争を告発する良書だと思った。


きょうは午前中出かけたけど、午後から雨ということで家にいた。閑なので三つも記事書いたじゃないの。結局、夕方小雨が少々、余計蒸し暑い。ガックシ。。。

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