片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

大久保茂さまのこと

2007年10月25日 | 私の正論
まだソフトウェアビジネスが認知されていなかった昭和41年、株式会社シーエーシーは、独立系ソフトウェアハウスとしては日本で2番目の会社として産声を上げた。その創業社長だった大久保さんが亡くなった。私は、25歳から36歳までの11年間、大久保さんのCACで働いた。日本にソフトウェアの価値を知らしめ、SE単価が日本で一番高い会社であり続けると、いつも言っていた。他のソフトハウスから、CACさんが単価を維持してくれるので助かるという声を聞いたものだ。しかし、そんな発言とは裏腹に、大変温厚な方で、私のようなはねっかえり者を、こよなく愛してくださった。大久保さんがいてできたことは計り知れない。sompomate,OA/1など。その偉大さを最近富に感じていた矢先だった。私の人生に大きな贈り物をしてくださった大久保様、ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

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9 コメント

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同感の至り (高島健一)
2007-10-26 09:20:15
大久保さんのことは、まだ社外には積極的に公表する段階でないようですが、ある程度は情報が広まっているのだろうと思い、検索してみたら、思いがけず片貝さんのブログを発見してしまいました。
大久保さんについてのご意見については、まったく同感です。大久保さんが社長でなかったら、私もCACの広報をあんなに長く続けていなかったろうと思います。経営者として志は高く、懐は深く、アンテナは鋭い方でした。そして、何とも言えない人懐っこさがあって、新聞・雑誌の記者も、ある時期までは、コンピュータ・ソフトウェア業界に何かあると、とにかく大久保さんの見方・考え方を聞きたがりました。
ところで、「独立系ソフトウェアハウスとしては日本で2番目の会社」と書いておられますが、日本で最初と言っていいはずです。たぶん片貝さんが1番目と考えておられる会社は思い当たりますが、その会社より早くCACが創立されているはずです。ただ、操業を開始したのは、その会社よりも遅くて2番目ということになるのかもしれません。ここは重要な問題ですので、片貝さんが「1番目」と考えておられる会社の社名を教えて頂けるとありがたいです。
なお、小生、2年ほど前にCACを辞し、現在は独立してフリーランスのライター、エディターとして活動しています(まだ細々とですが)。
いずれにしても、ぜひまたお会いして、いろいろな話を聞かせていただく機会があればと、期待しております。
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ごぶさたしております (片貝孝夫)
2007-10-27 07:48:13
お久しぶりです!ぜひ一度お会いしたいですね。ご連絡ください。
高島さんは広報で、大久保さんにいつも付き添っていましたね。懐かしいです。
私が書いた日本で最初のソフトウェアハウスというのは、しばらくして倒産した「日本ソフトウェア」と聞いていましたので、CACは二番目と書きました。どうなんでしょう。
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お通夜に行ってきました。 (菊池 道義)
2007-10-28 04:12:03
ご無沙汰をしております。
1992-2004年までCACに在籍していました菊池です。

10/26 お通夜に行ってまいりました。
雨の中永福町のお寺であの柔和な笑顔の大久保さんに
別れを告げてまいりました。
昔C/Sシステム黎明期にPowerBuilderのセミナーを
一ツ橋センタービルで開催した際に、トイレで大久保さんと会い

「今日は何のセミナーだい?」

と聞かれ

「PBです。」

と答えたところ

「あれはいいね。USへ行った時にイケルと思ったよ」

と仰っていたことを思い出しました。
一つの時代が終焉を迎えたことを感慨深く思います。

私個人は今年IT業界を離れ西新宿にあるAIGエジソン生命で営業として勤務しておりますが、同じビル内にあるCSKシステムズさんの社員の方々の会話をエレベータ内で聞く度に『苦笑』しております。

因みに私は古くからのPHSユーザーですが、業務でW-ZERO3[es]を使いたいとは思いません。
やはりiPhoneでしょう!?
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菊池さん、お久しぶりですね (片貝孝夫)
2007-10-30 02:07:55
片貝システム研究所が立ち行かなくなったとき、光山さんに救われ、さらに、そもそも飛び出した会社であるCACの大久保さんに救われました。大久保さんからなんと言われたと思いますか。「自分の金で苦労してきたから許す」です。最初のCACのとき、いかに金を使ったか、ということなのでしょうね。でも、金銭的にも本当に助けられました。
で、実は白状しますが、葬儀の日にちを間違えていました。私はてっきり日曜日と思って、蓼科から朝7時前に起きて、車を飛ばして葬儀の時間に間に合ったのですが、だれもいないのです。葬儀は土曜日でした。呆然自失とはこのことです。ああ、やはり最後まで迷惑をかける運命にあったのだ(ただの不注意ですが)と天を仰ぎました。光山さんにお詫びの電話をしたら、このブログのことをだれかが話していたよと言ってくださいました。まったくいい歳して、情けないやら感激するやらです。
菊地さんとは、1995年から99年までの4年弱のおつきあいでしたね。今はAIGですか。Biz/Browserを見てくださいね。役に立つはずです。失礼しました。
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御礼 (大久保)
2007-10-30 19:31:20
片貝さま

故 大久保 茂の弟 大久保 宏です。
大変すばらしい弔辞をいただき感謝申し上げます。
兄は5年前より痴呆症を患い、杉並の浴風会病院に入院
10/23死去いたしました。
故人、茂兄はまさかIT産業が15兆円に近い規模になつたとは、想像し得ないまま他界いたしました。
これも皆さんの協力あつてこそとおもつております。
今日web2.0、あるいはSNSなどwordのFlat化という難しい時代こそ片貝さんや皆さんに新しい門とを開いていただくことを、きつと故人はあの世で期待していることと思います。
再度感謝致しております。

大久保 宏
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恐れ入ります (片貝孝夫)
2007-10-30 21:38:51
たいへんご無沙汰しております。神保町の小学館ビル9階は、まさに青春でした。その節はたいへんお世話になりました。私が出戻ったとき、会長になられていた大久保さんは、満面の笑みをたたえて、私の席にも時々来られました。人生楽しくてしょうがないという雰囲気を、いつも漂わせておられる方でした。
最近私も言われたことがあります「片貝さんはいつも元気だね」と。ソフトウェア業界をどうするか、いつも考えていた大久保さんと同じように私も考えているので、落ち込んでいる暇がないのかなと思います。
大久保 宏様からコメントをいただけるとは思っていいませんでした。ほんとうにお懐かしゅうございます。しのぶ会が予定されていると新聞にも書かれていました。お会いできることを祈念しております。ありがとうございました。
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日本で最初の独立系ソフトウエア会社 (高島健一)
2007-11-01 09:30:47
片貝さんの頭にあったのは、やはり「日本ソフトウェア」でしたか。誰から聞いたのか忘れてしまいましたが、創業メンバーの誰かから、次のような裏話を聞いたことがあります。
昭和41年夏、CAC(コンピュータアプリケーションズ)の設立準備を進めている頃、「日本ソフトウェア」設立の計画を誰かが聞きつけ、2番目になるのは悔しいから、そこより早く会社設立登記だけでも済まそうということで、10月頃設立予定で準備していたのを、急遽、8月8日に(日本ソフトウェアより先に)登記だけ済ませてしまったというのです。8月創立、10月創業、という妙な形になっているのには、そのような背景がある、と。
既に倒産してしまった「日本ソフトウェア」の設立年月日を調べてみても、せんがないので、裏は取っていませんが、いかにも大久保さんの考えそうなことではありませんか。
一応そういう裏づけ(伝聞情報ですけれども)があって、私が入社する以前から、CACは堂々と「日本で最初の独立系のソフトウェア開発専業会社」と謳っていました(大久保さんは「ソフトウェア・ハウス」という呼称をとても嫌っていました。それじゃ家の中でソフトウェアを作っているみたいだ、と言って)。
なお、私は、季節はずれの台風が駆け抜け土砂降り雨の中、告別式に参列してまいりました。葬儀に雨が降ると「涙雨」と言ったりしますが、大久保さんともなると台風を呼び寄せてしまうのか、やはりスケールの大きな人は違うな、と勝手な感慨にふけっていました。
何だか、長文の書き込みになってしまいまして、失礼をいたしました。
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そうだったんですか (片貝孝夫)
2007-11-01 23:20:21
ソフトウェアハウスという言葉、大久保さん、嫌いだったのですか。知りませんでした。創業の裏話も。
日本で最初の独立系ソフトウェア開発専業会社ですね。自分を紹介するとき、それを使わせてもらいます。
いずれ、お別れ会が開催されるようですから、今度は日にちを間違えないようにしたいと思います。お別れ会でお会いしましょう。
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高島さん (大久保)
2007-11-04 11:11:23
高島さん

CAC設立の経緯の1部をお話いたします。
昭和40年(1965)NBC(現日立情報)で故人は東京営業所電子計算機部部長、私は名古屋営業所課長として勤務しておりました。
当時、我が国の企業はきそつて機械化を推進、導入には技術者をたくさん必要とし子会社社長であつた北川宗助のもと、電算機部の規模もかなり多くなり、将来を見据えて日立製作所としてNBC電子計算機部を本社に吸収案が浮上、東京、大阪の幹部を名古屋に集め数日間に渡り社員の将来を議論し、独立Gと残留Gに色分けし、故人+中江氏他渡辺、遠藤さん達40名弱でNBCで小学館にHITACを導入させた責任者であつた故人を中心に、我々賛同者がそれぞれ資本金を持ちより、虎の門たばこビルで創立しました
(資本金600万円)。社名は当時米国で著名であつたコンピユーター アプリケーションズの社名とビジネスモデルを借用、日本ではAPの外注の商習慣が出来ていない時代に、独立soft会社として発足したわけです。最初から一番を目指したわけではありません。

大久保
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